京都・文学散策【08.森鴎外「興津弥五右衛門の遺書」 大徳寺高桐院/船岡山】
明日切腹候場所は、古橋殿とりはからいにて、船岡山の下に仮屋を建て、大徳寺門前より仮屋まで十八町の間、藁むしろ三千八百枚余を敷き詰め、仮屋の内には畳一枚を敷き、上に白布を覆いこれありそろ由に候。いかにも晴がましく候て、心苦しく候えども、これまた主命なれば是非なく候。
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正保四年十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院の墓に詣でて、船岡山の麓に建てられた仮屋に入った。畳の上に進んで、手に短刀を取った。背後うしろに立っている乃美市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声を掛けた。白無垢の上から腹を三文字に切った。
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正保四年十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院の墓に詣でて、船岡山の麓に建てられた仮屋に入った。畳の上に進んで、手に短刀を取った。背後うしろに立っている乃美市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声を掛けた。白無垢の上から腹を三文字に切った。
乃美はうなじを一刀切ったが、少し切り足りなかった。弥五右衛門は「喉笛を刺されい」と云った。しかし乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。
仮屋の周囲には京都の老若男女が堵のごとくに集って見物した。落首の中に「比類なき名をば雲井に揚げおきつ やごゑを掛けて追腹を切る」と云うのがあった。
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明治天皇崩御を受けて大喪の礼が取り行われ、式典に参列したその日の夜、乃木希典夫妻は自刃して果てた。乃木大将の殉死は、各界に衝撃を与えた。夏目漱石は、その刺激を受けて、数年後『こゝろ』を著した。一文人であった漱石に対して、陸軍軍医総監まで登り詰めた森鴎外は、明治天皇や乃木大将と直接接することもあったと思われ、より直接的な衝撃を受けたはずである。
乃木の殉死の報を受けた森鴎外は、数日で『興津弥五右衛門の遺書』を書き上げた。自死と倫理の問題を取り上げた「こゝろ」に比して、鴎外は「興津・・・」で、殉死切腹に至る過程を、あくまで坦々と描いた。
興津弥五右衛門は、主君細川忠興三斎公に重臣として長年仕え、三斎公が亡くなると、点在する公の由縁の在所の始末を終え、京の菩提寺、紫野大徳寺高桐院に納骨の儀を無事済ませた。三斎公の弔い事をすべて一手にやり終えると、弥五右衛門は後継の主君に「殉死」を願い出た。
興津弥五右衛門は、殉死を願い出るまでの主君との経緯を、綿々と「遺書」にしたためた上、翌朝、切腹の儀に臨む。菩提所「高桐院」を出て、「船岡山」の麓に設えられた仮屋の切腹所に向かう。その間、「十八町の間、藁むしろ三千八百枚余を敷き詰め」と書き記し、その晴れがましさに感嘆の念を感じている。
弥五右衛門は、殉死を名誉と喜び、オスカーのレッドカーペットを歩むがごとく、晴々とした気持ちでプロムナードを歩んだ模様である。鴎外は、乃木大将の殉死の意図を、弥五右衛門に代弁させたかったのかも知れない。以後、鴎外は、多数の歴史小説を著すことになる。
京都洛北紫野の大徳寺にある塔頭「高桐院」は、細川家の菩提寺で、墓所には細川忠興公はじめ代々の墓があり、脇には、忠興が生前こよなく愛でたとして、忠興とガラシャ夫人の墓塔とされる「春日灯籠(別名ガラシャ灯籠)」もある。この石燈籠は利休愛蔵のもので、秀吉に所望されても傷があるとの理由で手放さなかったという。後に忠興の所有となったが、「完璧すぎる」として笠の後ろ部分を、わざと欠き落としたという。また、さらに裏手には非公開の墓地もあり、そこには出雲阿国などとともに、興津弥五右衛門の墓もある。
切腹の仮屋が設けられたという「船岡山」は、応仁の乱のとき、西軍の拠点となった「西陣」地区の北端に位置する小高い丘で、激しい合戦の地となったという。また「枕草子」で「岡は船岡」と称えられ、平安の時代から親しまれている。平安京の真北に位置し、風水でいう四神で北方を守る「玄武」に例えられることもある。現在では、山麓に公園や野外公会堂なども設けられ、市民の気軽な行楽の場となっている。
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