2021年5月21日金曜日

#京の都市伝説・探求#【04.河原町のジュリー】

京の都市伝説・探求【04.河原町のジュリー】


 かつてのネットでの都市伝説蒐集は、拙著「現代伝説考」でまとめたが、その中で「奇人・変人・怪人」という項をもうけた。そこには「新宿のタイガーマスク」や「横浜のシンデレラおばさん」などがリストアップされ、実在の人物ゆえに実際に見たという向きもおられると思う。

 関連して、それほど一般的にはなっていないが、「街のイエス」という投稿があった。

 《このような「町の変わり者」はどこにでもいますが、郷里に「○○(地名)のイエス」と呼ばれていた人物がいました。彼はレゲエ・シンガーのような蓬髪で長身痩躯、まさにイエス・キリストのような風貌でした。定職についているようすもなく、よく町中をふらふらとさまよっていました。子供たちの間では、「若い頃は東大生だったのだが、(なにか悲しいできごと)のためにああなってしまったのだ」「母親がすべての面倒をみてあげている」と噂されていました。特に人に害をなすわけでもなく、非常におだやかな雰囲気をたたえた彼は、けっこう町の人気者なのでした。》

 人口流動の少ないせまい町などでは、このような認知のされかたも可能であろう。「街のイエス」といった命名には、自由に生活している彼への人々の羨望さえうかがえる。これと同じような文脈で語られた人物が京都にも存在し、「河原町のジュリー」として都市伝説化していた。

 「河原町のジュリー」は、1960年代後半から1980年代に、主に京都府京都市四条河原町付近を徘徊していたホームレスとされ、京都出身で当時圧倒的な人気をほこった歌手、「沢田研二」の愛称ジュリーから、そう呼ばれるようになったという。

 当初はさまざまな証言で錯綜していたが、いくつかの著作もあらわされ、最近ではかなりの一元化された事実さえも示されるようになった。その記述をWikipediaより引用してみる。

 >>ジュリーの特徴はその容姿にあった。ぼろぼろになった黒の背広を身にまとい、猫背で腕を組み、素足で河原町周辺を徘徊していた。肉付きがよく厚みのある体格で、顔は赤黒く、常に笑みを浮かべていた。そして何よりジュリーの特徴である長髪は、ベトベトに汚れて肩から背中までを覆っていた。

 三条通のアーケードをねぐらに、独り言をつぶやきながら一日がかりで寺町通・四条通・河原町通・三条通の順にゆっくりと巡回した。時に通行人に大声で怒鳴りかかったり、目が合うと家まで追いかけてくると噂されていたので、ジュリーと遭った通行人は目を逸らし、道を譲った。そして、毎日同じ時刻・同じ場所で歩道柵にもたれかかって通行人をぼんやりと眺めるのが常であった。<<

 私は70年前後には、学生として京都の繁華街を徘徊し、河原町の歩道にへたり込んで、手作りの詩集を売るなどしていた時期があり、何人も行き来するホームレスと行き違ったりしていたので、”ジュリー”とも出会っている可能性がある。

 またその後、化粧品会社に就職し、営業マンとして京都の大手百貨店の担当になった。当時の百貨店化粧品売り場は、男と言えば私のような出入り業者か店のフロア担当者ぐらいで、男性は通りづらい雰囲気だったが、ときたま変な男がうろついたりする。

 ネズミのようにちょこまかする小男がいて、美容部員の目を盗んで、ショーケースに置いてあるテスト用の香水を自分に多量にふり撒く。気付いた美容部員が「こら!」と怒鳴ると、さっと逃げ去る。聞いてみると、しょっちゅううろついている男で、香水魔とあだ名してるという。

 また、両手に大きな厚手の紙袋を下げて、通路の脇にじっと立っている大男もよく出現した。美容部員と仕事の話しをしながら男の方にちらっと眼をやっただけだが、その後、音もなく近づいて、後ろから私の耳元で、静かな低い声で「殺したろか」と呟いた。一瞬、ぞっとしたが、どうやら私たちが、男の姿を見て悪口を言ってると錯覚したらしい。

 いま思うと、その大男の姿は「河原町のジュリー」として語られる様子に、ピタリと当てはまっていた。ただし髪の毛は、長髪ではあったが伸び日放題という感じではなく、顔のヒゲもすっきりと剃られていたようだ。

 いずれにせよ、このような体験が付加されていくので、「河原町のジュリー」の話も千差万別に広がって行ったようだ。そして1984年(昭和59年)、京都新聞の一片のコラムで「河原町のジュリー」の死亡が告げられた。1984年2月5日早朝、円山公園にある祇園祭の山鉾収蔵庫の前で凍死、66歳だったという。

 「河原町のジュリー」は生前から、その風貌と自由に街を徘徊する姿を見た人たちによって、ニックネームを付けるほど親しまれ、いささか羨望の念さえ含んで言い伝えられた。このようなことは、リベラルな市民性を大事にする京都ならではのことでもあると思われる。

 生前の”ジュリー”は、一介のホームレスに過ぎない側面が強かったが、死後、その噂はどんどん伝説化されていった。さらにインターネットが普及すると、「河原町のジュリー」は、さらに全国版となってゆき、京都人の気風と相まって、漂泊の哲人ディオゲネスや迫害に耐えた聖人イエスに擬せられるほどに、伝説化されていったのである。

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