2021年5月31日月曜日

#京の生活もろもろ#【06.京都の「近所付き合い」と「町内会」】

京の生活もろもろ【06.京都の「近所付き合い」と「町内会」】


 「向かい三軒両隣り」という言葉がある。「むこう三軒」というのが一般的らしいが、それはともかく、自宅の両隣りと向かい側にある三軒というのが具体的な意味で、居住の近接に伴って形成される社会関係のうち、とくに日常的に接触交流の大きい家庭をいうようだ。

 これは京都に限ったことではないが、私の育った昭和30・40年ごろには、かなり具体的な意味を持っていた。とくに、サラリーマンで夜にだけしか家にいないのではなく、自宅で織物職人として終日自宅で仕事をしている人が多い私の育った地域では、隣近所とより密接な関係があった。

 基本的には「町(ちょう)」が最小の行政単位で、その30戸ほどの町が、それこそ「向かい三軒両隣り」の5・6戸からなる「組」に分けられていた。形だけだが持ち回りの「組長」があり、回覧板などは各組長から回されるので、一両日中に迅速に各戸が回覧することになる。

 向かい三軒両隣の身近な関係は、毎朝の掃き掃除と水撒きに始まる。自宅前とともに、両隣りや向かいの前の半分ぐらいまで、バケツと柄杓で水撒きをする。これも象徴的で、決して臨家の前まで全部を掃除してしまうと出しゃばり過ぎになり、また自宅の領域だけだと付き合いが悪いとささやかれる。このように京都人の付きあい方は、立ち入りすぎず、それとなく気遣いを示すという微妙な塩梅となる。

 古くは室町時代に成立した町組の伝統は、応仁の乱などで大幅に再編成されながら続いてきた。まず、正方形に形成されたブロックは、徐々に長方形の区画に移行し、さらに「町」の編成も、四方を道路で囲まれた一画の「豆腐型」から、道路を挟んで向かい合わせの一連の区画が町内とされる「竹輪型」に移行していったという。

 豆腐型では自宅の裏の住人と顔を合わせる機会は少なく、一連の向かいや隣りの方が、毎朝の水撒きからしても顔を合わせる機会が大きく、密接なつながりができる。このような生活に密着した繋がりがあるので、町内の結びつきも強く、幾つもの年中行事も、町会を単位に行われる。

 町内会の活動では、春秋にはハイキング、夏場には渓流の川床ですき焼き、そして海水浴といろいろあり、子供にとっては楽しみの行事だった。親に連れられての旅行などはほとんどなく、日帰りの行楽もなしで、せいぜい一年に一度ほど、市バスに乗って百貨店に連れて行ってもらう程度だった。つまり観光バスなどで遠出した経験は、ほとんど学校の遠足か町内のリクレーションばかりだった。

 町内会の単位とは少しずれるが、子供たちの大きな楽しみは、秋の祭礼と夏の地蔵盆だった。祭礼は近くの鎮守の森に祀られた小規模な神社の氏子が単位なので、町会の単位とはずれがあり、隣の町の一部も参加する。秋の祭礼の時には、子供神輿を担ぎ、神社の境内には幾つもの屋台出店がでて、賑やかな行事だった。

 地蔵盆は地蔵菩薩の縁日で、旧暦7月24日の前後に行われる催しだが、各町内の一画に祀られている地蔵の祠の周囲の住人によって行われて、主役は子供たち、大人たちはその裏方で、臨時の板敷きの舞台を設営したり、子供たちに配るオヤツを用意したりする。

 地蔵盆の催しは概ね新暦8月24日前後の日曜日に行われるのだが、うちの地域は織物職人の街で毎月1日と15日しか休みがないので、8月15日に始まって、翌日16日の夕方にはほぼ舞台も撤収されることになっていた。その時間には、子供たちはいったん自宅で行水を浴び、のりの効いた浴衣を着せられて、やがて灯される大文字などの五山の送り火を眺めるのが慣例で、独特の季節感と情緒を醸し出す「夏の終わり」だった。

2021年5月28日金曜日

#京の生活もろもろ#【05.京都人の「排他性」と「いけず」】

京の生活もろもろ【05.京都人の「いけず」と「排他性」】


 「いけず」という言葉は、京都人の専売特許のように言われているが、実際には京都や大阪の方言とされ、関西を中心に幅広い地域で使われている。その意味は「意地が悪いこと。また、そういう人や、そのさま」とされる。それから転じて「悪人、ならず者」という意味もあるとされるが、いまではほぼ使われない。

 「京都人はいけずか?」というのは、問いの立て方が正しくないだろう。どこにも「いけず」な人物は一定の割合で居るだろうし、それは京都でも同じである。ただし「京都人はいけず」というイメージは定着しているし、そう思わせるような文化的状況は存在する。

 その一つは、前述したような京言葉の二重的な表現で、その裏のニュアンスを理解できない「よそ者」には、明らかに「いけず」だと思われるであろう。しかしその表現者は、同じ京都人にも同様の表現をするだろうし、その場合に意図的な悪意などは無い。つまり、受け取る側の誤解に基づく「いけず」もあると想像される。

 もう一つ、京都に固有の「排他性」から来るものもあるだろう。京都の街は三方を山に囲まれた盆地で、古くは豊臣秀吉が御土居で街を囲い、「洛中」の枠組が出来上がっている。つまり、京都は「内と外」の区別が物理的にも明瞭で、これは京都ほどの大きな都市では珍しい。

 その上に、何よりも千年以上も都であったことで、政治以上に精神文化の中心を占めてきたわけで、そのことから来る住民の特別意識はやはり強いであろう。それは自分たちの文化を守ろうとする意識が強いとともに、その文化にそぐわないと思われるものを見下げて排除的に振る舞うこともあるだろう。

 それらのことから「京都人のいけず」という話題が発生する。当然ながら、「いけず」と思われる現象もよくある。京都外から転校してきた生徒では、明らかにいじわると見えるイジメがあるだろうし、それはやる側は遊び半分でしていても、された転校生徒は、誰にも言えない差別を強く感じるはずである。

 いずれにしても、無意識な習慣からやっている行為でも、外からやって来た人には、意図的な「いけず」で、京都人が一体となって自分を排除しようとしていると感じることは、往々にして有り得ることであり、そのことはより強調して伝えられ行くと考えられる。つまり京都人の意図や性格とはまったく別に、外部から来た人には「いけず」と受けとられる場面が多いということである。

2021年5月27日木曜日

#京の生活もろもろ#【04.京言葉の裏表】

京の生活もろもろ【04.京言葉の裏表】


 京言葉の裏表と言えば、まず「ぶぶ漬けでもどうどすか」と来るが、さすがにこれは落語あたりから出た笑話に近いだろう。しかし、そこそこ長く居た客が、そろそろいとまをと腰を上げだしたときに、まあまあごゆっくりと、と引き留めるパターンはよくある。もちろん本気で引き留める気はなく、客の方も腰を下ろし直すことにはならない。

 ある種のお約束シーンと言うわけだが、客が京都の人でない場合は、じゃあもう少しということになるかもしれない。そういう場合には、しまったと思った奥さんが「ほんならお茶漬けでも用意しましょか」などと言うことは考えられる。いずれにせよ、相手の気配を読みながら、微妙な言葉遣いをしているのは間違いない。

 こういう微妙な食い違いが、テレビなどで面白おかしく伝えられるので、いかにもありそうな京言葉の裏表として広がって行くのだろう。しかし、京都人が婉曲で曖昧な表現で、相手を戸惑わせることはよくあることだ。京都人同士だと、お互いに分かっていることで平気のやり取りだが、これを部外者が見ると、暗号のような符牒でやり取りしているように思われるかもしれない。

 このような齟齬を、京都人の排他性とか「いけず」という性格に、直接結びつけるわけにはいかない。上記のようなやり取りは、必ずしも「よそ者」を相手に交わされるわけではない。京都人同士の通常のコミュニケーションとして行われているわけで、たまたまそれを解さない人との間に齟齬が生じただけである。

 では京言葉には、なぜこのような二通りに取れてしまう表現が多くあるのか。その理由のひとつは、京都が山に囲まれた盆地で、限られた領域に多くの人が住むので、隣近所とのトラブルを極力避けるため、直截でなく婉曲な表現を採るようになったということである。しかしそれだけなら、旧来の閉鎖的な村落や地方の小都市などでもあり得ることで、京都だけが特異的に喧伝される理由には弱い。やはり京都に固有な理由があると思われる。

 千年の都京都は、一方で戦乱の都でもあった。とくに武士の時代になると、地方で力を付けた武将が、京へ攻め上がって街中でドンパチとやる。応仁の乱に代表されるように、京の街は焼け野原となり、戦いが終わると武将たちは自らの国に引き上げていく。しかし、京の住人である庶民はどこへも帰る場所もない。

 そのような京の庶民は、街が戦乱となっても、東西どちらに着くなどという立場を明確にするわけにはいかない。そこで京言葉固有の、どちらとも取れる二重表現が生まれたのではないだろうか。たとえ隣人でも、密告や裏切りが有り得る世界では、曖昧かつ裏表のある表現をしておくほかなかっただろう。

 とはいえ、京都人の「排他性」や「いけず」の問題が免責されるわけではない。これはこれで、別個に検討する必要があることは否めない。

2021年5月25日火曜日

#京の生活もろもろ#【03.西陣織とワークシェアリング】

京の生活もろもろ【03.西陣織とワークシェアリング】


 半世紀も前になるが、経済学部の専門課程の学生となって、振り分けられた卒論ゼミの指導教官の専攻は日本経済史だった。それは、通常の歴史経済史的研究ではなく、計量的な分析を加えて経済事象を解析する手法であった。

 私の育った西陣の織物業は、あらためて経済学的に眺めてみると、この近代化された日本経済において、江戸時代以来の「問屋制家内工業」を続けている、なんともおかしな業界であった。京都は百年以上続く老舗が数多く存在し、その特殊な経済社会が注目されているところなので、私も西陣の問屋制家内工業の経済的な構造を解明してやろう考えた。

 しかし、思い付きで威勢よく取り組んでみたが、なにしろそのような分析をした先行研究がほとんどなく、資料データも皆無に近い状況で、結局はあっさりと断念した(笑)

 あらためて「西陣織会館」のwebを眺めてみると、次のような記述に出くわした。

《「西陣産地は社会的分業が発達したところ」
 製織段階にいたるまでには数多くの準備工程が必要である。西陣産地では、これらの工程が製織段階での出機のように、すべて分業で行われている。従って、図案家、意匠紋紙業、撚糸業、糸染業、整経業、綜絖業、整理加工業などの業者が独立して企業を営んでいる。これらの業者は、いわゆる西陣の地域で織屋と混然一体となって存在し、それぞれの仕事を分担している。(約200企業、600人) このように西陣産地は、社会的分業が高度に発展したところである。》

 たしかに、子供心に見ていても、まわりには西陣織に関わる様々な人がいっぱいいた。たとえば、図案から織物ができるようにプログラミングする工程だけとっても、「図案家」「紋匠師」「紋掘り」に分かれて、「図案家」が描いた絵を、「紋匠師(紋意匠図師)」が細かなマス目のドットデータに分割し、「紋彫り屋」がそのデータを、「紋紙」という厚紙のパンチカードに穴をあけて書きこむ。

 その紋紙をタコ糸で連ねたものを、ジャカードという機屋(はたや)上にある機械に掛けると、プログラミング通りに経(たて)糸が上下して、そこに色とりどりの緯(よこ)糸がくぐることによって、あざやかな西陣織の柄が織り込まれてゆく。(この工程は、今は磁気デジタルデータ化されてコンピュータ処理される)

 織元(親方/問屋にあたる)が、この図案を紋紙の工程まで仕上げさせ、経糸と緯糸を手当てし、賃機(ちんばた)織屋に織り上げさせる。そして、その出来上がった帯の営業販売までを取り仕切る。この織元が西陣業界の唯一の資本家で、好況の時は雨後の筍の様に生まれ、不況になるとバタバタと倒れてゆく。そういう形で、自然な生産調整がなされるわけだ。

 まず、原材料の経糸と緯糸を指定された色に染めあげる「染め屋」があるし、経糸には機屋に掛けてセッティングできるように「整経」という工程があり「整経師」が担当する。緯糸は「糸繰り」から「糸巻き」という工程で、「飛び杼(ひ)」に装着できる「管(くだ)」に巻く作業があり、これらはパートのおばさんや家庭内の年寄りのお婆さんなどの仕事である。

 ほかにも、一反風呂敷に帯を背負って、全国に売り歩く「仲買」とか、無数に関わる人たちがいる。これらの西陣織に関わる人たちは、マルクスが言う「労働力の再生産費」、つまり彼らとその家族が生きていける最低限の収入が得られる仕組みになっている。かといって、資本家である織元が搾取して大儲けしているわけでもない。織元も自分たちの暮しに相応な収入がある程度である。

 比較的小資本で織元になれるし、少し景況が悪化するとすぐに倒産する。そういう環境なので、織元も一定以上に商売を広げると、倒産する憂き目にあう。京都の多くの老舗が長年生き延びているのは、業務の拡大を第一目標にしていないからだと思われる。

 西陣が問屋制家内工業を続けて、資本主義の公式通りの工場制機械工業に移行しないのも、このような事情に基づいていると思われる。そして、業界規模の数倍もの人が西陣で就業して、西陣が「高度に発展した社会的分業」と言われるのは、昨今の状況に置き換えると、デフレで失業対策とされる「ワークシェアリング」を、歴史的知恵のもとで無意識に実現して来たのではないだろうか。

(追補)
>> アトキンソン氏は、日本の職人文化を蘇らせるため、「品質の高いものを今よりも安く、正当な価格で提供をすることで、回転率を上げる」ことを目指していくべきだといっている。<<

 一般的に常用される産業生産物と、冠婚葬祭などの儀式でまれにしか使用されず単なるステータスシンボル化したものや、外国人観光お客が記念の土産物に買って帰るものを、同じテーブル上で論じるから、こういうスカタンな論になる(笑)

 高品質低価格で世界を席巻した自動車や家電産業のかつての成功体験を、もはや天然記念物化している伝統産業に適用しても仕方ないだろう。

 この提言のもとになっているデービッド・アトキンソンは、日本の国宝や重要文化財などを補修している小西美術工藝社の経営に携わり、経営の近代化と建て直しに成功して名声を得たが、この業界は国の文化財政や公的文化機関による需要に依存している特殊業界であって、民需しか期待できない和装業界に当てはまるはずもない。

 外国人観光客のニーズに期待してるようだが、そんなもんは清水坂の土産物店の売り上げ額にも及ばない。しかもそのような観光土産物品は、東北など過疎地域や中国東南アジアで作っているものがほとんど(和装品も同様)で、京都の財政には一切寄与しないので、京都市財政が破綻しかけてるのだ(笑)

 かつて、外国からのオバサン連をつれて祇園をぶらついたことがあったが、土産に着物が欲しいと言うので、近くの喫茶店のマスターに聞いたら、そんなもん特注で数百万ほどするので、店で売ってるもんはおまへん、観光客用の浴衣とかなら新京極か寺町あたりに、土産物用の化繊で数千円で売ってるかも知れまへん、と言われたわい(笑)

#京の生活もろもろ#【02.「おばんざい」と「おかず」】

京の生活もろもろ【02.「おばんざい」と「おかず」】


 「おばんざい」という言葉は、西陣界隈で育った自分自身が使ったことがなく、周囲の大人たちが使っているのも聞いたことがなかった。しかし、「京のおばんざい」をうたった小料理店はたくさん見られるし、京都の専門家らしい人たちが「京町屋のおばんざい」というコラムを書いていたりする。

 江戸幕末の嘉永2(1849)年出版の献立集に、「年中番菜録」という言葉が見られるらしいが、日常の言葉として使われたかどうかは分からない。番菜(ばんざい)の「番」の字は、番茶、番傘などと用いられるように「常用、また粗品を示す語」との意味があるとされ、「番菜」とは、見た目にこだわらず、手の込まない簡素な家庭料理のことをいうようだ。

 少なくとも「番菜(ばんざい)」という言葉はあったようだが、京都に昔から住む人は、ほぼ使わないと答え、実際に聞いたこともないとして、これは私の経験にも一致する。実際、京都市民は単に「おかず」と呼んでいたはずである。それが京言葉のように広まったのは、昭和39(1964)年1月から、朝日新聞京都版が「おばんざい」というタイトルで、京の家庭料理を紹介するコラムを連載したことからだという。

 すると、この時期よりあとから物心ついた人は、すでに「おばんざい」という言葉が周囲で使われている状況しか知らないわけで、昔から使われている京言葉と認識しても不思議ではない。「京町屋」という言葉も、昭和40年ごろから使われ出したというから、「京町屋のおばんざい」というのは違和感いっぱいの用法だが、それが普通に使われているのなら、それはそれでいいのかも知れない。

 私が子供のころは「今日の"おかず"は何?」と親にたずねたりしていた。そもそもうちの家では、父親と母親は共働きで機織りに忙しく、主に祖母が夕食を用意していた。しかしまともに料理を学んだことなどなく、出汁じゃこで出汁を取ると、菜っ葉と油揚げを刻んで煮込み、醤油で味付けして終わり、みたいな「おかず」であった。

 したがって私にとっては、「おばんざい」が「おかず」より上位にランクされている。しかし過去の用法では、料理の数を取りそろえるという意味の「おかず」は、主人たちが食べる手の込んだもので、奉公人や女中などが手元の野菜などを煮込んだだけの「おばんざい」で済ませていたという。つまり「おかず」の方が上位にあったわけだが、のちに「おばんざい」より聞こえのよい「おかず」が一般に使われるようになったらしい。すると今は、さらにそれが逆転しつつあるのだろう。

2021年5月24日月曜日

#京の生活もろもろ#【01.西陣と織屋建て町屋】

京の生活もろもろ【01.西陣と織屋建て町屋】


 加茂川に沿って加茂街道を北大路から少し下がったあたりから、西に向けて堀川鞍馬口まで、紫明通りという広い道路が走っている。これは白川疎水が加茂川を越えて、堀川にまで流れ込んでいた名残りで、それが埋められた跡のため曲がりくねっている。しかも戦争中に強制疎開で拡幅されたので、現在のように、やたら幅が広いが曲がりくねって短く、都市道路としてあまり意味のない道路となっている。

 昭和の初めまで、祖父母と母はこの近くに住んでいて、疎水が近くだったと聞いたことがある。そこに父親が養子として入って、やがて北区(当時は上京区)紫竹に家を建てて移った。その頃、西陣の織物業は活況で、旧西陣地区は満杯状態、そこで市が北大路通りを整備して、そこから今の北山通りまでの地区を区画整理して宅地化した。その一角に西陣からの移転を積極的に推奨し、市が住宅資金の融資などをした。

 この時、市の融資を受けて建てた家が、私の育った実家である。図にあるような典型的な「うなぎの寝床」と呼ばれる町屋造りであるが、坪庭の奥にさらに織物用の仕事場(工場/こうば)が別棟で建っている。そういう別棟付きの織屋建(おりやだて)でないと、融資の基準を満たさなかったそうだ。

 戦後すぐに生まれて30歳まで、ずっとこの実家ですごした。隣近所もほぼ同じ造りなので、特に「京町屋」という言葉は意識しなかった。昭和40年ごろ、経済成長にともない伝統的な家屋がどんどん建て替えられていくので、その保存を意識して京町家という言葉が使われ出したようだ。

 通常、町屋というと商家建町屋のことをいい、玄関先に土間とともに板間の「店の間」があって、接客できるようになっている。一方で、織屋建の場合は畳敷きの客間であることが多い。その分、奥の間の一部に織物をする機屋(はたや)があったり、別棟が複数の機屋をしつらえた仕事場だったりして、職住一体住居となっている。

 場所的には、いわゆる西陣地区より少し北になるが、市が推奨して西陣の織物業を移転させたので、実家のある地区はほとんどが織物にたずさわっている。その多くが賃機(ちんばた)といって、親方から発注された帯を織り上げて、1本いくらという手間賃をもらうという織物職人だった。

 昭和30年代半ば迄は、人力でギッコンバッタンと織る手機(てばた)だったが、その後、動力織機が導入されて、軒並みガシャガシャと大きな音をたてて織物を織る街と変わった。すると、それまで3日に1本織り上げていたものが、機械織りで1日に1本織り上るようになった。

 当然、1本当りの手間賃は下げられるので、各家では生活のために夜なべ仕事でよりたくさん織るようになる。すでに着物文化が失われて、西陣の帯産業は慢性的な不況業界となっていた。織元の親方は、売れない帯の山を抱えて次々に倒産してゆく世界であった。私自身もそんな賃機家業を継ぐ余地など無く、織物仕事のことはほとんど関心をもたないで育った。

 子供の時期、実家には物置、路地、裏庭、工場(こうば)など、いっぱい冒険の場があった。中高生時代には、物置で江戸川乱歩全集などを見つけて、密かに隠れて読んだ。乱歩によく出てくる怪しげな西洋館とまでは行かないが、秘密の場所がいくつもあって、臨場感満杯で夢中になって読んだ。

 女の子が居なかったので雛人形は無かったが、毎年端午の節句になると、お爺ちゃんが「大将さん人形(五月人形)」を飾ってくれた。二階の押し入れに、まるで甲冑でも仕舞ってあるような大きな長持があって、その中に丁寧に紙でくるんでしまってある。それを、一階奥座敷の床の間に飾る。一番上段は甲冑を纏った武将、その他、桃から生れる桃太郎とか、熊と相撲を取る金太郎、槍で虎退治する加藤清正など、雛人形とは違って、男の子が強く元気に育ちそうなものなら何でもありだった。

 その祖父も、私が小学校二年生の時に88歳で亡くなった。風邪で数日寝込んでいて、学校から帰ると亡くなっていた。家族で亡くなったのは初めての経験で、怖くてチラッとしか死に顔を見なかったが、老衰ということだった。祖母は九十歳を越えて長生きした。うちの家族は長生きの家系のようである。

 30歳になる頃、所帯を持って家を出た。兄が実家の所帯を引き継いだので、すでに建てられてから半世紀以上になった家は、建て替えることになった。それでも私の記憶には、30年過ごしたかつての実家の隅々までが、浮かび上がる。

2021年5月23日日曜日

#京の都市伝説・探求#【06.幽霊子育飴・六道珍皇寺・小野篁】

京の都市伝説・探求【06.幽霊子育飴・六道珍皇寺・小野篁】


 京都市東山区松原通の六道の辻近くに、「みなとや 幽霊子育飴」という変わった飴を売る店がある。発売している「みなとや 幽霊子育飴本舗」によると、慶長年間にある女が亡くなり、埋葬された数日後に、その土の中から子どもの泣き声が聞こえてきた。掘り返してみると、亡くなった女が産んだ子どもだった。

 ちょうどそのころ、毎夜飴を買いに来る女性があり、子どもが墓から助けられたあとは買いに来なくなった。亡くなった女が、自分で産んだ子を飴で育てていたのだろうということになり、その飴は「幽霊子育ての飴」と呼ばれるようになった。その時に助けられた子どもは、後に8歳で出家しやがて高僧となったという。

 「六道の辻」は、平安京の葬送の地である「鳥辺野」の入口にあたり、現世と他界の境にあたると考えられる場所で、すぐ近くに「六道珍皇寺」がある。そして、自在に冥界と行き来したと言われる小野篁(たかむら)は、六道珍皇寺にある井戸を出入り口としていたとされる。六道珍皇寺ではこの井戸を「黄泉がえりの井戸」と呼称しており、寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。

 小野篁は、平安時代初期に実在した公卿で文人でもあり、官位は従三位・参議だった。反骨心も強かったようで、当時の嵯峨上皇には寵愛されながらも、不謹慎な漢詩を詠んだとして、上皇を激怒させたりもしている。そのような特異な言動により、篁は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説まで語られる。

 京都市北区の堀川北大路には、小野篁のものと伝えられる墓があり、その隣には紫式部のものと言われる墓もある。これは、紫式部が源氏物語で好色を説いた罪で地獄に落ちたという言い伝えで、その紫式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものであるとされ、必ずしも両人の遺骨が埋められているわけではない。

 六道の辻は、このようにこの世とあの世との境界にあるということで、亡くなった母親が、子を養うために飴を買いに出てきてもおかしくないということで、幽霊子育飴も成り立っているのであろう。

 六道の辻の奥に広がる東山の鳥辺野は、洛北の蓮台野や洛西嵯峨野の化野(あだしの)と並んで、平安京の三大葬送の地とされる。なかでも鳥辺野は最も有名で、あの藤原道長もその地で荼毘に付されたという。しかし火葬や土葬で葬られるのは貴族のみで、一般庶民は「風葬」といって野や谷に放置して、自然に風化するのにまかされたらしい。

 鳥辺野の一角に位置する世界遺産清水寺は、なかでも「清水の舞台から飛び降りる」とことわざにもなるくらい、木組みで造られた大きな舞台が有名であり、多数の観光客で賑わう。しかし、舞台が谷にせり出すように造られたのは、遺体を谷底に放り投げやすいようにであって、その驚異的な高さは、谷底の遺体の腐臭が届かないためだと聞けば、おもわず引いてしまいかけない。もちろん、観光客にそのような説明がなされることはないが。

 幽霊子育飴は、このような冥界との関りにおける、奥深い話とつながって来るのである。

2021年5月22日土曜日

#京の都市伝説・探求#【05.トンネル・川と妖怪】

京の都市伝説・探求【05.トンネル・川と妖怪】


 「妖怪」は土地に憑き「幽霊」は人に憑く、という定義があった。それはともかく、異人や妖怪が棲むと空想される世界を異界だとすると、それらのもっとも登場しやすい場所はわれわれの住む世界と異界のあいだにある「境界」であろう。それらの境界は、かつての伝統的な地域社会では国境などにある峠や川であったことが多い。したがって妖怪なども、そのような峠や川によくあらわれた。

 そのうちでも峠は、近年の道路整備などで多くがトンネルでバイパスされるようになった。とすれば、出没する妖怪・幽霊のたぐいもそのトンネルに移行していることが想像される。たしかにトンネルにまつわる現代伝説は、あちこちに多くみられるのである。
 京都で最強心霊スポットと言われるのが「清滝トンネル」で、テレビの特集などでもよく取り上げられ、ここでは様々な怪奇現象が起こるとささやかれている。清滝トンネルは、無数の石仏で異様な光景が見られる化野(あだしの)念仏寺から、五山送り火の夕に鳥居形が灯される鳥居本をへて、急な「試峠」に差し掛かる手前から、峠を避けるために掘られたトンネルであり、愛宕山の登山口になる清滝町へ至る唯一の経路となっている。

 この清滝トンネルは、1929(昭和4)年に愛宕山鉄道として利用されたトンネルだったが、鉄道は廃止され軍用道路となり、現在は府道となっているが清滝隧道と呼ばれることが多い。一車線のみの鉄道だったため、一般道となってもバス一台がギリギリ通れる狭さとなった。一方通行でしか利用できないめ、両方の入り口は交互に変わる信号で制御されている。

 このトンネルは、子供時代に2度ほど通った記憶がある。京都の郊外に路線を展開する京都バスが通っているということで、おそらくはそれを利用したと思われる。一度は、小学生低学年のころ、町内のリクレーションで清滝川ハイキングに父親と参加した時、もう一度は中学生の時に、ワンダーフォーゲル同好会のメンバともに、愛宕山登山のために清滝町の登山口までバスで行った。

 どちらのときの記憶かは定かでないが、バスの窓ギリギリにむき出しの岩肌がせまり、薄暗い照明と谷水が湧き出してひんやりとする雰囲気は、たしかに不気味な気分がした。そのような雰囲気が紡ぎ出したのであろう、トンネル内で女性の悲鳴が聞こえたり、どこからともなくお経が聞こえたりと、不思議な話が噂される。

 また、トンネルに入らないで試峠を登ると、頂上部分には真下を向いたカーブミラーが付けられており、「逆さミラー」と呼ばれている。この真下に行くと、自分の姿は映らず子供の幽霊が見えると噂される。薄暗い時に真下から見上げれば、自分の姿が子供の幽霊に見えるだけだろう、という説もある。

 峠やトンネルと並んで、川も境界とされやすい地形であろう。そして、その境界を往来する場所には橋がある。となれば、橋にまつわる噂も必然的に多くみられる。かつては、橋は難工事であったり、大水に流されることも多い。そのような災害を避けるために、人柱として座頭を生き埋めにした、などという因縁話も多くみられる。

 かつての投稿では、「嵐山渡月橋は振り返れない」という話しが見つかった。

 《この「渡月橋」は「十三参り」に行くとき渡るので有名ですね。お参りで橋を渡るとき「絶対に振り向いてはいけない」という言い伝えがあります(親から聞いたような)。振り返ったらどうなるかは聞いた記憶がありません(だれか知らない?)。自分がお参りするときには振り返ってみてやろう、と企んでいたんですが、どうも連れて行ってもらえなかったようです。
 その後トシゴロになってからこの橋を渡るときには、ベッピンサンを見かけるたびに「振り返って」しまうのは、この時の怨念からでしょうか》

 十三参りは、平安時代の初め、清和天皇が13歳になるとき、嵐山の法輪寺で成人法要をしたという言い伝えに始まる。江戸時代になってから一般化されたようで、大堰川(桂川)の北側嵯峨野方面から「渡月橋」を渡り、対岸の岩田山山麓にある法輪寺虚空蔵菩薩にお参りする。帰り道では、もと来た渡月橋を渡り切るまで振り返ってはならないと言われる。振り返ると、虚空蔵菩薩さまから授かったせっかくの知恵が失われてしまうからだという。

 法輪寺の裏山の岩田山に登ると、野生の猿が餌付けされた岩田山公園がある。ここでは、野生の猿に餌を手渡しでやる経験ができるとして、近年では外国人観光客からも評判になっている。しかしもともと野生猿であるから、登り道でうっかり目を合わせたりすると、飛びつかれたりするので注意が必要だ。渡月橋の都市伝説に妖怪が出てこないではないかと言われそうなので、この猿を妖怪に見立てておこう。

 いや、実はこの大堰川には、河童という水の妖怪が出現するという伝説があった。保津川下りで有名な保津川が、開けて緩やかな流れの大堰川に名前が変わるあたり、渡月橋から数百メートルさかのぼったところに「千鳥ヶ淵」という深みの場所がある。いまは水泳禁止になっているが、かつて泳いでいて何人もがおぼれ死んでいる。川底から河童が脚を引っ張って沈めるというのである。

 千鳥ヶ淵付近で急な淀みになり、複雑な水流と極端な水温の冷暖が入り交じり、心臓まひや脚の痙攣で溺れてしまうというのが実態だろうが、もっぱら妖怪河童の仕業だとされている。そして千鳥ヶ淵は、自殺の名所という別の伝説をもつ。

 伝説をさかのぼれば、平家の平清盛の娘の横笛(よこぶえ)が、斎藤時頼というイケメン武士に恋をしたという話しに行きつく。横笛は彼に会いたくて会いたくて追いかけて行くが、彼は出家して滝口入道と名乗っていた。想いを遂げられなくなった横笛は、川に身を投げて入水自殺してしまう。その場所が千鳥ヶ淵だという。それ以来、千鳥ヶ淵は自殺の名所となったとされている。

2021年5月21日金曜日

#京の都市伝説・探求#【04.河原町のジュリー】

京の都市伝説・探求【04.河原町のジュリー】


 かつてのネットでの都市伝説蒐集は、拙著「現代伝説考」でまとめたが、その中で「奇人・変人・怪人」という項をもうけた。そこには「新宿のタイガーマスク」や「横浜のシンデレラおばさん」などがリストアップされ、実在の人物ゆえに実際に見たという向きもおられると思う。

 関連して、それほど一般的にはなっていないが、「街のイエス」という投稿があった。

 《このような「町の変わり者」はどこにでもいますが、郷里に「○○(地名)のイエス」と呼ばれていた人物がいました。彼はレゲエ・シンガーのような蓬髪で長身痩躯、まさにイエス・キリストのような風貌でした。定職についているようすもなく、よく町中をふらふらとさまよっていました。子供たちの間では、「若い頃は東大生だったのだが、(なにか悲しいできごと)のためにああなってしまったのだ」「母親がすべての面倒をみてあげている」と噂されていました。特に人に害をなすわけでもなく、非常におだやかな雰囲気をたたえた彼は、けっこう町の人気者なのでした。》

 人口流動の少ないせまい町などでは、このような認知のされかたも可能であろう。「街のイエス」といった命名には、自由に生活している彼への人々の羨望さえうかがえる。これと同じような文脈で語られた人物が京都にも存在し、「河原町のジュリー」として都市伝説化していた。

 「河原町のジュリー」は、1960年代後半から1980年代に、主に京都府京都市四条河原町付近を徘徊していたホームレスとされ、京都出身で当時圧倒的な人気をほこった歌手、「沢田研二」の愛称ジュリーから、そう呼ばれるようになったという。

 当初はさまざまな証言で錯綜していたが、いくつかの著作もあらわされ、最近ではかなりの一元化された事実さえも示されるようになった。その記述をWikipediaより引用してみる。

 >>ジュリーの特徴はその容姿にあった。ぼろぼろになった黒の背広を身にまとい、猫背で腕を組み、素足で河原町周辺を徘徊していた。肉付きがよく厚みのある体格で、顔は赤黒く、常に笑みを浮かべていた。そして何よりジュリーの特徴である長髪は、ベトベトに汚れて肩から背中までを覆っていた。

 三条通のアーケードをねぐらに、独り言をつぶやきながら一日がかりで寺町通・四条通・河原町通・三条通の順にゆっくりと巡回した。時に通行人に大声で怒鳴りかかったり、目が合うと家まで追いかけてくると噂されていたので、ジュリーと遭った通行人は目を逸らし、道を譲った。そして、毎日同じ時刻・同じ場所で歩道柵にもたれかかって通行人をぼんやりと眺めるのが常であった。<<

 私は70年前後には、学生として京都の繁華街を徘徊し、河原町の歩道にへたり込んで、手作りの詩集を売るなどしていた時期があり、何人も行き来するホームレスと行き違ったりしていたので、”ジュリー”とも出会っている可能性がある。

 またその後、化粧品会社に就職し、営業マンとして京都の大手百貨店の担当になった。当時の百貨店化粧品売り場は、男と言えば私のような出入り業者か店のフロア担当者ぐらいで、男性は通りづらい雰囲気だったが、ときたま変な男がうろついたりする。

 ネズミのようにちょこまかする小男がいて、美容部員の目を盗んで、ショーケースに置いてあるテスト用の香水を自分に多量にふり撒く。気付いた美容部員が「こら!」と怒鳴ると、さっと逃げ去る。聞いてみると、しょっちゅううろついている男で、香水魔とあだ名してるという。

 また、両手に大きな厚手の紙袋を下げて、通路の脇にじっと立っている大男もよく出現した。美容部員と仕事の話しをしながら男の方にちらっと眼をやっただけだが、その後、音もなく近づいて、後ろから私の耳元で、静かな低い声で「殺したろか」と呟いた。一瞬、ぞっとしたが、どうやら私たちが、男の姿を見て悪口を言ってると錯覚したらしい。

 いま思うと、その大男の姿は「河原町のジュリー」として語られる様子に、ピタリと当てはまっていた。ただし髪の毛は、長髪ではあったが伸び日放題という感じではなく、顔のヒゲもすっきりと剃られていたようだ。

 いずれにせよ、このような体験が付加されていくので、「河原町のジュリー」の話も千差万別に広がって行ったようだ。そして1984年(昭和59年)、京都新聞の一片のコラムで「河原町のジュリー」の死亡が告げられた。1984年2月5日早朝、円山公園にある祇園祭の山鉾収蔵庫の前で凍死、66歳だったという。

 「河原町のジュリー」は生前から、その風貌と自由に街を徘徊する姿を見た人たちによって、ニックネームを付けるほど親しまれ、いささか羨望の念さえ含んで言い伝えられた。このようなことは、リベラルな市民性を大事にする京都ならではのことでもあると思われる。

 生前の”ジュリー”は、一介のホームレスに過ぎない側面が強かったが、死後、その噂はどんどん伝説化されていった。さらにインターネットが普及すると、「河原町のジュリー」は、さらに全国版となってゆき、京都人の気風と相まって、漂泊の哲人ディオゲネスや迫害に耐えた聖人イエスに擬せられるほどに、伝説化されていったのである。