京都・文学散策【02.夏目漱石 「虞美人草」比叡山】
「随分遠いね。元来どこから登るのだ」と一人が手巾で額を拭きながら立ち留どまった。
「どこか己にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」と顔も体躯も四角に出来上った男が無雑作に答えた。
反を打った中折れの茶の廂の下から、深き眉を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫なる春の空の、底までも藍を漂わして、吹けば揺くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然として、どうする気かと云わぬばかりに叡山が聳えている。
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『虞美人草』の冒頭シーン。ヒロイン藤尾の兄甲野さんと、その友人で藤尾に気を寄せる宗近くんが、旅行で京都に来て、二人で叡山(比叡山)に登っている途上で交わす会話が続く。ヒロイン藤尾はいまだ登場しない。
漱石はロンドン留学から帰国後、神経衰弱に悩まされながら東京帝国大学の講師などをしていたが、高浜虚子の勧めで俳句雑誌『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を掲載する。これが好評をはくし、さらに『坊ちゃん』『倫敦塔』などで一躍人気作家になる。
漱石はついに作家として食ってゆくことを決心し、朝日新聞社に専属として入社し、職業作家としての最初の作品が『虞美人草』だった。初の新聞連載にさいして、漱石はかなり気負って書き始めたようで、それまでの漱石には見られなかった絢爛たるストーリー展開は、後日漱石自身に失敗だったと述懐させるほどだった。
私自身は若い時に読んだのだが、むしろ漱石の作品の中でも、最も面白い作品に思われた。漱石は執筆中に、弟子筋の小宮豊隆あてに、次のように書いている。
《虞美人草は毎日かいてゐる。藤尾といふ女にそんな同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつを仕舞ひに殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。然し助かれば猶々藤尾なるものは駄目な人間になる。最後に哲学をつける。此哲学は一つのセオリーである。僕は此セオリーを説明する為めに全篇をかいてゐるのである。だから決してあんな女をいゝと思つちやいけない。(明治40年7月19日小宮豊隆あて書簡)》
これを、字面とおりに受け取るわけにはいくまい。思い入れのできない女性像をヒロインにするわけはなく、漱石は藤尾という作中の女性にかなり入れ込んでいたはずで、その照れ隠しに悪態をついているのに違いない。
(虞美人草)
垓下の戦いで項羽が敗れたあと、愛妃の虞美人も自刃し、その墓にそっとヒナゲシの花が咲いたので、以来虞美人草と呼ばれるようになった。
(垓下の戦・四面楚歌)
力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)
騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 奈何すべき)
虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を奈何せん)
(追記1)
漱石は最初の新聞小説を連載するにあたって、得意な漢籍を何度も読み直すなど、かなり気負って事前準備をした。そのせいで、漢文調や美文調の言い回しが多くなり、現代の読者には読みにくいものになっているかと思われる。
藤尾という近代的な自我と女としてのセクシュアリティ兼ね備えた、魅力的な女を創造しながら、漱石自身が属した前近代的倫理世界のもとで、両者をどう決着させるか、その方向性をつかめなくなったのではないか。
「虞美人草」という絢爛たる物語にふさわしい藤尾というヒロインを創造したが、その藤尾が独り歩きし始めて、漱石の手に負えなくなった。そこで唐突に藤尾を死なせて終わらせたのだ(笑)
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紅を弥生に包む昼たけなわなるに、春をぬきんずる紫の濃き一点を、天地の眠れるなかに、鮮やかに滴たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも艶やかに眺めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢の上には、玉虫貝を冴々と菫に刻んで、細き金脚にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸みのさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴のひろがりに、一瞬の短かきを偸んで、疾風の威いを作なすは、春にいて春を制する深き眼なこである。この瞳を遡のぼって、魔力の境を窮むるとき、桃源に骨を白うして、再び塵寰に帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊たる夢の大いなるうちに、燦たる一点の妖星が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、眉近くせまるのである。女は紫色の着物を着ている。
静かなる昼を、静かに栞をぬいて、箔に重き一巻を、女は膝の上に読む。
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たしかに、周囲の情景から抜け出して、際立つキュートさとコケットリーで、引き込まれるような妖しい燦きを放つ藤尾という女性を、見事に表現しているが、これだけの麗句美辞の散乱は、もはや意味を取ることさえ難しい。そしてそれは、漱石の筆から飛び出してゆく(笑)
(追記2)
夏目漱石は、生涯で京都を4度訪れたらしい。最初は明治25年の夏、大学の学年末試験を終え、親友の正岡子規と2人で夏休みを利用しての旅だった。円山公園、清水寺、比叡山などに行ったという。その時の比叡山登山の経験が、「虞美人草」での冒頭記述に行かされたのだろう。
2度目は明治40年春で、朝日新聞社への入社を控えた時期だった。この2度の京都体験については随筆「京に着ける夕」に詳しく書かれている。
「春の川を隔てて男女哉」
漱石がどのような趣向でこの句を発したかは図りかねるが、いささか気がかりだった「お多佳さん」だったことは違いない。いまでは、鴨川を挟んで対岸を眺めると、若い男女カップルが囁き合っているのが一望できる。まるで電線の雀のように一定の間隔を置いて並び、その距離はおよそ二間(5m)で、小声だとちょうど隣のカップルに聞こえないという絶妙な距離感なのである(笑)
もと祇園の芸妓「おたかさん」といえば、舟橋聖一の小説「花の生涯」のヒロイン「村山たか」も名を残している。大老井伊直弼やその重臣長野主膳と通じ、京の反幕府勢力の情報を江戸に送ったとして、桜田門外の変で直弼が暗殺されると、尊王攘夷派に捕らえられ三条河原に晒されたという。NHK大河ドラマの「花の生涯」では、「村山たか」を淡島千景が演じた。
まさに時を越えて、祇園の「おたかさん」たちは躍動したのである。
(追記3)
高桐院の裏側に高校があったので、しょっちゅう授業さぼって、本堂の縁側で寝そべってたよ、楓の庭を眺めながら(笑) 当時は拝観料20円で、観光客などほとんど居なかった。
NHKドラマで「漱石悶々 夏目漱石最後の恋 京都祇園の二十九日間」というのがあって、例の女将お多佳さんとの交流を描いたものだった。そのなかで、校門前の通りを漱石が人力車で通るシーンがあった。高桐院の裏側は瓦土塀で能面なども埋め込んであって、その土塀が背景に映ったんだ。
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009050590_00000
大徳寺の数ある塔頭の中でも、当時から高桐院が一番の好みで、とりわけ本堂入り口までの参道の四季のもようがお気に入りだった。やたら老け込み気味の高校生だな(笑)
NHKスーパープレミアム
「漱石悶々 夏目漱石最後の恋 京都祇園の二十九日間」
「漱石悶々 夏目漱石最後の恋 京都祇園の二十九日間」
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2016075145SA000/index.html?capid=TV60
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1915(大正4)年、48歳の夏目漱石(豊川悦司)は強度の神経衰弱と胃潰瘍に苦しんでいました。友人の若い画家・津田青楓(林遣都)に京都での静養を勧められ、 3月20日、漱石は木屋町の旅館に投宿します。
そこで出会ったのが、祇園のお茶屋の若き女将・多佳(宮沢りえ)。芸・才・美貌を兼ね備えた多佳に強く惹かれる漱石でしたが、大阪の実業家や百戦錬磨の老舗旅館の主人など多佳に言い寄るライバルは多く、気をもむばかりです。
ある日、梅見の約束をすっぽかされて逆上した漱石は、人力車で京都の街を暴走、遂には洋食屋で暴飲暴食し、胃潰瘍を悪化させて寝込んでしまいます(3月24日の日記による)。動揺した津田青楓は何と東京に連絡し、妻の鏡子(秋山菜津子)を呼び寄せてしまい…。果たして漱石先生の“最後の恋”の行方は?
文豪が人間らしく思うままに生きた京都の29日間を描く藤本有紀作のドラマで、エンドロールには「このドラマは日記や書簡等をもとに多少の妄想を加えたフィクションです」との注記がありました。
第33回ATP賞テレビグランプリ・ドラマ部門優秀賞と、第70回映像技術賞(撮影)を受賞。
【漱石における"明暗"】
漱石は、本格的に作家としてやっていくために、朝日新聞に籍を置いて「虞美人草」を書いた。恋愛というエゴと、日常の打算というもう一つのエゴのせめぎ合いを、藤尾という女性キャラに照らし合わせて、分光してみせた。
それまでの漱石と比べて、思いっきり拡張した世界を描いたが、さすがに手に負えかねたのか、唐突に藤尾を殺して終わらせる。いわば、"無駄"な部分をいっぱい拡大したわけで、漱石自身、失敗作と評している。
しかし、私にはこの作品がいちばん面白かった。スタンダールの「赤と黒」みたいな活劇的絢爛さを感じながら読んだ。漱石の後半作品でのテーマを、すべて含んでいると思う。
「三四郎」に始まる三部作では、恋愛というエゴの行く末を描いた。三四郎の淡い思春期ロマンスが、「門」では、煮詰まった夫婦生活の小さな幸せへと収斂してゆく。ある意味、愛をネガティブに照射して見せたと言える。
後期三部作では、ロマンス要素の無き、日常の下でのエゴが描き出される。ロマンスを剥ぎ取られたエゴは、つまるところ「こころ」での先生の自殺に行き着く。日常でのエゴもまた、やはりネガティブなものとして描かれた。
漱石は「私の個人主義」では「自己本位」を説いて、エゴの重要性を主張している。一方で「則天去私」などということも言って、ある意味、矛盾を抱えているように思われるが、これは一つの「自己」というものの両面を表現したに過ぎない。
「明暗」は、そのような新境地を開いたかのような作品と思われたが、漱石の死によって中断された。"明暗"とは、まさしくエゴのポジティブとネガティブを合わせ表象したものとも考えられる。
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