2026年9月12日土曜日

#京都雑記#【21.桓武天皇と平安京(737~806)】

【21.桓武天皇と平安京(737~806)】

 「桓武天皇」(かんむてんのう)は、山城の地に「平安京」を定め、千年の都京都の端緒を開いた天皇として、切っても切れない縁がある。ただし、いきなり平安京に遷都したわけではなく、784年に平城京(奈良)から長岡京(京都府向日市)に移転させたが、さらにわずか10年の後の794年に都を平安京(京都)に移した。

 70年余り続いた奈良の平城京には、近くに大きな川がなく水運や排水に難があった。そのような地勢上の理由もあったが、桓武天皇が奈良から都を移転させることを考えたのは、やはり政治的な理由が大きい。

 光仁天皇の崩御により桓武天皇が即位するが、当時の平城京には天武系の勢力が強く、また、東大寺・興福寺など南都七大寺と呼ばれた寺院勢力も強大で、後ろ盾のない桓武天皇はその勢力圏外に都を移そうと考えた。そして延暦3(784)年、当時未開の山城国乙訓(おとくに)郡に、「長岡京」を造営して遷都する。

 平城京の時代は、持統・元明の女帝を除くと、壬申の乱によって王権を握った天武系皇の皇統が続いた。女帝の称徳天皇は子供を産まなかったため、その隙間をついて道鏡が皇位を望むなど政治が乱れ、そこで天武の嫡流が途絶えた。止むを得ず天智系で60歳を超えていた光仁天皇(白壁王)が即位し、まったく立太子の可能性のなかったその子の桓武天皇(山部王)にも、天皇を受け継ぐ偶然がやってきた。

 しかし遷都の翌年に、長岡京造営の責任者 藤原種継が何者かに暗殺された。犯行首謀者の中に皇太弟「早良親王」も連座するとされ、冤罪とするも配流され途上で悶死する。親王の死後、桓武天皇の近親に変事が重なり、さらに飢饉・疫病の大流行や河川の氾濫などの凶事が続いた。

 桓武天皇はこれが早良親王の怨霊の祟りとして怖れおののき、長岡京遷都からわずか10年後の延暦13(794)年、長岡京の北東の山背国葛野(かどの)郡および愛宕(おたぎ)郡の地に再遷都する。桓武天皇は現在の京都市東山区にある「将軍塚」から見渡して、新たな都に相応しいとして定めたとされるのが「平安京」である。

 桓武天皇は渡来人の血をひく高野新笠を母とし、早くから山城の地に地盤を持つ渡来人 秦氏の協力を仰ぎ、一方で藤原式家良継の娘 藤原乙牟漏を皇后とし、同じ藤原式家の藤原百川らを重用しながら、二度に及んだ遷都を推進したと思われる。

 桓武天皇は平城京で即位すると、律令政治再建を目指し、班田収授の励行・勘解由使の設置といった改良を加え、また律令制で農民に一律に課された兵役は負担が大きく、それを郡司の子弟や武芸に秀でたものを選抜した「健児の制」に改めた。そして、唐の都 長安にならった条坊制に基づいて、平城京や長岡京よりさらに広大な平安京を造営し、新たな律令制を目指した。

 さらに、奈良での寺院勢力を排除するために、平安京では原則的に新規寺院の建立を認めず、唐から持ち帰った最澄や空海の説く新仏教を保護した。また、健児制で地方の軍政を整備し、坂上田村麻呂を「征夷大将軍」に任命し、東北の蝦夷平定を行い、奥羽地方を中央政府の支配下に納めた。

 しかし悶死した早良親王に代わって皇太子となった安殿親王は、決して父親桓武と良好な関係とは言えず、妃の母であった「藤原薬子」を寵愛し、桓武から薬子の追放を命じられるなどその怒りをかった。そして桓武天皇崩御のあと践祚し「平城天皇」となったが、なおも天皇の寵愛を受ける薬子は兄の藤原仲成とともに、政治に介入するなど専横を極めた。

 平城天皇は病弱のため、在位僅か3年で皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、平城上皇は薬子とともに旧都平城京に移り住んだ。しかも、仲成・薬子兄妹の強い要請を受けて、平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った。

 しかし嵯峨天皇側は機先を制し、薬子の官位を剥奪、兄の仲成を捕縛した。平城上皇は、挙兵し薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻った。平城上皇は直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。これは「薬子の変」呼ばれたが、近年では「平城太上天皇の変」という表現もなされる。

 このように、桓武天皇が目指した平安京での律令制はその死後も安定せず、嵯峨天皇以降に少しづつ安定してゆくが、一方で、藤原冬嗣以下の藤原北家が台頭し、天皇が治める律令制から、藤原氏の摂関政治へと移行してゆく。


2026年9月11日金曜日

#京都回想記#【46.やがて転勤で埼玉 所沢へ】

京都回想記【46.やがて転勤で埼玉 所沢へ】


 1980(昭55)年の夏、埼玉県の所沢市に転勤になった。埼玉の田舎とはいえ、人生で初めての関東住まいになるし、新宿にも西武線で40分ほどで、所沢駅から一つ先の「新所沢」が最寄りだった。

 かつての武蔵野の一角、一帯に関東ローム層が展開している地域で、住み慣れた関西に比べて、土地がやたら暗いというのが第一印象だった。会社からあてがわれた住まいは、新所沢駅前広場に面したマンションの8階で、便利そのもので、しかも販売会社へは線路を越えて北側に、歩いて10分の距離にあった。

 住環境の利便は文句なしで、初めてのローカルな生活が始まった。しかし、関東ローカルの土地柄にはなじみがなく、仕事先の関係でも不慣れな生活だったし、何よりも言葉の違いに戸惑った。ある程度は土地の言葉に合わせているつもりでも、べたな関西言葉の抑揚は隠しようが無かった。

  こうして所沢でも資生堂セールスマンとしての仕事が始まったわけだが、ここは「京都回想記」となっているので、一旦このシリーズは休止する。あらためて別タイトルで始めることができればよいが。

昭和55年(1980)はこんな年だった

2026年7月5日日曜日

#郷土史散策#【12.難読駅名 嵐電に乗る】

郷土史散策【12.難読駅名 嵐電に乗る】


 京都市電が廃止されて以降、市内で路面電車と思えるのは叡電と嵐電だが、叡電は厳密には路面電車と言えないらしい。


読めますか。
①西院
②蚕ノ社
③太秦広隆寺
④帷子ノ辻
⑤有栖川
⑥車折神社
⑦鹿王院

2025年6月2日月曜日

#郷土史散策#【11.京の七野と蓮台野】

郷土史散策【11.京の七野と蓮台野】



 平安京の内裏の北部に、「京の洛北 七野」と呼ばれる地域があったと言われている。「内野・北野・平野・上野・紫野・蓮台野・〆野(点野/しめの)」がそれ(若干異同あり)とされる。

 一方で、平安京以来の「三大葬送の地」とされる場所があり、それは「鳥辺野(とりべの・洛東)、化野(あだしの・洛西)、蓮台野(れんだいの・洛北)」とされ、源氏や枕草子にも出てくるから、まず間違いない。

 しかし、火葬・埋葬されるのはごく一部の貴族階層だけで、多くの庶民は「風葬・野葬」といって野辺に放置して自然風化にまかせられたようだ。「野」という言葉を付けて呼ばれる土地には、このような野葬の場という意味をもつものが多い。ただし、「禁野」として、天皇や上級貴族の狩り場として、囲い地にして一般人の狩猟を禁じた「野」もある。男子は馬上で鷹狩、婦女子は薬草摘みなどで行楽にいそしんだようで、紫野や〆野などはそれにあたる。

*七野を地図上にドットしてみた。現存の地名などから推定したので、正確では無い。

 蓮台野と紫野は隣接しているので明確に切り分けられないが、「蓮台野」は紫野の西にあたり、千本通を中心に紙屋川と船岡山の間とされるが、その南北の範囲も定かでない。現在地名として残っているのは「上品蓮華寺」と「蓮台野町」だけだが、これらは千本通の南北にわたって、かなり離れている。仕方なしに、千本北大路を中心にかなり広めに黄色楕円で囲っておいた。かなりの部分が紫野と重なっているのはご理解いただきたい。

「蓮台野散策」

 60年以上前のことだが、祖父が亡くなったとき(s31)、金閣寺の裏山方面にあった火葬場で荼毘に付した記憶がある。これを「かつての葬送地 蓮台野の名残であろう」と書いたが、紙屋川を越えてさらに左大文字の山をも越えた場所に、かつての「蓮華谷火葬場跡」が残されており、さすがに蓮台野とは無関係の場所だ。「蓮華谷」と「蓮台野」という地名が、子供の脳みそで重なり合ってしまったようだが、ただ広くこのあたり一帯が葬送と結びついていたとは考えられる。

 こうやって調べていると、「二十歳の原点」という日記を残して、嵯峨野線で鉄道自殺した「高野悦子」は、この「蓮華谷火葬場」で荼毘に付されたということが分かった。つまり昭和44(1969)年ごろは、まだこの「蓮華谷火葬場」が使用されていたということだ。このことは、高野悦子の父親 高野三郎さんの手記に記されているとのこと。

>取るものも取りあえず京都に飛び本人であることを確認したとき、「どうか誤報であってほしい」とのはかない一縷の望みも、もろくも崩れ去ってしまいました。翌日、赤旗なびき騒然たる京大医学部に安置された遺体を引取り、午後四時から洛西の衣笠山葬場にて家族と在京の友人たち十数人で涙ながらの最後のお別れをしました。すっかり灰となったまだ温かい骨箱を胸にだきしめたとき、あの娘は本当に死んでしまったのだという実感がヒシヒシとわき、これでやっと手許に帰ってくれたのだ、それにしても何と変わり果てた姿だろうと、あふれる涙はどうすることもできませんでした。<
 (注)衣笠山葬場とは蓮華谷火葬場のことを指す

 ところで現在、地名としては「東蓮台野町」と「西蓮台野町」があるのみだが、実は我が母校である京都市立旭丘中学校は、まさに「東蓮台野町」の大半を占めている。そして裏門を出て北山通の向こう側は、鷹峯街道にかけて「西蓮台野町」である。したがって「蓮台野」はこのあたりだろうという意識が強いが、実際には北のはずれに当たるようだ。

 あと、蓮台野に関しては、宮本武蔵と吉岡道場当主の吉岡清十郎の決闘の場として話題になる。武蔵の物語ではよく出てくるが、この決闘の件は武蔵の養子が記したもので、吉岡道場の方からは、まったく別の話になっており、史実かどうかは不明。さらに有名な「一条下り松の決闘」は、その汚名をそぐために、吉岡一門総出で武蔵に立ち向かったという話になっている。中学生の時、仲間たちと学校裏の畑に出て、「決闘の後、ここで武蔵は立小便をしたのやで」とかデタラメをかましてた(笑)

2025年5月30日金曜日

#京都回想記#【45.チェインストア担当にも慣れて、峠を越えれば天下】

京都回想記【45.チェインストア担当にも慣れて、峠を越えれば天下】


 丹波地域を担当して半年ほどで地域を把握、営業活動もうまく進むようになった。1978(昭53)年春には長男が誕生し、家族3人での団地生活となった。国道9号線で老ノ坂峠を越えて丹波路に入ると、私の担当地域なので他の社員はいない。夏場の暑い時期などは、亀岡の保津川に架かる橋の下の河原で、エアコンのない営業車のドアを開けっぱなしにして、昼寝してサボるのが日課だった。

劇的な、劇的な、春です。レッド」(ベルばら実写映画に協賛/1979春)

 亀岡を越えると、八木町、園部町などの集落があり(現 南丹市)、さらに観音峠という急な峠道を越えて下りに入ると、そこは丹波町の須知という小集落で、その先は「丹波の分かれ」と読んでいた国道9号線と27号線の分岐点がある。この分かれまでが自分の担当地域で、その先は福知山販社の管轄となっていた。

「ナツコの夏」(世良公則/1979年夏)

 昭和55年(1980)になって、担当地域にも多少マンネリ気味になったころだったと思う。相変わらずの売り上げ停滞時期で、前年を上回るのも大変な時期だったが、他府県のある担当者が、「売上200パーセント挑戦」を達成したという話が、販売会議で成功事例として紹介された。京都市内などでは、軒並み前年割れの店が多いので、市内の担当者たちは、そんなの有り得ないと聞き流した。

 わたしの担当地域は郡部なので比較的マシな方だが、それでも厳しかった。しかし、かなりのんびりと惰性で店をやっているので、刺激をすれば何とかなりそうな余地があった。昭和55年の春のキャンペーンの時だったが、自分の担当する店に吹き込んで「200挑戦」をやらせてみた。

「不思議なピーチパイ」 (竹内まりや/1980年春)

 普通は大型店一店の集中するのだが、さほど大きな店のない自分の担当地域なので、いくつもの奥さんひとりでやってる中小の店に、軒並みこの企画を持ち込んでみた。当初は「とても無理」という店ばっかりだったが、とにかくやってみようとスタートした。

 特別なイベントはやれないので、店の奥さんの意識付けが大半だったが、毎日訪問して売り上げを控えて帰る。近くのライバル店の情報も伝えて、競争意識もはかった。つまり、とろんと溜まった水を掻き回してみただけだが、店の奥さんがその気で接客するようになっただけで、売り上げは伸びだした。

 結果的に何店かが200%達成、担当店総店頭売上げも130%となった。販売部長はそれを見て、「お前、なんかインチキやったんか?」と疑っていた(笑)

昭和55年(1980)はこんな年だった
https://www.youtube.com/watch?v=EOzbunPJy14&t=138s


昭和55年(1980)はこんな年だった






2025年5月18日日曜日

#京都回想記#【44.一般チェインストアに担当店が変わる】

京都回想記【44.一般チェインストアに担当店が変わる】


 1978(昭53)年、そろそろ30歳になろうかという年の4月に結婚し、中京区壬生の公団住宅で新世帯をもった。初めて北区の実家を離れ、まち中で生活をすることになった。学生時代に通学で利用した阪急電車の四条大宮にも近く、生活には便利な街で、堀川通に出れば市バス一本で会社まですぐだった。

 担当もデパートからはずれ、市内の量販店をすべて担当することになった。といってもデパート部の管轄は直契約の量販店だけで、一般化粧品店がテナントとして入ってる店は除外されるので、全部で10店ほどだけだった。直契約店は美容部員を派遣するので、店の作業は美容部員任せで、店側と折衝することもあまりなかった。

 「メローカラー」(1978春)

 先述したように、デパート部長とはソリが合わず衝突を繰り返し、まず閑職の量販店担当になったのだが、そこでも決定的な対立をしたため、秋にはデパート部そのものを追い出されることになった。1978(昭53)年の秋からは、一般チェインストアを担当する販売部に所属することになる。

 担当地域は、老ノ坂峠に向かう「千代原口」周辺と、そこから奥の「丹波路」(山陰道/R9)一帯だった。京丹波町のR9とR27の別れから先は、福知山の販売会社の管轄だが、もうそのあたりは化粧品店などない山奥だった。つまり京都支社の管轄では、もっともローカルな地域の担当で、それまでのデパートとは極端な違いだった。

 最初にデパート担当となった時もそうだったが、新しい環境にすぐに馴染めないタイプで、今回も自分のペースで仕事を進めるのに半年ほどかかった。担当店は郡部に散在するが、やはり主力は亀岡市内だった。なかでも売り上げが大きな店は、K店・M店・H店の三つだった。

 K店は、本店にキャリア十分の奥さんがどっしり構えていて、長男の若嫁が駅前の支店を担当し、さらに街道筋の公設市場内に雑貨中心の店があり、長男が担当するという分担だった。M店は、雑貨卸の老舗で外交は主人が営むが、奥さんは店の化粧品販売に専念している。H店は、駅前の大手スーパー内にテナントとして出店しており、一店としての売り上げは
いちばん大きかった。

「君の瞳は10000ボルト」(アリスの堀内孝雄がソロとしてリリース/1978秋)

 ともに亀岡中心街に隣接して店を構えているのだが、当然ながら仲はきわめて悪い。したがって、この3店をどう取り扱がポイントだった。それぞれの店に、ローカル固有の癖があり、当初の半年ほどは様子見で、それなりに手こずった。

昭和53年(1978)はこんな年だった










2024年12月29日日曜日

#京都回想記#【43.新しいデパート部長との確執】

京都回想記【43.新しいデパート部長との確執】


 1976(昭51)年の秋に上司のデパート課長が転勤になり、あらたにデパート部長が転任してくることになった。新規に上司となる部長は、高卒同期の中でトップを切って部長昇格ということで、どんなキレ者なのかと期待していた。しかし着任してその下で働いてみると、どうやらゴマすりの人間関係だけでここまで成り上ってきたようだった。何より、本社のデパート部長という超えらいさんに取り入ってのし上がってきたという噂が、我々にも届いてきた。

 当時、女形で一世を風靡した尾上菊之助(七代菊五郎)に似ているのが自慢で、取引先では「資生堂の菊之助です」などと言って名刺交換していた。デパート部には化粧品担当3人だけで、二年先輩で私が新米の時なにかと面倒をみてくれたHさんと私が、ほぼ現場を仕切っていたといってよい。ところが二人と新しい部長は、仕事の進め方でまったく意見が合わず、まったく言うことを聞かなかったので、一年後ぐらいには二人ともデパート部を追い出されることになった。

 その間、残りの一年間はデパート担当を外されて量販店担当となった。当時はダイエーなどの大手量販店とは契約せず、場末の中小量販店ばかりで、販売ルート維持と定価販売のために、安売りや乱転売を避ける目的だけで契約していた。つまり担当セールスには、売り上げを上げることは期待されず、乱転売の監視や美容部員の管理だけが仕事だった。ということで、超閑職に押し込められたというわけだw

 それでも、安売り商売で有名な地元スーパーの本部役員と、部長が交渉してきて、低価格商品を500万円分契約してきたから発注しろと言われた。本来なら、部下が売上げ作りのために無理な注文を取ってきたのを、上司が安定取引のためにチェックを入れるというのが筋だが、立場が逆転で、担当者の私の方が納入拒否をしたw

 私を抜きにして誰かに発注させたようで、商品課では課員総出で朝まで掛かって出荷準備をしたらしい。ところが支社長(当時は本社待遇の役職で「専務」と呼んだ)が本社と相談した結果、乱売屋として本社まで伝わっていた量販店への納入はストップするように指示されたらしい。朝一番に支社長が商品センターに向かい、課員に事情説明して、徹夜作業で準備した商品を、もとの棚に戻させたということだ。

 後日、支社長室に呼ばれて、「君が納品を拒否したそうだな、立場は逆だがその判断は正しい」と言われたw そんなことで、支社長も部長も、二人を他の部門に出すのはやむを得ないと判断したようだ。結局、翌年からは販売課所属となり、チェインストアと呼んでいた一般契約化粧品店の担当に変わることになる。


昭和52年(1977)はこんな年だった