2021年9月5日日曜日

#京都近代化を遡る#【04.京都策第Ⅱ期・琵琶湖疏水建設】

京都近代化を遡る【04.京都策第Ⅱ期・琵琶湖疏水建設】


 京都近代化復興策は「京都策」と呼ばれ、その第1期は2代目府知事「槇村正直」らによって、新産業の奨励や人材育成策として展開されそれなりの成果を収めた。槇村が中央政界に転出したあと、3代目府知事「北垣国道」に代わった1881(明14)年ごろから、なんとか活気を取り戻した京都では、近代的なインフラの整備が必要となってきた。そこで、「第2期京都策」として「琵琶湖疎水(京都疎水)」の大事業が着手されることになった。

 北垣国道は但馬の国の郷士の家に生まれ、幕末の動乱期には生野義挙と呼ばれる尊皇討幕の挙兵を行うなどで、勤王派との親交を強めた。維新後は官軍の一員として戊辰戦争に参加し、そこで功を挙げて認められると、明治新政府の官僚として、高知県令などを経て京都府知事に赴任した。強引な手法によって府民の反発も多かった槇村知事の後任として、北垣知事は好意をもって迎えられた。

 着任した北垣は、手詰まり状態となっていた槇村の京都振興策の見直しに取りかかり、舎密局や織物・染物振興の諸工場などは、一定の役割を終えたとして民間に払い下げ、並行して、新たな政策の立案を進めた。その重要な一つが、京都~大津間に水路を開削し、琵琶湖の水を運輸・動力・用水として活用する「琵琶湖疏水」建設構想だった。

 琵琶湖疏水は、実現当初、舟運・発電・上水道・灌漑用水など多目的で運用されたが、現在では京都市に上水を供給するのが主たる目的となっている。大津市の取水口から京都市東山区蹴上までの最初の水路を「第一疏水」、次いで掘られた先の水路にほぼ沿う全線暗渠のものを「第二疏水」、南禅寺境内を横切り哲学の道に沿って北上し、高野川・賀茂川を横切って堀川に至るものを「疏水分線」、蹴上から出たあと南禅寺船溜を経て平安神宮の前を流れるものを「鴨東運河」、その水路が夷川ダムを過ぎて一部鴨川に流出しその後鴨川左岸沿いに一部は暗渠となって南下し伏見に至るものを「鴨川運河」と呼ぶ。

 琵琶湖の水利構想は古くからあり、その目的は琵琶湖の東方や北方からの水運利用だった。北垣は、京都で殖産興業を推進するために、琵琶湖の水の活用が必須と考え、安積疏水の工事を実現した南一郎平や測量技師の島田道生の協力の下で、1983(明16)年には「琵琶湖疏水設計書」を完成させた。

 趣意書では、主要目的は「水車動力」の確保と「通船運搬」と「田畑灌漑」となっていた。資金面では、首都の東京遷都の手切れ金「産業基立金」などを主材源と考えていたが、工費見積もりが財源の倍以上となり、住民に目的税として賦課することになり、住民から批判の声が上がった。しかし何とか、1885(明18)年6月、琵琶湖疏水建設の起工式にこぎつけた。

 当時の京都府予算2倍にも相当する膨大な費用が投入されて、着工4年後の1889(明23)年3月に、「第一疏水」と、蹴上から分岐する「疏水分線」とが完成された。これだけの大工事には、当時は外国人お抱え技師に頼るのが一般的であったが、事業の主任技師として北垣知事に登用されたのは、工部大学校(現東京大学)を卒業したばかりの青年技師「田邉朔郎(21)」であった。

 琵琶湖疎水の水力利用は、当初、水車動力として工業団地などで活用予定だったが、田邉らのアメリカ視察で計画は変更され、日本初の営業用水力発電所として「蹴上発電所」が建設されることになった。この時期さほど電力需要はなく、その余剰電力を用いて1895(明28)年には、日本初となる「京都電気鉄道」(京電)の運転が始められた。この偶発的な事業変更が、やがて京都人には、日本最初の水力発電と電気鉄道として誇らしげに語られることになる。

 さらに、二条近くの鴨川合流点から伏見までの「鴨川運河」は、1894年(明27)年に完成した。鴨川運河は鴨川東岸に沿って流れ、今は多くが暗渠化されており、あまり目立たないため、鴨川西岸の木屋町通りを流れる「高瀬川」と混同されることが多いが、こちらは、江戸時代初期に角倉了以によって造られた掘割運河であり、いずれも大阪からの水運の終点としての伏見と、京都をつなぐ船便物流として重要であった。

 1895(明28)年から大正年間(~1926)にかけて、「京都策第3期」として展開されたのが、京都市「三大事業」の「第二琵琶湖疏水(二疏水)」・「上水道整備」・「道路拡築および市電敷設」という近代都市に不可欠のインフラ整備の大プロジェクトだった。第二疏水により取水量は大幅に増大され、日本初の急速濾過式浄水場である蹴上浄水場など、現在も京都市民への良質の水道水を提供している。百年来、京都が水不足に悩まされることがないのは、ひとえに琵琶湖疎水のおかげといえる。そこで、何かと京都の陰に隠されることの多い滋賀県民は、「琵琶湖の水、止めたるで!」というのが、お約束となっている(笑)

 琵琶湖の湖水面と京都市街地の間には、50mほどの高低差があるという。この落差を利用して、滋賀県大津から東山蹴上まで「第一疏水」として導かれてきた水は、ここで分岐して「疎水分線」として北上する。南禅寺「水路閣」から「哲学の道」と、現在観光地化している疎水は、この途上にある。

 京都市街地は北部へ行くほど高くなっており、これが「上がる/下がる」という京都人の呼び方のゆえんとなっているが、京都北山松ケ崎周辺まで北上する「疎水分線」は、この京都人の土地感覚に逆行している。実は、東山山麓に沿った勾配を利用して北へ流しているのだという。子供のころ、松ケ崎から下鴨へかけて、「白川疎水」が緩やかに流れる閑静な住宅地に叔父の家があり、何度か叔父の家の前の疎水で遊んだ記憶がある。それが琵琶湖の疎水分線の一部だと知ったのは、後日になってからだった。

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