京の都市伝説・探求【06.幽霊子育飴・六道珍皇寺・小野篁】
京都市東山区松原通の六道の辻近くに、「みなとや 幽霊子育飴」という変わった飴を売る店がある。発売している「みなとや 幽霊子育飴本舗」によると、慶長年間にある女が亡くなり、埋葬された数日後に、その土の中から子どもの泣き声が聞こえてきた。掘り返してみると、亡くなった女が産んだ子どもだった。
ちょうどそのころ、毎夜飴を買いに来る女性があり、子どもが墓から助けられたあとは買いに来なくなった。亡くなった女が、自分で産んだ子を飴で育てていたのだろうということになり、その飴は「幽霊子育ての飴」と呼ばれるようになった。その時に助けられた子どもは、後に8歳で出家しやがて高僧となったという。
「六道の辻」は、平安京の葬送の地である「鳥辺野」の入口にあたり、現世と他界の境にあたると考えられる場所で、すぐ近くに「六道珍皇寺」がある。そして、自在に冥界と行き来したと言われる小野篁(たかむら)は、六道珍皇寺にある井戸を出入り口としていたとされる。六道珍皇寺ではこの井戸を「黄泉がえりの井戸」と呼称しており、寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
小野篁は、平安時代初期に実在した公卿で文人でもあり、官位は従三位・参議だった。反骨心も強かったようで、当時の嵯峨上皇には寵愛されながらも、不謹慎な漢詩を詠んだとして、上皇を激怒させたりもしている。そのような特異な言動により、篁は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説まで語られる。
京都市北区の堀川北大路には、小野篁のものと伝えられる墓があり、その隣には紫式部のものと言われる墓もある。これは、紫式部が源氏物語で好色を説いた罪で地獄に落ちたという言い伝えで、その紫式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものであるとされ、必ずしも両人の遺骨が埋められているわけではない。
六道の辻は、このようにこの世とあの世との境界にあるということで、亡くなった母親が、子を養うために飴を買いに出てきてもおかしくないということで、幽霊子育飴も成り立っているのであろう。
六道の辻の奥に広がる東山の鳥辺野は、洛北の蓮台野や洛西嵯峨野の化野(あだしの)と並んで、平安京の三大葬送の地とされる。なかでも鳥辺野は最も有名で、あの藤原道長もその地で荼毘に付されたという。しかし火葬や土葬で葬られるのは貴族のみで、一般庶民は「風葬」といって野や谷に放置して、自然に風化するのにまかされたらしい。
鳥辺野の一角に位置する世界遺産清水寺は、なかでも「清水の舞台から飛び降りる」とことわざにもなるくらい、木組みで造られた大きな舞台が有名であり、多数の観光客で賑わう。しかし、舞台が谷にせり出すように造られたのは、遺体を谷底に放り投げやすいようにであって、その驚異的な高さは、谷底の遺体の腐臭が届かないためだと聞けば、おもわず引いてしまいかけない。もちろん、観光客にそのような説明がなされることはないが。
幽霊子育飴は、このような冥界との関りにおける、奥深い話とつながって来るのである。
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