2021年5月4日火曜日

#郷土史散策#【10.京都駅舎など、もろもろ】

郷土史散策【10.京都駅舎など、もろもろ】


 日本最初の官営鉄道 新橋~横浜間に次いで、2番目の鉄道として 京都~神戸間が、1877(明治10)年に開通した。この時の京都停車場(京都駅)の初代駅舎は赤煉瓦のモダンな建物で、現在よりやや北側に設置されており、京都市民には「七条(ひっちょ)ステンショ」と呼ばれ親しまれた。
 
  1914(大正3)年、大正天皇の即位式典は京都御所において行われ、それに合わせて2代目駅舎が、ほぼ現在の場所に移転建設された。渡辺節設計によるルネサンス式建築様式で、総ヒノキ造り2階建ての2代目駅舎であったが、戦後の1950(昭和25)年11月、失火により全焼した。

 その年の7月には金閣寺が炎上しており、戦時中に爆撃を受けなかった京都住民にとって、あい次いだ火災はショッキングな出来事であった。当方は生まれたばかりで直接の記憶はないが、事あるごとに両親から駅舎火災の話を聞かされた。戦後まもなくの時期なので、予算も限られ、急造の仮駅舎として3代目駅舎が建造された。

 薄っぺらなモルタル鉄骨駅舎は、京都の正面玄関なのに恥ずかしいという声も多かったのが、貧乏国鉄は長年、建て直す甲斐性もなかったようである。とはいえ、長年、この駅舎を眺めてきた当方にとっては、駅前停車場から出てくる京都市電の姿とともに、なつかしい光景と記憶されている。

 40年後にやっと新築されることになった4代目の現駅ビルは、国内外の7人の建築家による指名コンペで競われた。黒川紀章や安藤忠雄という一般にも著名な建築家も参加していて、黒川などは羅城門をイメージした、120mの巨大な黒い門を建てる案を出してあっけなく落選した。

 結局、60m以下の高さにおさえるという条件で、それをクリアした最も低層の設計デザイン案を提出した原広司の、ポストモダンな建築案が選ばれた。しかしこの建築には、審査員の一人で京都在住の哲学者 梅原猛らが梅原猛らが強く批判した。それらの批判的な意見は、おおむね「古都の京都らしくない」というところに行きつく。

 さて、京都らしいとは何ぞや? そんなものは、世界遺産の神社仏閣がひしめく京の洛中洛外に腐るほど「本物」があるのであって、えざわざコンクリ−トのレプリカで、観光客を迎える必要があるのか。

 半世紀前に京都タワーができたときも、駅前玄関口に巨大なペニスをおっ立ててど~する(実際は蝋燭を模した)などとの意見もあったが、今では新幹線で帰って来る時、東寺の塔と並び立つ風景が目に入ってくると、京都に帰って来たという実感がする。文句はいくらでもあるだろうし言うのは勝手だが、出来たものは出来たもの、それをめでる方が現実的というものだ。

 youtubeなどで見ると、外人観光客たちが、駅ビルの大階段や50mの大屋根や吹き抜け空間を、興味深そうにに撮影したものがたくさんアップさられている。それらからは、好意的に楽しんでいるのがうかがえる。

 完成して20年にもなるのに、当方は数度しか駅ビルに行ったことがないが、外観にはあまり具体的なイメージがない。むしろ、内部の大空間の開放性と、階段を上下して移動する立体迷路のような空間は、グリッド構成のガラス天井と合わせて、子供の頃のパイプのジャングルジムで遊んでいるような楽しさがある。

 「エッフェル塔を見たくなければエッフェル塔に上れ、京都駅ビルを見たくなければ、駅ビル内を徘徊せよ」(笑)

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