2021年5月7日金曜日

#京都・文学散策#【11.谷崎潤一郎「細雪」 嵯峨野/岡崎/平安神宮】

京都・文学散策【11.谷崎潤一郎「細雪」 嵯峨野/岡崎/平安神宮】


 大沢の池の堤の上へもちょっと上って見て、大覚寺、清涼寺、天竜寺の門の前を通って、今年もまた渡月橋の袂へ来た。京洛の花時の人の出盛りに、一つの異風を添えるものは、濃い単色の朝鮮服を着た半島の婦人たちの群がきまって交っていることであるが、今年も渡月橋を渡ったあたりの水辺の花の蔭に、参々伍々うずくまって昼食をしたため、中には女だてらに酔って浮かれている者もあった。

 幸子たちは、去年は大悲閣で、一昨年は橋の袂の三軒家で、弁当の折詰を開いたが、今年は十三詣まいりで有名な虚空蔵菩薩のある法輪寺の山を選んだ。そして再び渡月橋を渡り、天竜寺の北の竹藪中の径を、「悦ちゃん、雀すずめのお宿よ」などと云いながら、野の宮の方へ歩いたが、午後になってから風が出て急にうすら寒くなり、厭離庵の庵室を訪れた時分には、あの入口のところにある桜が姉妹たちの袂におびただしく散った。

 それからもう一度清涼寺の門前に出、釈迦堂前の停留所から愛宕電車で嵐山に戻り、三度渡月橋の北詰に来て一と休みした後、タキシーを拾って平安神宮に向った。

 あの、神門をはいって大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、―――海外にまでその美を謳われているという名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廊の門をくぐるまではあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女たちは、たちまち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、「あー」と、感歎の声を放った。

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 『細雪』は、大阪船場の旧家蒔岡(まきおか)家の4人姉妹、鶴子・幸子・雪子・妙子の繰り広げる物語。次女幸子は、谷崎の三度目の妻松子がモデルで、彼女から触発されて「細雪」を執筆した。大阪船場に育った四姉妹の間で、芦屋に居をかまえた幸子夫妻との行き来など、場面は阪神間を中心に展開されるが、引用部分は、毎年、桜の時期に訪れる京都が舞台となっている。

 東京下町に生まれ育ち、生粋の江戸っ子と呼んでもおかしくない谷崎潤一郎が、いくら関東大震災にビビったとはいえ、関西に移り住み、阪神間の文化にどっぷりと浸かって馴染んだのは不思議でもある。谷崎は、最初、京都に仮の居を定めたが、すぐに阪神間に転居する。おそらく谷崎には、京都の「伝統文化」というものには関心がなかった。引用部にあるように、谷崎にとって京都は、一年に一度花見などに行く場所なのであった。

 近年になって規定され出した言葉だが、「阪神間モダニズム」の最盛期が、まさに「細雪」に描かれた舞台であった。小林一三による阪急電車の阪神間山手沿線などに、風光明媚かつ快適な住環境の住宅地が供給され、そこに実業家や文化人などがモダンな邸宅を建設し、ゆとりのある趣味文化を形成した。

 阪神間モダニズムは、「ライフスタイルと都市文化」を示すものなのだが、具体的にはその時期の建築物が提示されやすい。野坂昭如『火垂るの墓』にも出てくる「御影公会堂」などもその一つだが、一方で、生活文化そのものは形がなくて示しにくい。「細雪」では、大阪船場の商人文化を継承維持しながら、それを阪神間モダニズムの中で具現したような日常生活が描かれていて、貴重な文献遺産ともなっていると言えよう。

*映画化・ドラマ化は何度も行われており、いつも四姉妹のキャスティングが話題となる。ここでは1983年市川崑監督のものを挙げておこう。 https://www.youtube.com/watch?v=esgqJ_y0sCI

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