2021年9月9日木曜日

#京都近代化を遡る#【06.平安遷都千百年記念事業】

京都近代化を遡る【06.平安遷都千百年記念事業】


 「平安遷都千百年記念祭」は平安遷都から1100年目を記念し、1895(明28)年、第4回「内国勧業博覧会」と時期を合わせて挙行された。3月には「平安神宮」が完成し、記念祭は10月22日から3日間にわたって挙行された。25日には紀念祭の余興として時代行列が行われ、翌年からは平安神宮の「時代祭」として現在に続いている。

 内国勧業博覧会は、1877(明10)年から東京上野公園で、第1回から第3回まで開催された。そして、平安遷都千百年紀念祭にあわせての強い誘致運動の結果、1895(明28)年の第4回内国勧業博覧会の開催地は京都に決定された。京都市の政財界は総力を挙げて誘致活動を展開し、国務大臣も関与する国家的な行事とされた。

 内国勧業博の開催地は岡崎(現左京区)の地に決定され、まず記念事業として、この地に平安宮朝堂院大極殿と応天門を、実物の8分の5の規模で復元した神殿が造営され、桓武天皇を奉祀する「平安神宮」として3月に完成した。

 記念祭式典は、勧業博開催中の4月に催される予定だったが、諸事情で延期され、10月22日から3日間にわたって挙行された。そして10月25日に行われた時代行列は、翌年以降、平安神宮の「時代祭」として、毎年この時期に開催されるようになり、葵祭・祇園祭とともに京都の三大祭りとされている。

 勧業博の会場となった当時の岡崎は、水田と蕪(かぶら)畑が広がる土地だったが、その地に、工業館・農林館・器械館・水産館・美術館・動物館や各府県の売店飲食店などが建てられた。出品点数17万点、入場者は4月1日から4か月の会期中、113万人をこえる盛況だった。

 大事業となった琵琶湖疎水が開通しており、そこに設置された蹴上発電所で発電される電気を利用し、「京都電気鉄道会社」によって日本最初の市街電車が走り、勧業博開催にあわせて七条停車場(京都駅)と博覧会場が結ばれて、博覧会場への足となった。こうして、博覧会開催は京都の経済・文化の復興と再生に大きな役割を果たしたのである。

 ほかにも、平安遷都千百年紀念祭を行うに際して、平安京をひらいた桓武天皇のゆかりの寺社名勝遺跡保存のための補助が、熊野神社拝殿・坂上田村麻呂の墓・東福寺山門・神泉苑・長岡京遺跡など31件に適用された。

 また記念事業のひとつとして平安京の実測事業がなされ、羅城門の位置が確定され、「羅城門遺址(南区唐橋羅城門町)」の石標がその地に建てられ、大極殿の位置も実測して定められ、「大極殿遺阯(上京区千本丸太町上ル)」の石標が建てられている。

 そして、記念祭や博覧会で海外や全国各地から京都を訪れる観光客のために、京都の寺社は特別拝観を実施し、建物や宝物を一般公開した。これは、「近代観光都市京都」という新しい顔を全国に発信するとともに、廃仏毀釈の波に襲われた寺院仏閣の復活の起点ともなった。

 平安遷都千百年記念祭と第4回内国勧業博覧会の主会場となった岡崎公園は、その後、次々と施設が設置され整備されていく。京都市美術館(京セラ美術館)・京都国立近代美術館・京都会館(ロームシアター京都)・京都市勧業館(みやこめっせ)・岡崎グラウンド・京都府立図書館・京都市動物園など、平安神宮を核に京都の文化・観光・産業施設が集積し、琵琶湖疏水の水路が脇を流れている。

2021年9月6日月曜日

#京都近代化を遡る#【05.京都策第Ⅱ期・京電/京都市電】

京都近代化を遡る【05.京都策第Ⅱ期・京電/京都市電】


 1895(明28)年、民間企業である「京都電気鉄道」により第1期区間が開業し、日本最初の営業用電気鉄道となった。背景には、国内に先駆けて琵琶湖疏水を利用して蹴上水力発電所が建設されたことがあり、その電力の活用に電車が挙げられたのだった。当時は電灯や産業用電力利用もほとんどなく、結果的に京電の路面電車が電力の唯一の使い道となった。

 1895(明28)年2月、京都市南部の伏見から京都駅前付近まで最初の路線が開通し、同年4月、京都駅前から高瀬川沿いを北上、二条で鴨川を渡り東方の岡崎まで延長された。これは京都岡崎公園を会場として第4回内国勧業博覧会が開かれ、その開催にあわせての開業であった。京電は琵琶湖疏水の発電によって電力が供給されたため、発電所の機械故障や琵琶湖の増水などによる停電で、たびたび電車の走行が止まった。

 さらに開業当初は運転技術や設備が未熟で、衝突事故や電圧変動による立往生などもよく発生した。当時は停留所の概念がなく、電車は任意の場所で乗降扱いを行っていたので混乱をまねいた。また、事故を防止するため、先導役の少年が電車の前を走りながら告知していたが、不安定な電圧が突発的に上がって電車が急加速、先導役の少年自身が轢かれるという事故もあったという。

 その後、京都市による路線建設も進められ、競合する京都電気鉄道は、均一運賃制への移行のためもあって、1918(大7)年に市に買収され「京都市電」に統合された。京都市の路面電車は、琵琶湖疎水の水力発電によって供給される潤沢な電力を基にして始められたが、それに重ね、京都の計画的に建設された碁盤の目状の主要道路が電車の運行に都合が良かったことや、人口が多く観光客も多く見込めることなどがあった。さらには、首都東京移転による危機感と市民の進取の風潮が大きく働いたうえに、1895(明28)年の平安遷都1100周年を記念して、内国勧業博覧会が催される事になったことも、追い風となった。

 京都市が京電を買収し競合区間の路線が統一され、大正中期から昭和初期までは市電の第一期黄金時代となった。路線は戦後に至るまで延長され乗客も増大、1963(昭38)年)には一日平均50万人を超える利用となった。しかし昭和30年代の後半からモータリゼーションが進み、さらに市電と競合する市バスや会社バスが増加すると、市電はむしろ主要道路を占有する邪魔者とされるようになってきた。

 1969(昭44)年)、当時の革新系市長により京都市の新たな交通計画が策定され、「十文字の地下鉄路線とそれを補完するバス路線網」が決定され、財政再建の名目で市電路線の撤廃が始められた。1976(昭51)年に全面撤去へと計画が変更され、1978(昭53)年には全面廃止された。なお、地下鉄路線網は当初計画から40年以上が経過した現在も未完部分を残したままで、京都市財政は破綻の危機に面している。その主要原因は、地下鉄建設の膨大な費用負担だといわれている。

 京電時代に「伏見ー京都駅間」(伏見線)や「京都駅ー北野間」(堀川線)など幾つもの路線が敷設されたが、走る電車はいわゆる狭軌(Narrow gauge)用であり、のちに京都市電と統合されたとき、京都市電の広い軌道を走る車体と区別するため「N電」と呼ばれたという。一般に路面電車をチンチン電車の愛称で呼ぶことが多いようだが、京都ではもっぱら狭軌を走るマッチ箱のようなN電のことを、「チンチン電車」と呼んでいた。

 市営化後、堀川線は1961(昭36)年8月1日に廃止され、その他のN電も順次廃止されたが、私はこのころ中学生になったばかりで、東堀川通りを走るチンチン電車を、堀川通りを並走する市バスの窓から眺めた記憶があるが、結局、一度も乗ることがなかった。チンチン電車が廃止になる当日には、記念して造花で飾られた「花電車」が走ったという。

2021年9月5日日曜日

#京都近代化を遡る#【04.京都策第Ⅱ期・琵琶湖疏水建設】

京都近代化を遡る【04.京都策第Ⅱ期・琵琶湖疏水建設】


 京都近代化復興策は「京都策」と呼ばれ、その第1期は2代目府知事「槇村正直」らによって、新産業の奨励や人材育成策として展開されそれなりの成果を収めた。槇村が中央政界に転出したあと、3代目府知事「北垣国道」に代わった1881(明14)年ごろから、なんとか活気を取り戻した京都では、近代的なインフラの整備が必要となってきた。そこで、「第2期京都策」として「琵琶湖疎水(京都疎水)」の大事業が着手されることになった。

 北垣国道は但馬の国の郷士の家に生まれ、幕末の動乱期には生野義挙と呼ばれる尊皇討幕の挙兵を行うなどで、勤王派との親交を強めた。維新後は官軍の一員として戊辰戦争に参加し、そこで功を挙げて認められると、明治新政府の官僚として、高知県令などを経て京都府知事に赴任した。強引な手法によって府民の反発も多かった槇村知事の後任として、北垣知事は好意をもって迎えられた。

 着任した北垣は、手詰まり状態となっていた槇村の京都振興策の見直しに取りかかり、舎密局や織物・染物振興の諸工場などは、一定の役割を終えたとして民間に払い下げ、並行して、新たな政策の立案を進めた。その重要な一つが、京都~大津間に水路を開削し、琵琶湖の水を運輸・動力・用水として活用する「琵琶湖疏水」建設構想だった。

 琵琶湖疏水は、実現当初、舟運・発電・上水道・灌漑用水など多目的で運用されたが、現在では京都市に上水を供給するのが主たる目的となっている。大津市の取水口から京都市東山区蹴上までの最初の水路を「第一疏水」、次いで掘られた先の水路にほぼ沿う全線暗渠のものを「第二疏水」、南禅寺境内を横切り哲学の道に沿って北上し、高野川・賀茂川を横切って堀川に至るものを「疏水分線」、蹴上から出たあと南禅寺船溜を経て平安神宮の前を流れるものを「鴨東運河」、その水路が夷川ダムを過ぎて一部鴨川に流出しその後鴨川左岸沿いに一部は暗渠となって南下し伏見に至るものを「鴨川運河」と呼ぶ。

 琵琶湖の水利構想は古くからあり、その目的は琵琶湖の東方や北方からの水運利用だった。北垣は、京都で殖産興業を推進するために、琵琶湖の水の活用が必須と考え、安積疏水の工事を実現した南一郎平や測量技師の島田道生の協力の下で、1983(明16)年には「琵琶湖疏水設計書」を完成させた。

 趣意書では、主要目的は「水車動力」の確保と「通船運搬」と「田畑灌漑」となっていた。資金面では、首都の東京遷都の手切れ金「産業基立金」などを主材源と考えていたが、工費見積もりが財源の倍以上となり、住民に目的税として賦課することになり、住民から批判の声が上がった。しかし何とか、1885(明18)年6月、琵琶湖疏水建設の起工式にこぎつけた。

 当時の京都府予算2倍にも相当する膨大な費用が投入されて、着工4年後の1889(明23)年3月に、「第一疏水」と、蹴上から分岐する「疏水分線」とが完成された。これだけの大工事には、当時は外国人お抱え技師に頼るのが一般的であったが、事業の主任技師として北垣知事に登用されたのは、工部大学校(現東京大学)を卒業したばかりの青年技師「田邉朔郎(21)」であった。

 琵琶湖疎水の水力利用は、当初、水車動力として工業団地などで活用予定だったが、田邉らのアメリカ視察で計画は変更され、日本初の営業用水力発電所として「蹴上発電所」が建設されることになった。この時期さほど電力需要はなく、その余剰電力を用いて1895(明28)年には、日本初となる「京都電気鉄道」(京電)の運転が始められた。この偶発的な事業変更が、やがて京都人には、日本最初の水力発電と電気鉄道として誇らしげに語られることになる。

 さらに、二条近くの鴨川合流点から伏見までの「鴨川運河」は、1894年(明27)年に完成した。鴨川運河は鴨川東岸に沿って流れ、今は多くが暗渠化されており、あまり目立たないため、鴨川西岸の木屋町通りを流れる「高瀬川」と混同されることが多いが、こちらは、江戸時代初期に角倉了以によって造られた掘割運河であり、いずれも大阪からの水運の終点としての伏見と、京都をつなぐ船便物流として重要であった。

 1895(明28)年から大正年間(~1926)にかけて、「京都策第3期」として展開されたのが、京都市「三大事業」の「第二琵琶湖疏水(二疏水)」・「上水道整備」・「道路拡築および市電敷設」という近代都市に不可欠のインフラ整備の大プロジェクトだった。第二疏水により取水量は大幅に増大され、日本初の急速濾過式浄水場である蹴上浄水場など、現在も京都市民への良質の水道水を提供している。百年来、京都が水不足に悩まされることがないのは、ひとえに琵琶湖疎水のおかげといえる。そこで、何かと京都の陰に隠されることの多い滋賀県民は、「琵琶湖の水、止めたるで!」というのが、お約束となっている(笑)

 琵琶湖の湖水面と京都市街地の間には、50mほどの高低差があるという。この落差を利用して、滋賀県大津から東山蹴上まで「第一疏水」として導かれてきた水は、ここで分岐して「疎水分線」として北上する。南禅寺「水路閣」から「哲学の道」と、現在観光地化している疎水は、この途上にある。

 京都市街地は北部へ行くほど高くなっており、これが「上がる/下がる」という京都人の呼び方のゆえんとなっているが、京都北山松ケ崎周辺まで北上する「疎水分線」は、この京都人の土地感覚に逆行している。実は、東山山麓に沿った勾配を利用して北へ流しているのだという。子供のころ、松ケ崎から下鴨へかけて、「白川疎水」が緩やかに流れる閑静な住宅地に叔父の家があり、何度か叔父の家の前の疎水で遊んだ記憶がある。それが琵琶湖の疎水分線の一部だと知ったのは、後日になってからだった。