2021年5月1日土曜日

#郷土史散策#【02.御土居】

郷土史散策【02.御土居】


 「御土居」は豊臣秀吉が、防衛を主目的として京の街を囲むように築いた土塁である。5m程度の高さの土盛りと、その外側の掘割とからなる。概略は京都市のWebを参照いただきたい。 http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005643.html

○比較地図は、三枚の概略図を並べた。

(左)赤枠で囲んだ御土居概略図。現在でも、おおよそ御土居で囲まれた内側を「洛中」、その外側は「洛外」と呼んで区別されている。そしてその周辺の何ヶ所かに、「京の七口」(当時は十口だったようだ)と呼ばれる街道への出入り口があった。中でも最も有名なのは「粟田口(三条口)」、言わずと知れた東海道の基点である。

(中)幕末(慶応4年作製)の市街図。黒枠で御土居が示され、当時の街がほぼ御土居内に収まっているのが確認できる。

(右)現在の市街図の上に、赤枠で旧平安京がプロットされてあり、さらに紺色楕円で御土居の位置を示してみた。平安京の右京(西半分)は早くから寂れ、幕末には左京(東半分)を中心に街ができていたのが分る。それがほぼ御土居内で、すなわち「洛中」である。

 明治以降、市街は鴨川を越えて東へ展開したが東山にせき止められる。そしてその後、西地区が再開発され現在の京都市を形作っている(斜線区域)。平安京の東の京を漢の都「洛陽」、西の京を唐の都「長安」に擬して造ったとされ、西の部分が寂れたため「洛陽」部だけが残った。それが「洛中・洛外」などの呼称の始まりと言われる。

○北辺部航空写真

 私は北区で生まれ育ったので、北辺部に残された御土居になじみがある。この航空写真は御土居の北辺部で、左は紙屋川という細い川、右は加茂川(鴨川)に接する。ほとんどが宅地化され、残された土塁は赤枠で囲った四ヶ所に見られる。左から「鷹峯旧土居町」「大宮土居町(玄琢下)」「大宮交通公園内」「加茂川中学前」と仮に呼んでおく。

○「鷹峯旧土居町」
 鷹峯街道から西を見る。御土居の北西角に位置し、写真後方の崖下を紙屋川が流れている。ここから紙屋川に沿って南に折り曲り、宅地化された御土居跡の部分は、L字型に細長く「旧土居町」という町名になっている。手前「光悦堂」では「御土居餅」を売っている。近くには光悦寺もあり、にぎわっている。

○「大宮土居町(玄琢下)」
 この地域では最も長い御土居が残されている。写真手前が玄沢下、鷹峯方面に向けて御土居上を歩けるように整備されており(一般には入れない)、テレビ「ブラタモリ」ではタモリが散策する場面があった。

○「大宮交通公園内」
 子供たちが交通ルールを体験できる公園として整備されており、ゴーカートが運転できる。かなり古くはなっているが、市営なので低料金で遊べる。

 私の子供の頃には、畑地の中に荒れた土盛りがあるだけで、史跡などという認識はなかった。まわりの畑から飛んできた大根やキャベツの花が自生していて、春にはたくさんの蝶々が舞っていた。子供たちは、単に「だいこん山」と呼んでいて、チャンバラごっこや隠れんぼをして遊んだ。
(注)大宮交通公園は、2021.04.01にリニューアルオープンした。 https://omiya-trafficpark.com/

○「加茂川中学前」
 堀川通の北の端、加茂川と合流する手前に市立加茂川中学校があり、その脇から加茂川に向けて御土居が残っている。写真左側は加茂川堤防の加茂街道で、御土居はここから折れ曲がって加茂川に沿って南下していたはずである。

○その他
 ここでは触れないが、南部のその他の地域にも、何ヶ所かの御土居跡が残っている。北野天満宮そば平野鳥居前町などの御土居は有名だし、JR京都駅の0番ホームは、御土居を削った上に造られたと言われる。
(注)近年の発掘調査で、御土居そのものではなく御土居に附随する堀の跡であることが判明した。

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