2021年5月2日日曜日

#郷土史散策#【07.京都御所/猿ヶ辻】

郷土史散策【07.京都御所/猿ヶ辻】


 「京都御所」の北東角に「猿ヶ辻」と呼ばれる場所がある。御所のその一画は角が取られたような造りになっている。これは「艮(丑寅/うしとら)の方角」が「鬼門」とされ、その「角(つの/かど)を取る」という意味で、囲い塀の一画をへこんだ形にするという風習に従っている。

 その軒の下には、木像の猿が祀られている。これは丑寅の反対の方角の南東が「坤(未申/ひつじさる)」であり、猿が鬼を追いやるということから祀られた。ちなみに、桃太郎が鬼退治のお供にしたサル・トリ(雉)・イヌは、十二支の申・酉・戌と続くことからだそうだ。

 さて、この軒下の木造の猿は、金網で閉じ込められた形になっている。この猿は、滋賀県坂本日吉大社で神の使いとされる猿を招いて祀ったとされるが、いつしかこの猿がこの辻を通る人々に悪さをするという噂が流されたため、金網で閉じ込められたという(単に鳩などの糞害を防ぐためとの説も)。

 幕末には、尊皇攘夷派の姉小路公知が何者かに襲われるという、「猿が辻の変」が起こった。公家が御所のすぐ脇で暗殺されるという物騒な世の中で、このような状況が、鬼が出るとか猿が悪さするとの言い伝えを、さらに強固にしたことであろう。では、いまでは御苑公園内の白砂利が敷き詰められた一画が、なぜ道の交わりを指す「辻」なのか。

 それには明治以前の御所周辺の状況を知る必要がある。御苑内の「禁裏」とされる場所が、現在の内塀で囲われた「御所」にあたる。そしてその周りには、公家たちの邸宅が立ち並び公家町と呼ばれていた。つまり通常に人が通り交う道があり、そして「猿ヶ辻」もあったのである。

 それが「蛤御門(禁門)の変」で出火し、「どんどん焼け」と呼ばれた大火となって、多くの公家屋敷も焼けた。そして明治になって天皇の東京行幸があると、ほとんどの公家は帝に伴って東京に移った。主たちが居なくなった公家町はすっかり寂れ、御所周辺は急速に荒廃していった。

 この状況を憂慮した岩倉具視によって、明治10(1877)年、御所の保存が建議された。これを受けて、京都府は旧公家屋敷の空家の撤去と跡地の整備を開始した。当初は旧公家町の周囲を土塁と堀で囲って整備された程度だったが、明治天皇崩御のあと、大正天皇の大礼が京都御所で行われることになり、整備は急速に進められ、ほぼ現在の姿になった。

 このように、もともとは御所と周辺の公家町だったものが、御所周辺が都市公園として整備され、それが「京都御苑」とされたわけである。従って京都の住民にとっては、「京都御所」といえばほぼ御苑全体をも意味していて、御苑と御所を区別していない。現在「京都御所」は宮内庁の管理下にあり、それ以外の「京都御苑」は環境省、さらに御苑内にある「京都迎賓館」は内閣府の管轄ということで、ややこしいことになっている。

 なお、京都の鬼門を護るものとしては、今より西にあった平安京の内裏からの方角であるが、上御霊神社・赤山禅院・延暦寺と壮大な地域を視野に配置されていたという。

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