2021年5月4日火曜日

#京都・文学散策#【01.梶井基次郎 「檸檬」八百卯/丸善書店】

京都・文学散策【01.梶井基次郎 「檸檬」八百卯/丸善書店】


 ・・・。どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。「今日は一つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。

 しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水の壜にも煙管にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て罩めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。

 私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は堪らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。

 私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本までなおいっそうの堪えがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。

 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を晒し終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。

 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。

 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。


------

 梶井基次郎は、京都に縁が深い作家と思われているが、京都を舞台に描いたものは、この「檸檬」と「ある心の風景」の二短編だけである。大阪に生まれ、銀行員の父親の転勤によって移動したが、やがて旧制大阪府立北野中学を卒業、京都第三高等学校理科に入学した。三高では留年を含め5年間在学したが、京都の下宿を転々とするとともに、肺結核で大阪自宅で療養したりする。「檸檬」などの作品は、おおむねこの時期の京都住まいの体験に基づく。やがて、なんとか三高を卒業すると、東京帝国大学英文科に入学するが、病気中退している。

 小説「檸檬」は、ほぼ事実にそって書かれているので、その当時の足跡をたどれる。以下、地図上に印したが、「檸檬」を買ったのは寺町二条角にあった果物店「八百卯」だとされる。梶井の小説にちなんでレモンでウインドウを飾って頑張っていたが、2005年に閉店した。戦前には、レモン、パイナップル、バナナなどは輸入品しかなく、超高級果物であった。梶井のような貧乏学生にとって、レモン一個買うのも、かなりの贅沢をする勇気が要ったはずである。

 初代「丸善書店」は、小説「檸檬」の舞台となった当時、三条通麩屋町①にあったそうだ。その後、1940年に、河原町通蛸薬師に二代目店舗②を新築して長年営業していたが、2005年に閉店。のち10年ほどを経て、二代目から少し北に上ったファッションビル「京都BAL」の一フロアを占有して、三代目③として再開店したようだ。

 丸善書店は、通常の大型書店というのとはかなり異なる。もともと高級舶来品の輸入商社として創業した専門商社であり、輸入洋書が中心であるが、雑貨小物や文具ほか、英国製紳士用スーツ生地やコートなどの舶来品を扱う。文士、画家、大学教授などが、ここで英国製生地の紳士服をあつらえ、ドイツ製眼鏡フレームから各国製のパイプやライターなど喫煙具、そしてモンブラン、ペリカン社製の万年筆を愛用するなど、エスタブリッシュなインテリ紳士御愛用の店であったのである。

 私が何度か訪れて知っているのは二代目の河原町蛸薬師店だが、正面入り口を入るとバーバリの高級コートが飾ってあり、広々としたフロアには、高級皮装丁の洋書などが並んでいる。中二階にはスタンドカフェがあり、学生ぽい若者が、買ったばかりの「檸檬」の文庫本をカウンターに置いて珈琲をすすっていたりする。かつての梶井と同じように、今でも文学かぶれの貧乏学生が、その雰囲気を味わおうとやってくる場所でもあったのである。

 私も貧乏学生として、万年筆など高価なものは買えないが、著名文士などが愛用している丸善特製原稿用紙を買って、ひそかに気取っていた時期がある。少し薄めの紙で升目は横広、これに太めの万年筆で書くと、いかにも作家になったような気分だった。そんな趣味人的なことではまともなものは書けないぞ、とか仲間と論争になったりした。それなら折り込み広告チラシの裏で名作を書いてやる、などと啖呵を切ったものの、紙に関係なく、ついに名作を書くことはなかった(笑)

*梶井基次郎『檸檬』 https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170212
*『檸檬』(青空文庫)で読む https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html

0 件のコメント:

コメントを投稿