2026年10月17日土曜日

#郷土史散策#【13.あらためて「大徳寺」特集】

郷土史散策【13.あらためて「大徳寺」特集】(2026/10/17記)

 東京国立博物館で「大徳寺展」をやっている。2026/10/14(水)~12/06(日)の2ヵ月の長期展なので、関東住まいの人はぜひとも行ってみてほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=RX3Ammqs0YY

 大徳寺は生まれ育った実家の近くで、中高生のころは格好のあそび場、しかも母校 京都市立紫野高校は、ほぼ大徳寺の境内にあり、通学の経路でもあった。何度か断片的に触れることはあったが、改めて取り上げることはなかった。このさい、もう一度まとめてみようと思う。

 「大徳寺」は、京都市北区紫野にある「臨済宗大徳寺派」の大本山寺院で、正式名称は「龍宝山 大徳寺」、本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)、正中2年(1325年)に創建された。「正中の変」として、後醍醐天皇の最初の討幕計画が発覚したころである。

 京都でも有数の規模の禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)などの中心伽藍のほか、別院2か寺、塔頭20カ寺が立ち並びぶ。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた。本坊および塔頭寺院では、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を有している。

 


歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。11歳の時、地元の大寺院である圓教寺に入って天台宗を学ぶが、後に禅宗に目覚めて鎌倉の高峰顕日、京都の南浦紹明に参禅。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。

その後、数年間京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)[2]ないし元応元年(1319年)に叔父の赤松則村(円心)の帰依と寄進を受け[2]、洛北紫野の地に小堂・大徳庵を建立した。これが大徳寺の起源という。花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発し、勅願寺とされた[2]。寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。

花園上皇や光厳天皇ら歴代天皇、中御門経継、守良親王、新田義貞などの有力貴族からの寄進を受け、元弘3年(1333年)頃には播磨国、摂津国、紀伊国などの畿内各地に加え、信濃国、下総国、美濃国のなど広範囲にわたって延7,600石の寺領を有していた。

後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には当寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。また、後醍醐天皇の勅願寺とされている[2]。しかし、建武の新政が瓦解して室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。至徳3年(1386年)には十刹の最下位に近い第9位とされている。このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)に足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、当寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。

その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出している。

享徳2年(1453年)の火災、次いで応仁の乱により仏殿や法堂が焼失する[1]などの被害がでて当初の伽藍を失って衰退したが、一休が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興している[2]。また、各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしている。

侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。

天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われている。翌天正11年(1583年)には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建され[2]、これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受けた。また、諸大名による塔頭の建立が相次ぎ当寺は隆盛を極めた[2]。

天正17年(1589年)には千利休によって作りかけであった山門の金毛閣が完成している。利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。利休は山門を修復した後、住職の春屋宗園に山門の供養を書かせた。その後、上層に雪駄を履いた利休の木像が安置されたことにより、豊臣秀吉が激怒して利休を切腹させたとされる[2]。

江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25か国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2,011石余を有した。この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)に塔頭13寺を合併(事実上の廃絶)、4寺を切縮[3]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[4]ものの、寺運は栄え今日に至っている。

境内
勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ[1]。

仏殿(重要文化財) - 当寺の本堂。寛文5年(1665年)に京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)による寄進で再建された[1]。本尊の釈迦如来坐像を祀っている。なお本尊釈迦如来坐像は、寛文年間(1661年 - 1673年)に再建された方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。方広寺を管理下に置いていた妙法院側の史料である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』および大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、本尊釈迦如来坐像は、大仏製作を手掛けた仏師玄信により、大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたものであるという(方広寺大仏再建には江戸幕府が関与していた)[5]。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図で、文明11年(1479年)に堺の豪商・尾和宗臨の寄進で再建された以前の仏殿からの再利用である。
法堂(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に江月和尚の参徒であった小田原藩主稲葉正勝と子の正則によって再建された。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作である[1]。
経蔵(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に那波宗旦により再建。
鐘楼(重要文化財) - 天正11年(1583年)再建。
本坊(宗務本所)
庫裏(重要文化財) - 寛永13年(1636年)頃再建。旧方丈の古材を使用している。
寝堂(重要文化財) - 茶堂とも呼ばれる。寛永7年(1630年)に長州藩の家老・益田元祥により建立。
廊下(重要文化財)
方丈(国宝) - 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる日本様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作[1]。
玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる勅使門の西側に建てられていた唐門を方丈前に移築した[1]。なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」[1]というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[6]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。
方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。
茶室「起龍軒」
侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。
本坊表門
近衛家墓所
近衛家歴代の墓
鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。
千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。
平康頼の墓
山門(重要文化財) - 二層の山門で、金毛閣とも呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、金毛閣と名付けられた[1]。利休の恩に報いるために、寺は上層に雪駄を履いた彼の木像を造り、安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買い、切腹の一因となったとする巷説が広く知られている。また、利休が住職の春屋宗園に依頼して書かせた偈があり、内容は「千門萬戶一時開、月斧雲斤功夫哉、據地金毛高閣上、舉揭臨濟話頭來」と、これも利休の影響力が自身を超えていると見なされて秀吉の不興を買ったという説がある。天井画の龍図は長谷川等伯の作。金毛閣の額は雲英宗偉の筆による。
勅使門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され[1]、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。2000年(平成12年)に屋根等が修復されている[1]。
浴室(重要文化財) - 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹由(はいやじょうゆう)の寄進により再建。
南門
梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。
総門
法堂(はっとう)
法堂(はっとう)
 
山門「金毛閣」
山門「金毛閣」
 
山門の上層
山門の上層
 
勅使門
勅使門
 
庫裏
庫裏
 
唐門(国宝)
唐門(国宝)
塔頭
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[7]。2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。

徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したりしたときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。1878年(明治11年)養徳院と合併案が出るが[4]これを回避、1925年(大正14年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは1973年(昭和48年)に再興されたもの。
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画がある。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭がある。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園がある。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は日本で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)がある。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[4]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[4]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[4]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[4]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔うために建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[4]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所、三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)がある。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都における同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王 - 七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[4]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家および歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[4]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)がある。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会日本支部を設立し、庵を復興。
門外塔頭2寺

来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
旧塔頭

松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[4]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。1878年(明治11年)に大徳寺本寺へ合併[4]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[4]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[4]。
龍源院
龍源院
 
瑞峯院
瑞峯院
 
黄梅院
黄梅院
 
聚光院
聚光院
 
興臨院
興臨院
 
大仙院
大仙院
 
高桐院
高桐院
 
芳春院
芳春院
 
三玄院
三玄院
 

2026年9月19日土曜日

#京都雑記#【22.兄の思い出】

京都雑記【22.兄の思い出】


 今年(2026年)の初めに、昭和9年生まれの兄が91歳で亡くなった。私にとってはたった一人の兄弟だった。実はその上に姉がいたらしいが、私が生まれる前の戦中に、小学5年生で病気で亡くなっているらしく、残された一枚の小さな写真を見ただけである。この機会に兄の記憶を書いておく。

 戦後1948年生まれの私がもの心ついたとき、兄はすでに高校生、戦争直後の新制中学で一期生だったそうだ。府立山城高校でラグビーをやってるのを、母に連れられて見学に行った記憶が残っている。それ以降の記憶は、同志社大学の学生だったころからだ。大学の四隅のとがった角帽に、玉子の白身やタバコの吸い殻をこすりつけてわざと汚していた。当時はまだ、バンカラの風習も残っていたようだ。

 兄とはじつに14歳も歳が離れていたので、体力的にも精神的にも、兄弟喧嘩などする余地がなかった。幼時の私には、スポーツが得意で、まわりからも「アキさん」と親しまれている兄が、ちょいと誇らしい存在だった。

 兄が町内青年会のメンバー数人と、二階の部屋で談笑している場を、幼い私もたまに覗かせてもらった。たわいない話をしているだけだが、そこははじめて見る大人の世界で楽しかった。兄の世界が、唯一私の大人への入り口だった。

 戦後の復興景気が終わり、「なべ底不況(1957〜1958)」と呼ばれた時期、卒業をひかえた2月になっても、兄は就職先が決まらず鬱屈としていたのも憶えている。近所に住む中堅企業の重役さん宅に、母が何度も頭をさげて頼みにいって、やっとのことで山科の会社に就職が決まったようだ。

 会社では経理部に配属されて、本社の経理を定年まで40年近く仕切った。家では会社の話をいろいろしたので、私にも会社員生活の模様が多少わかるようになった。本社の経理部長にまでなったので、資材仕入れなどの出入り業者にとっては、金を払ってくれる大本、とにかくひれ伏すように接してくる。

 わたしは後年、営業マンになったので、とにかく頭を下げることから始まるが、兄の立場では、対外的に頭を下げることが無かったと想像できる。ということで、必然的に横柄な態度をとる習慣ができたのだろう。

 ということで、対人的に横柄な態度にみえることがあったのは、そのせいだろう。そのへんで、互いに大人になってからの物事の捉え方が180度違っていたように思う。

 私は次男坊でちゃらんぽらんな生き方をしたが、兄は長男として、近所付き合いから親戚付き合いまで、律儀に対応してきた。子供のころの私にも、クリスマスプレゼントなどを忘れずに枕元に置いてくれたりした思い出がある。

 兄弟げんかする余地もないほど年齢が開いていたが、私が思春期を迎えて、傲慢になってきた高校生のとき、たった一度だけ、兄と口喧嘩になった。思春期の自我が芽生えたころで、自分自身の我がままな性格を嫌うようになっていたが、逆に兄も同じような性格を持っているのが分かるようになって、それがとっても嫌な気がしていたので、些細なきっかけで口ごたえするようになったのだと思われる。

 その後、私が所帯をもって家を出たあと、仕事で失敗して、兄に多大な金銭的な迷惑をかけた。それ以来、兄にはまったく頭が上がらなくなった。これに関しては、まったく申し訳ないと思っている。

 歳を取ってからは、半年に一度ていど電話してご機嫌伺いをするようにしていたが、一年ほど連絡を取らない時期があって、今年の正月に何とか電話をしたところ、兄嫁から入院してると告げられた。一度手術で切り取った癌が再発したとのことで 一度手術で切り取った癌が再発したとのことで、歳も90歳を越えており、手術もできないらしい。

 私も歳をとって、車の運転もままならない状況になっていたが、この機会にしか京都市内に行くことができなだろうと思い切って車を走らせた。実家に着くと応対に出た義姉から、実はもう亡くなっていて身内で葬儀を済ませたところだと告げられた。

 私も老齢化して、市内に行くことも難しい状況を知っていたので、葬儀を済ませて落ち着いてから連絡するつもりだったそうだ。電話したときには詳しいことは言わなかったのだが、虫の知らせというのだろうか、いま思い切って行くしか機会が無いと思って、車を走らせたのだった。玄関の客間に祀られた祭壇には、これまであまり見たこともないような笑顔の兄の遺影が祀られて、それに手を合わせて別れを済ますことになった。合掌

2026年9月12日土曜日

#京都雑記#【21.桓武天皇(737~806)と平安京】

【21.桓武天皇(737~806)と平安京】

 「桓武天皇」(かんむてんのう)は、山城の地に「平安京」を定め、千年の都京都の端緒を開いた天皇として、切っても切れない縁がある。ただし、いきなり平安京に遷都したわけではなく、784年に平城京(奈良)から長岡京(京都府向日市)に移転させたが、さらにわずか10年の後の794年に都を平安京(京都)に移した。

 70年余り続いた奈良の平城京には、近くに大きな川がなく水運や排水に難があった。そのような地勢上の理由もあったが、桓武天皇が奈良から都を移転させることを考えたのは、やはり政治的な理由が大きい。

 光仁天皇の崩御により桓武天皇が即位するが、当時の平城京には天武系の勢力が強く、また、東大寺・興福寺など南都七大寺と呼ばれた寺院勢力も強大で、後ろ盾のない桓武天皇はその勢力圏外に都を移そうと考えた。そして延暦3(784)年、当時未開の山城国乙訓(おとくに)郡に、「長岡京」を造営して遷都する。

 平城京の時代は、持統・元明の女帝を除くと、壬申の乱によって王権を握った天武系皇の皇統が続いた。女帝の称徳天皇は子供を産まなかったため、その隙間をついて道鏡が皇位を望むなど政治が乱れ、そこで天武の嫡流が途絶えた。止むを得ず天智系で60歳を超えていた光仁天皇(白壁王)が即位し、まったく立太子の可能性のなかったその子の桓武天皇(山部王)にも、天皇を受け継ぐ偶然がやってきた。

 しかし遷都の翌年に、長岡京造営の責任者 藤原種継が何者かに暗殺された。犯行首謀者の中に皇太弟「早良親王」も連座するとされ、冤罪とするも配流され途上で悶死する。親王の死後、桓武天皇の近親に変事が重なり、さらに飢饉・疫病の大流行や河川の氾濫などの凶事が続いた。

 桓武天皇はこれが早良親王の怨霊の祟りとして怖れおののき、長岡京遷都からわずか10年後の延暦13(794)年、長岡京の北東の山背国葛野(かどの)郡および愛宕(おたぎ)郡の地に再遷都する。桓武天皇は現在の京都市東山区にある「将軍塚」から見渡して、新たな都に相応しいとして定めたとされるのが「平安京」である。

 桓武天皇は渡来人の血をひく高野新笠を母とし、早くから山城の地に地盤を持つ渡来人 秦氏の協力を仰ぎ、一方で藤原式家良継の娘 藤原乙牟漏を皇后とし、同じ藤原式家の藤原百川らを重用しながら、二度に及んだ遷都を推進したと思われる。

 桓武天皇は平城京で即位すると、律令政治再建を目指し、班田収授の励行・勘解由使の設置といった改良を加え、また律令制で農民に一律に課された兵役は負担が大きく、それを郡司の子弟や武芸に秀でたものを選抜した「健児の制」に改めた。そして、唐の都 長安にならった条坊制に基づいて、平城京や長岡京よりさらに広大な平安京を造営し、新たな律令制を目指した。

 さらに、奈良での寺院勢力を排除するために、平安京では原則的に新規寺院の建立を認めず、唐から持ち帰った最澄や空海の説く新仏教を保護した。また、健児制で地方の軍政を整備し、坂上田村麻呂を「征夷大将軍」に任命し、東北の蝦夷平定を行い、奥羽地方を中央政府の支配下に納めた。

 しかし悶死した早良親王に代わって皇太子となった安殿親王は、決して父親桓武と良好な関係とは言えず、妃の母であった「藤原薬子」を寵愛し、桓武から薬子の追放を命じられるなどその怒りをかった。そして桓武天皇崩御のあと践祚し「平城天皇」となったが、なおも天皇の寵愛を受ける薬子は兄の藤原仲成とともに、政治に介入するなど専横を極めた。

 平城天皇は病弱のため、在位僅か3年で皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、平城上皇は薬子とともに旧都平城京に移り住んだ。しかも、仲成・薬子兄妹の強い要請を受けて、平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った。

 しかし嵯峨天皇側は機先を制し、薬子の官位を剥奪、兄の仲成を捕縛した。平城上皇は、挙兵し薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻った。平城上皇は直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。これは「薬子の変」呼ばれたが、近年では「平城太上天皇の変」という表現もなされる。

 このように、桓武天皇が目指した平安京での律令制はその死後も安定せず、嵯峨天皇以降に少しづつ安定してゆくが、一方で、藤原冬嗣以下の藤原北家が台頭し、天皇が治める律令制から、藤原氏の摂関政治へと移行してゆく。


2026年9月11日金曜日

#京都回想記#【46.やがて転勤で埼玉 所沢へ】

京都回想記【46.やがて転勤で埼玉 所沢へ】


 1980(昭55)年の夏、埼玉県の所沢市に転勤になった。埼玉の田舎とはいえ、人生で初めての関東住まいになるし、新宿にも西武線で40分ほどで、所沢駅から一つ先の「新所沢」が最寄りだった。

 かつての武蔵野の一角、一帯に関東ローム層が展開している地域で、住み慣れた関西に比べて、土地がやたら暗いというのが第一印象だった。会社からあてがわれた住まいは、新所沢駅前広場に面したマンションの8階で、便利そのもので、しかも販売会社へは線路を越えて北側に、歩いて10分の距離にあった。

 住環境の利便は文句なしで、初めてのローカルな生活が始まった。しかし、関東ローカルの土地柄にはなじみがなく、仕事先の関係でも不慣れな生活だったし、何よりも言葉の違いに戸惑った。ある程度は土地の言葉に合わせているつもりでも、べたな関西言葉の抑揚は隠しようが無かった。

  こうして所沢でも資生堂セールスマンとしての仕事が始まったわけだが、ここは「京都回想記」となっているので、一旦このシリーズは休止する。あらためて別タイトルで始めることができればよいが。

昭和55年(1980)はこんな年だった

2026年7月5日日曜日

#郷土史散策#【12.難読駅名 嵐電に乗る】

郷土史散策【12.難読駅名 嵐電に乗る】


 京都市電が廃止されて以降、市内で路面電車と思えるのは叡電と嵐電だが、叡電は厳密には路面電車と言えないらしい。「嵐電」は、京福電鉄 「嵐山本線」と「北野線」の総称としてもちいられる。

 まずは無作為に、難読と思われる駅名を挙げてみる。

 (嵐電嵐山本線)
西院・蚕ノ社・太秦広隆寺・帷子ノ辻・有栖川・車折神社・鹿王院・嵐電嵯峨
(嵐電北野線)
等持院・龍安寺・妙心寺・御室仁和寺・鳴滝・常盤

 嵐山本線は、「四条大宮(しじょう おおみや)」を起点として、途中「帷子ノ辻」で北野線と合流し、終点「嵐山」に至る。阪急京都線の「四条大宮」駅もあり、かつてはターミナルとしてにぎわったが、阪急電車が河原町まで延伸し、ただの通過駅となってしまった。

 次が「西院」で、嵐電駅では「さい」と表記されるが、地下を通る阪急の駅では「さいいん」と読まれる。その謂れもいろいろあって、淳和天皇の後院(西院)があったことによるとか、この世とあの世の境目とされる「賽(さい)の河原」があったというものがある。

 「蚕ノ社(かいこのやしろ)」は、太秦森ヶ東町にある神社に由来し、本殿の右の摂社「養蚕神社(こかい じんじゃ)」は、大陸から織物技術を伝えた「秦氏」にゆかりが深く、ここから「蚕の社」の通称が生まれた。境内に「元糺(もとただす)の池」があり、その上段には珍しい「三方正面の石造の鳥居」が建っている。

 「太秦(うずまさ) 広隆寺」は、「広隆寺」や「太秦映画村」へのアクセスポイント。この地は、半島からの帰化人「秦一族」の所領として栄えた。日本書紀に「秦酒公(はたのさけのきみ)が絹等をうずたかく盛って奉納したことから、禹豆麻佐(うつまさ)の姓を賜った」ことが記されている。

 「広隆寺」は秦氏の氏寺であり、聖徳太子信仰の寺でもある。広隆寺にある「弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)」は国宝指定第1号とされ、昭和35(1960)年)8月、京大生が菩薩像に抱き着こうとして、右手薬指が折れるという事件があった。

 「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」、カタとは丘山に沿う地形で坂・崖を意味する言葉。「都名所図会」が「上嵯峨、下嵯峨、太秦、常盤、広沢、愛宕などの別れ道なり」と示すように、古くから分岐点としての役割を担っており、現在もこの駅で北野線と嵐山線が分岐する要所となっている。

 地名の由来は諸説あるが、嵯峨天皇の皇后にあたる壇林皇后の嵯峨深山谷への葬送の際に、棺を覆った帷子の衣が風で落ちた、という逸話が有名である。壇林皇后は死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、帷子辻において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したという。その時、皇后の遺体に掛けられていた帷子が風に舞ったのである。

 「有栖川(ありすがわ)」駅は、大覚寺からの流れでる清流の有栖川に由来し、有栖川の歴史は古く、徒然草にもその名が見られる。有栖は「荒瀬」がなまったものか。開業当初の停留場名は「嵯峨野駅」だったが、観光名所がある嵐山と勘違いされるので変更された。

 「車折(くるまざき)」は、近くの「車折神社」に由来する。車折神社は、後嵯峨天皇が嵐山に来られた際、社の前で車の轅(ながえ)が折れたので「車折大明神」の神号が贈られたことによる。商売繁盛の御利益があるされ、境内には芸能神社があり、奉納した芸能人の名が記された朱の玉垣は圧巻。

 「鹿王院(ろくおういん)」、嵯峨北堀町にある、臨済宗の単一寺院に由来した駅名。正式には「覚雄山大福田宝幢禅寺」と称し、本尊は釈迦如来。遠景に嵐山を臨む閑静な寺院は、隠れた紅葉人気スポットでもある。

 嵐電北野線では、「等持院(とうじいん)」「龍安寺(りょうあんじ)」「妙心寺(みょうしんじ)」「御室仁和寺(おむろ にんなじ)」は、それぞれ著名な寺院に由来する駅名なので、ここでは割愛する。

 「鳴滝(なるたき)」は、この地にある小さな滝が、轟音を鳴らしていたことによるとされ、宇多野・鳴滝駅間の「桜のトンネル」は絶景。「常盤(ときわ)」は、嵯峨源治の始祖「源 常(みなもと の ときわ)」の山荘跡に由来したといわれる。

2025年6月2日月曜日

#郷土史散策#【11.京の七野と蓮台野】

郷土史散策【11.京の七野と蓮台野】



 平安京の内裏の北部に、「京の洛北 七野」と呼ばれる地域があったと言われている。「内野・北野・平野・上野・紫野・蓮台野・〆野(点野/しめの)」がそれ(若干異同あり)とされる。

 一方で、平安京以来の「三大葬送の地」とされる場所があり、それは「鳥辺野(とりべの・洛東)、化野(あだしの・洛西)、蓮台野(れんだいの・洛北)」とされ、源氏や枕草子にも出てくるから、まず間違いない。

 しかし、火葬・埋葬されるのはごく一部の貴族階層だけで、多くの庶民は「風葬・野葬」といって野辺に放置して自然風化にまかせられたようだ。「野」という言葉を付けて呼ばれる土地には、このような野葬の場という意味をもつものが多い。ただし、「禁野」として、天皇や上級貴族の狩り場として、囲い地にして一般人の狩猟を禁じた「野」もある。男子は馬上で鷹狩、婦女子は薬草摘みなどで行楽にいそしんだようで、紫野や〆野などはそれにあたる。

*七野を地図上にドットしてみた。現存の地名などから推定したので、正確では無い。

 蓮台野と紫野は隣接しているので明確に切り分けられないが、「蓮台野」は紫野の西にあたり、千本通を中心に紙屋川と船岡山の間とされるが、その南北の範囲も定かでない。現在地名として残っているのは「上品蓮華寺」と「蓮台野町」だけだが、これらは千本通の南北にわたって、かなり離れている。仕方なしに、千本北大路を中心にかなり広めに黄色楕円で囲っておいた。かなりの部分が紫野と重なっているのはご理解いただきたい。

「蓮台野散策」

 60年以上前のことだが、祖父が亡くなったとき(s31)、金閣寺の裏山方面にあった火葬場で荼毘に付した記憶がある。これを「かつての葬送地 蓮台野の名残であろう」と書いたが、紙屋川を越えてさらに左大文字の山をも越えた場所に、かつての「蓮華谷火葬場跡」が残されており、さすがに蓮台野とは無関係の場所だ。「蓮華谷」と「蓮台野」という地名が、子供の脳みそで重なり合ってしまったようだが、ただ広くこのあたり一帯が葬送と結びついていたとは考えられる。

 こうやって調べていると、「二十歳の原点」という日記を残して、嵯峨野線で鉄道自殺した「高野悦子」は、この「蓮華谷火葬場」で荼毘に付されたということが分かった。つまり昭和44(1969)年ごろは、まだこの「蓮華谷火葬場」が使用されていたということだ。このことは、高野悦子の父親 高野三郎さんの手記に記されているとのこと。

>取るものも取りあえず京都に飛び本人であることを確認したとき、「どうか誤報であってほしい」とのはかない一縷の望みも、もろくも崩れ去ってしまいました。翌日、赤旗なびき騒然たる京大医学部に安置された遺体を引取り、午後四時から洛西の衣笠山葬場にて家族と在京の友人たち十数人で涙ながらの最後のお別れをしました。すっかり灰となったまだ温かい骨箱を胸にだきしめたとき、あの娘は本当に死んでしまったのだという実感がヒシヒシとわき、これでやっと手許に帰ってくれたのだ、それにしても何と変わり果てた姿だろうと、あふれる涙はどうすることもできませんでした。<
 (注)衣笠山葬場とは蓮華谷火葬場のことを指す

 ところで現在、地名としては「東蓮台野町」と「西蓮台野町」があるのみだが、実は我が母校である京都市立旭丘中学校は、まさに「東蓮台野町」の大半を占めている。そして裏門を出て北山通の向こう側は、鷹峯街道にかけて「西蓮台野町」である。したがって「蓮台野」はこのあたりだろうという意識が強いが、実際には北のはずれに当たるようだ。

 あと、蓮台野に関しては、宮本武蔵と吉岡道場当主の吉岡清十郎の決闘の場として話題になる。武蔵の物語ではよく出てくるが、この決闘の件は武蔵の養子が記したもので、吉岡道場の方からは、まったく別の話になっており、史実かどうかは不明。さらに有名な「一条下り松の決闘」は、その汚名をそぐために、吉岡一門総出で武蔵に立ち向かったという話になっている。中学生の時、仲間たちと学校裏の畑に出て、「決闘の後、ここで武蔵は立小便をしたのやで」とかデタラメをかましてた(笑)

2025年5月30日金曜日

#京都回想記#【45.チェインストア担当にも慣れて、峠を越えれば天下】

京都回想記【45.チェインストア担当にも慣れて、峠を越えれば天下】


 丹波地域を担当して半年ほどで地域を把握、営業活動もうまく進むようになった。1978(昭53)年春には長男が誕生し、家族3人での団地生活となった。国道9号線で老ノ坂峠を越えて丹波路に入ると、私の担当地域なので他の社員はいない。夏場の暑い時期などは、亀岡の保津川に架かる橋の下の河原で、エアコンのない営業車のドアを開けっぱなしにして、昼寝してサボるのが日課だった。

劇的な、劇的な、春です。レッド」(ベルばら実写映画に協賛/1979春)

 亀岡を越えると、八木町、園部町などの集落があり(現 南丹市)、さらに観音峠という急な峠道を越えて下りに入ると、そこは丹波町の須知という小集落で、その先は「丹波の分かれ」と読んでいた国道9号線と27号線の分岐点がある。この分かれまでが自分の担当地域で、その先は福知山販社の管轄となっていた。

「ナツコの夏」(世良公則/1979年夏)

 昭和55年(1980)になって、担当地域にも多少マンネリ気味になったころだったと思う。相変わらずの売り上げ停滞時期で、前年を上回るのも大変な時期だったが、他府県のある担当者が、「売上200パーセント挑戦」を達成したという話が、販売会議で成功事例として紹介された。京都市内などでは、軒並み前年割れの店が多いので、市内の担当者たちは、そんなの有り得ないと聞き流した。

 わたしの担当地域は郡部なので比較的マシな方だが、それでも厳しかった。しかし、かなりのんびりと惰性で店をやっているので、刺激をすれば何とかなりそうな余地があった。昭和55年の春のキャンペーンの時だったが、自分の担当する店に吹き込んで「200挑戦」をやらせてみた。

「不思議なピーチパイ」 (竹内まりや/1980年春)

 普通は大型店一店の集中するのだが、さほど大きな店のない自分の担当地域なので、いくつもの奥さんひとりでやってる中小の店に、軒並みこの企画を持ち込んでみた。当初は「とても無理」という店ばっかりだったが、とにかくやってみようとスタートした。

 特別なイベントはやれないので、店の奥さんの意識付けが大半だったが、毎日訪問して売り上げを控えて帰る。近くのライバル店の情報も伝えて、競争意識もはかった。つまり、とろんと溜まった水を掻き回してみただけだが、店の奥さんがその気で接客するようになっただけで、売り上げは伸びだした。

 結果的に何店かが200%達成、担当店総店頭売上げも130%となった。販売部長はそれを見て、「お前、なんかインチキやったんか?」と疑っていた(笑)

昭和55年(1980)はこんな年だった
https://www.youtube.com/watch?v=EOzbunPJy14&t=138s


昭和55年(1980)はこんな年だった