2022年2月14日月曜日

#京都雑記#【15.京都の大火と街並の変遷】

京都雑記【15.京都の大火と街並の変遷】


 宝永5(1708)年3月8日午の下刻、京都の油小路通三条あたりから出火、南西の風に煽られて被害が拡大し、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上、九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした417ヵ町、10,351軒、佛光寺や下鴨神社などの諸寺社などを焼いた。

 江戸時代における京都の三大大火は、1708年の「宝永の大火」、1788年の「天明の大火」、1864年の「元治の大火」が挙げられる。天明の大火は鴨川東側の宮川町団栗辻子から出火したため「団栗(どんぐり)焼け」とも呼ばる。また、元治の大火は禁門(蛤御門)の変によって御所の周辺から出火、御所の西部や南東方面一帯にどんどん焼け広がったため「どんどん焼け」と言われた。

 宝永の大火では、火災後「見渡せば京も田舎となりにけり 芦の仮屋の春の夕暮」と書かれた落首が市中に貼られるなど、京都御所とその南部一帯が焼け出された。そのため火災後、一部の町及び民家が鴨川の東などに丸ごと移転され、京都の市街が鴨東(おうとう)地域に拡大されることになった。

 当時の京都御所周辺には、公家の屋敷と町屋が混在していたが、焼失した禁裏の周りに公家邸を集中させ、混在していた町屋は鴨東の二条川東に広がる畑地に移転させた。町並み丸ごと移転させたため、この地域には、新丸太町通・新麩屋町通・新富小路通・新東洞院通・新柳馬場通・新堺町通・新高倉通など、新の字を頭につけた通り名がたくさん出来たという。

 これらは本来、御所の南側に南北に走る通りの名で(丸太町通のみは東西)、これらの京都の中心街を知る人にとっては、このまったく別場所に出来た新地名をみると驚かされる。

 これをきっかけに、洛外で畑地でしかなかった鴨川の東に町屋が広がるようになったらしい。そして大火で焼けた禁裏周辺には、散在していた公家屋敷を集中させたのだが、1864年の「禁門(蛤御門)の変」で、御所の周りが「どんどん焼け」と呼ばれる大火でまる焼けとなってしまった。

 そして明治維新で東京遷都となると、帝とともに公家屋敷も東京へ移転して、御所周辺は荒れ放題となった。維新政府の重鎮となった岩倉具視が、その状態を憂え整備を命じた結果、御所周辺が公園化され、いまの京都御苑公園となったのである。



(追記)2025/03/13
 子供の頃、落ち葉などのたき火を「どんどん焼き」と呼んでた。

 近くの神社で、正月の門松や飾り物を焼く供養の儀式も、「どんどん焼き」ないし「どんど焼き」と呼んだ。これは宮中の小正月(1月15日)に起源をもつと言われる「左義長」とも呼ばれるようだ。

 さらに、密教の修法として毎月28日に行われる「護摩供養」(ごまくよう)も、同じく遊び場だった神社の境内で行われた。山伏の装束をまとった人たちが呪文をとなえながら、各自が奉納した護摩木をくべる行事だった。これも区別なしで「どんどん焼き」だった。





2022年2月4日金曜日

#京都雑記#【14.京都岡崎公園と文化施設の今】

京都雑記【14.京都岡崎公園と文化施設の今】


 京都の岡崎の地は、京都市左京区の南部に存在する地域であり、この地は平安時代に法勝寺など大寺が建ち並ぶ故地であったが、その後の戦乱で灰燼に帰しており、幕末維新のころには空き地が広がっていた。しかし1895(明治28)年、この岡崎地域で平安遷都千百年紀念祭と第四回内国勧業博覧会が実施されることになり、この地域が再開発された。

 当初は平安京の大極殿の地域が予定されたが、紀念祭や博覧会を実施できる空き地は無く、完成したばかりの蹴上疎水が流れ、利便がよくなったこの岡崎が着目された。平安京の大内裏の復元が計画され、平安京の正庁であった朝堂院を模して「平安神宮」が造営され、実物の8分の5の規模で復元された。

 この会場跡地はその後整備が進められ、1900(明治33)年、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)のご成婚に合わせて動物園の開設が決定され、1903年(明治36年)4月1日、東宮御慶事記念動物園として開園する。これが現在の「京都市動物園」で、市民には岡崎動物園と呼ばれて親しまれており、東京上野動物園に次いで日本で2番目に古い動物園である。

 同時に勧業博覧会場跡地は「岡崎公園」と称され、公園内には1909(明治42)年に「京都府立図書館」が移転設置され、さらにいくつもの文化施設が設置されてゆく。1933(昭和8)年に「京都市美術館」が開館、1937(昭和12)年には「京都市立勧業館」が竣工した。戦後にも、1960(昭和35)年に「京都会館」、1962(昭和37)年には勧業館別館が改装され「京都国立近代美術館」となった。

 勧業博にさいしては、京都七条(現JR京都駅)から岡崎勧業博会場まで、日本最初の市街電車で結ばれ、その電力はこれまた日本最初の蹴上水力発電所の電力でまかなわれた。岡崎は、上記文化施設等とともに、まさに京都近代文化の起点となったのである。

 これらの文化施設は老朽化が進んだため、近年に次々と改装改築された。京都市勧業館は全面的に建替えら、通称「みやこめっせ」とされて、京都府最大の展示場延べ面積を誇るイベント会場となった。京都市動物園も全面的にリニューアルされ、新しい展示様式とともに市民のリクレーションの場となった。

 ほかにも、京都市立美術館が全面リニューアルされ「京都市京セラ美術館」となり、京都会館は改築改修にともなって「ロームシアター京都」となったが、前川國男設計京都会館は文化財として重要とする異議もはさまれた。

 しかし「京セラ美術館」や「ロームシアター」という新たな呼び名は、いわゆるネーミングライツという命名権売却によって企業名がかぶせられることになり、古くからの市民には元の施設が何か分からないという声も寄せられている。

 ほかにも、岡崎ではないが、「わかさスタジアム」だの「たけびしスタジアム」だのと言われると、もはやどこにあるのかもわからない。それぞれ「西京極球場」や「西京極運動競技場」の時代が懐かしいと思うのは、もはやロートル化した元市民の泣き言でしかないのか(笑)