京の生活もろもろ【02.「おばんざい」と「おかず」】
「おばんざい」という言葉は、西陣界隈で育った自分自身が使ったことがなく、周囲の大人たちが使っているのも聞いたことがなかった。しかし、「京のおばんざい」をうたった小料理店はたくさん見られるし、京都の専門家らしい人たちが「京町屋のおばんざい」というコラムを書いていたりする。
江戸幕末の嘉永2(1849)年出版の献立集に、「年中番菜録」という言葉が見られるらしいが、日常の言葉として使われたかどうかは分からない。番菜(ばんざい)の「番」の字は、番茶、番傘などと用いられるように「常用、また粗品を示す語」との意味があるとされ、「番菜」とは、見た目にこだわらず、手の込まない簡素な家庭料理のことをいうようだ。
少なくとも「番菜(ばんざい)」という言葉はあったようだが、京都に昔から住む人は、ほぼ使わないと答え、実際に聞いたこともないとして、これは私の経験にも一致する。実際、京都市民は単に「おかず」と呼んでいたはずである。それが京言葉のように広まったのは、昭和39(1964)年1月から、朝日新聞京都版が「おばんざい」というタイトルで、京の家庭料理を紹介するコラムを連載したことからだという。
すると、この時期よりあとから物心ついた人は、すでに「おばんざい」という言葉が周囲で使われている状況しか知らないわけで、昔から使われている京言葉と認識しても不思議ではない。「京町屋」という言葉も、昭和40年ごろから使われ出したというから、「京町屋のおばんざい」というのは違和感いっぱいの用法だが、それが普通に使われているのなら、それはそれでいいのかも知れない。
私が子供のころは「今日の"おかず"は何?」と親にたずねたりしていた。そもそもうちの家では、父親と母親は共働きで機織りに忙しく、主に祖母が夕食を用意していた。しかしまともに料理を学んだことなどなく、出汁じゃこで出汁を取ると、菜っ葉と油揚げを刻んで煮込み、醤油で味付けして終わり、みたいな「おかず」であった。
したがって私にとっては、「おばんざい」が「おかず」より上位にランクされている。しかし過去の用法では、料理の数を取りそろえるという意味の「おかず」は、主人たちが食べる手の込んだもので、奉公人や女中などが手元の野菜などを煮込んだだけの「おばんざい」で済ませていたという。つまり「おかず」の方が上位にあったわけだが、のちに「おばんざい」より聞こえのよい「おかず」が一般に使われるようになったらしい。すると今は、さらにそれが逆転しつつあるのだろう。
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