2026年10月31日土曜日

#京都雑記#【23.京都を歌う】

京都雑記【23.京都を歌う】


 京都を冠した歌を調べてみようと、AIにたずねてみた。『「京都」が題名に入っている有名曲を教えて』と入力すると、次のようなリストを上げてきた。

京都の恋/渚ゆう子・京都慕情/渚ゆう子・京都の夜/愛田健二・京都から博多まで/藤圭子・京都ブルース/藤圭子・京都 神戸 銀座/橋幸夫・京都ひとり/大月みやこ・京都物語/原由子・

京都恋歌/五木ひろし・京都二寧坂/中村美律子・京都 別れ雨/多岐川舞子・京都の町からもう一度/水田竜子・なのにあなたは京都へゆくの/チェリッシュ

 自分の意志で歌謡曲を聞くことの少ない私でも、テレビで流れてたりして、ほぼ一度は耳にした曲だ。ニつ三つ、youtubeあたりから拾ってみよう。

・京都慕情/渚ゆう子

・京都から博多まで/藤圭子
 
・京都恋歌/五木ひろし

・なのにあなたは京都へゆくの/チェリッシュ
・女ひとり/デュークエイセス

・嵯峨野さやさや/たんぽぽ

・加茂の流れに/かぐや姫

・紫野/さだまさし


 ここまでローカルになると「新大宮商店街」とかも欲しいところだが、さすがにないだろなと思いながらググってみた。すると「都はるみの 新宮音頭」というのがあった。

 都はるみの生まれは新大宮に近いから、ひょっとして、とよく見たら「新大宮音頭」でなく「新宮音頭」でした。ついでだからリンクしとくけど、 「愛媛県新宮村(四国中央市新宮町)」の盆踊り音頭だそうです。」

・都はるみの 新宮音頭

 わらべ歌や数え歌や童謡のたぐいでも、いくつかありそうだが、あまりおもいつかない。まず、通り歌だが、東西の通りのは京都人に必須、スマホの無い時代はこうやって憶えた。

・京の通り数え歌「まるたけえびすに」(東西の通り)

 南北通りのまであるのは、知ってる人も少ないのでは。だいたい大丸の西の高倉と藤井大丸東の寺町の間に、数本ある細い道を憶えておけばよいし、分からなくても不都合はないのです。

・京の通り数え歌「寺御幸」(南北の通り)

 もうこれは京都がメインではないけど、


・昔の名前で出ています/小林旭

 冒頭の「京都にいるときゃ 忍と呼ばれたの~」というフレーズを聞いて、これは「祇園縄手 高級クラブ」あたりだろうなと想像する人は、たぶん京都人(笑)

 切りがないので、「京都の歌」シリーズ12曲にリンクして終わります。



2026年10月28日水曜日

#郷土史散策#【14.「哲学の道」から「白川疎水」散策】

郷土史散策【14.「哲学の道」から「白川疎水」散策】


「白川疎水」とは、琵琶湖疏水本線から分岐した「第1疏水分線」の通称とされる。南禅寺の「水路閣」を起点に北上、哲学の道や銀閣寺付近を通り、さらに北西へ向かい、高野川を越え、松ヶ崎をへて賀茂川へと至る、延長約7kmの水路である。

 北区に生まれ育った私には、「哲学の道」北端から松ヶ崎を経て、洛北高校の北を迂回して、下賀茂梅ノ木町から北大路と交差、さらに西進して賀茂川に流れ込む、「北白川疎水」として、区別して呼ばれる区間になじみがあった。

 子供のころ、梅ノ木町あたりを流れる白川疎水に面して、叔父の住まいがあって、父に連れられて遊びに行った記憶がある。宝ヶ池方面から流れてくる泉川と、小川どうしで立体交差している場所があって、子供心に珍しく思った。

 叔父は、異母兄弟にあたる私の父とほぼ同年代だったが、妾の子として私生児とされた父とは違って、旧制の同志社中学を卒業して、地元信用金庫の支店長などをしていた。父に連れられて梅ノ木町の社宅に行くと、叔母さんが飼っていた珍しい山羊の乳などを飲ませてくれた。

 大人たちが話し込んでいる間、暇をもてあました私は表へ出て、白川疎水で水遊びなどして過ごした。車も通らない小道だったので、周辺は閑静な住宅地だったと記憶している。

 同じ「白川疎水」でも、現在「哲学の道」として観光客でにぎわいを見せる銀閣寺以南は、また別の様相を見せる。南禅寺の「水路閣」から銀閣寺にかけて流れる白川疎水は、かつては同じような川沿いの小径があって、のどかな散策路だったが、「哲学の道」として評判になって、一気に人が増えてしまった。

 もともと、琵琶湖疏水分線の管理用道路として設置された小道だが、この周辺に文人が多く住むようになり「文人の道」と称された。その後、京都帝国大学の哲学者「西田幾多郎」や「田辺元」らが好んで散策し、思案を巡らしたことから「哲学の小径」と呼ばれるようになった。

 やがて散策する人も増えたので、砂利道の散策路として整備され、さらにその後、廃止された京都市電の軌道敷石を転用、その敷石が敷き詰められた遊歩道となっている。昨今では、SNS等の普及で外人観光客も急増し、季節ごとに小径は桜や紅葉の名所として賑わっていて、水路わきにはおしゃれなカフェが点在し、優雅なひと時を楽しめる散歩道となっている。

 西田哲学に通じたわけではないが、学生時代の鬱から回復する時期に、「善の研究」を読んで感激したおぼえがある。しかも、高校時代の親友Aの父親が、「西田幾多郎」の末弟子にあたる「相原信作」氏だった。その「相原のオジサン」に話をうかがうため、頻繁に通うようになった。

 学生時代には頻繁にうかがったが、読書中でも気軽に応対していただいた。氏と話し込んでいて3時になると、じゃ散歩に行きましょうと、唐突に立ち上がって、さっさと外に出られるので、こちらも慌ててついてゆく。

 お宅は上賀茂神社の裏手にあり、散歩は賀茂川の土手が格好の散歩道となっている。ご高齢にもかかわらずいたって健脚で、学生の私が付いてゆくのがやっとであった。もくもくと歩いて、北大路橋をくぐって出雲路橋に差し掛かると、そこからくるっと振り向いてもとに戻る。ほかにも氏のエピソードはいくつもあるのだが、そこは改めることにする。

2026年10月17日土曜日

#郷土史散策#【13.あらためて「大徳寺」特集】

郷土史散策【13.あらためて「大徳寺」特集】(2026/10/17記)

 東京国立博物館で「大徳寺展」をやっている。2026/10/14(水)~12/06(日)の2ヵ月の長期展なので、関東住まいの人はぜひとも行ってみてほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=RX3Ammqs0YY

 大徳寺は生まれ育った実家の近くで、中高生のころは格好のあそび場、しかも母校 京都市立紫野高校は、ほぼ大徳寺の境内にあり、通学の経路でもあった。何度か断片的に触れることはあったが、改めて取り上げることはなかった。このさい、もう一度まとめてみようと思う。

 「大徳寺」は、京都市北区紫野にある「臨済宗大徳寺派」の大本山寺院で、正式名称は「龍宝山 大徳寺」、本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)、正中2年(1325年)に創建された。「正中の変」として、後醍醐天皇の最初の討幕計画が発覚したころである。

 京都でも有数な規模の禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)などの中心伽藍のほか、別院2か寺、塔頭20カ寺が立ち並びぶ。

 大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた。本坊および塔頭寺院では、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を有している。

 その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は「一休宗純」をはじめとする名僧を輩出した。応仁の乱では、仏殿や法堂が焼失するなどの被害がで衰退したが、一休宗純が豪商らの支援を受けて復興している。

 大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっており、文化財に指定された茶室も多く残る。そのせいで、「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで、「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られたりする。

 今も、大徳寺境内の西の端には、「小堀遠州」ゆかりの「孤篷庵」がある。後年、京都市立紫野高校(わが母校)が境内地に設立されたため、飛地のように見えるが、大徳寺の著名塔頭の一つである。ちなみに同級生に小堀姓の女子がいたが、孤篷庵に住んでいたから、おそらくは遠州の血筋だと思う。

 本能寺の変で織田信長が自害した後、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われ、信長の菩提寺として塔頭「総見院」が創建され、秀吉や諸大名から篤い帰依を受けた。

 利休は、壮大な山門「金毛閣」を寄進したが、その上層に雪駄を履いた利休の木像が安置された。それに対して豊臣秀吉が、天下人にその股下をくぐらせるのかと激怒、利休に切腹を命じたとされる。ただしそれだけではなく、堺の豪商でもあった利休が、なにがしか秀吉に背くようなことがあったのだろうと推測される。

 江戸時代には、元住持の高僧「沢庵宗彭」が「紫衣事件」で流罪となったが、のちに、三代将軍徳川家光の帰依もあり復権した。ちなみに、沢庵和尚ゆかりの「たくわん漬」だが、その謂われには諸説あるようだ。

 大徳寺は、この近くで生まれ育った私には、きわめて身近な寺院である。とりわけ、京都市立紫野高校に入学してからは、授業をサボってふらつくあそび場だった。法堂の東端にある鐘楼には、ほとんど人けもなく、やんちゃ高校生の溜まり場であった。

 鐘楼の縁の下に潜り込んで隠れ煙草を吸うものも多く、吸い殻だらけになっていたが、ある時、縁の下から這い出してふと堂を見あげると「重要文化財」と書かれていた。以後、ここで隠れ煙草をするのはやめた。

 紫高では秋の体育祭の前夜祭として、キャンプファイヤーを囲んで、生徒会主催のフォークダンスが行われる。なぜかフォークダンスには、女子から男子に声をかけて参加するという、暗黙の掟があった。もちろん要領のいい男子生徒は、事前にコナをかけておいて誘わせる。

 オクラホマミキサー、マイムマイムなど踊って、フィナーレはなぜか「第三の男」のテーマだった。ただ「第三の男」で踊ったという人物には、紫高生以外にであったことがない。

 そして曲が終わると、終幕となりファイヤーも消されていく。踊り終えた男女カップルは、手を取り合って、または肩を組んで、つぎつぎと真っ暗な闇の大徳寺境内に消えて行くのであった(笑)

 大仙院の枯山水の庭は、竜安寺石庭と並ぶ著名な庭で、
方丈を取り込むように枯山水が展開し、蓬莱山から流れ落ちる枯滝から、下流へと流れる川を造形している。

 大仙院の名物住職だった「尾関宗園 師」も懐かしい。若い時の宗園師は、住職当人が枯山水の庭の解説もしていた。流暢で面白い解説で有名で、時には下ネタ風の話題も組み込む。紫高の郷土史研究会の顧問などもつとめていた。

 実は私の兄の息子と住職の息子さんが、高校の同級とあって、兄と住職も面識があった。兄は会社を定年退職したあと、仏像彫刻に没頭していた。一年に一体のペースで根気よく彫り上げた仏像が何体もあった。

 雑談でその話題をだすと、住職は、本尊の横に祀るから寄贈してくれんか、というので一年かけた労作を寄進した。しかし、その後一向に本堂に祀られることなく、お礼としては「輪袈裟」という、信徒らが首にかける簡易の袈裟をくれただけだというw

 住職は何かと商売熱心で、巻紙にしたためた自分の書を、値段を記して本堂座敷に展示したり、法話をまとめた何冊もの書籍を出したり、テレビ出演で有名になったりしていた。ただ、同じく名物和尚、奈良薬師寺の「高田好胤 管長」のように、焼失した薬師寺の伽藍復興に尽くした、という話は聞くことが無かった(笑)

2026年9月19日土曜日

#京都雑記#【22.兄の思い出】

京都雑記【22.兄の思い出】


 今年(2026年)の初めに、昭和9年生まれの兄が91歳で亡くなった。私にとってはたった一人の兄弟だった。実はその上に姉がいたらしいが、私が生まれる前の戦中に、小学5年生で病気で亡くなっているらしく、残された一枚の小さな写真を見ただけである。この機会に兄の記憶を書いておく。

 戦後1948年生まれの私がもの心ついたとき、兄はすでに高校生、戦争直後の新制中学で一期生だったそうだ。府立山城高校でラグビーをやってるのを、母に連れられて見学に行った記憶が残っている。それ以降の記憶は、同志社大学の学生だったころからだ。大学の四隅のとがった角帽に、玉子の白身やタバコの吸い殻をこすりつけてわざと汚していた。当時はまだ、バンカラの風習も残っていたようだ。

 兄とはじつに14歳も歳が離れていたので、体力的にも精神的にも、兄弟喧嘩などする余地がなかった。幼時の私には、スポーツが得意で、まわりからも「アキさん」と親しまれている兄が、ちょいと誇らしい存在だった。

 兄が町内青年会のメンバー数人と、二階の部屋で談笑している場を、幼い私もたまに覗かせてもらった。たわいない話をしているだけだが、そこははじめて見る大人の世界で楽しかった。兄の世界が、唯一私の大人への入り口だった。

 戦後の復興景気が終わり、「なべ底不況(1957〜1958)」と呼ばれた時期、卒業をひかえた2月になっても、兄は就職先が決まらず鬱屈としていたのも憶えている。近所に住む中堅企業の重役さん宅に、母が何度も頭をさげて頼みにいって、やっとのことで山科の会社に就職が決まったようだ。

 会社では経理部に配属されて、本社の経理を定年まで40年近く仕切った。家では会社の話をいろいろしたので、私にも会社員生活の模様が多少わかるようになった。本社の経理部長にまでなったので、資材仕入れなどの出入り業者にとっては、金を払ってくれる大本、とにかくひれ伏すように接してくる。

 わたしは後年、営業マンになったので、とにかく頭を下げることから始まるが、兄の立場では、対外的に頭を下げることが無かったと想像できる。ということで、必然的に横柄な態度をとる習慣ができたのだろう。

 ということで、対人的に横柄な態度にみえることがあったのは、そのせいだろう。そのへんで、互いに大人になってからの物事の捉え方が180度違っていたように思う。

 私は次男坊でちゃらんぽらんな生き方をしたが、兄は長男として、近所付き合いから親戚付き合いまで、律儀に対応してきた。子供のころの私にも、クリスマスプレゼントなどを忘れずに枕元に置いてくれたりした思い出がある。

 兄弟げんかする余地もないほど年齢が開いていたが、私が思春期を迎えて、傲慢になってきた高校生のとき、たった一度だけ、兄と口喧嘩になった。思春期の自我が芽生えたころで、自分自身の我がままな性格を嫌うようになっていたが、逆に兄も同じような性格を持っているのが分かるようになって、それがとっても嫌な気がしていたので、些細なきっかけで口ごたえするようになったのだと思われる。

 その後、私が所帯をもって家を出たあと、仕事で失敗して、兄に多大な金銭的な迷惑をかけた。それ以来、兄にはまったく頭が上がらなくなった。これに関しては、まったく申し訳ないと思っている。

 歳を取ってからは、半年に一度ていど電話してご機嫌伺いをするようにしていたが、一年ほど連絡を取らない時期があって、今年の正月に何とか電話をしたところ、兄嫁から入院してると告げられた。一度手術で切り取った癌が再発したとのことで 一度手術で切り取った癌が再発したとのことで、歳も90歳を越えており、手術もできないらしい。

 私も歳をとって、車の運転もままならない状況になっていたが、この機会にしか京都市内に行くことができなだろうと思い切って車を走らせた。実家に着くと応対に出た義姉から、実はもう亡くなっていて身内で葬儀を済ませたところだと告げられた。

 私も老齢化して、市内に行くことも難しい状況を知っていたので、葬儀を済ませて落ち着いてから連絡するつもりだったそうだ。電話したときには詳しいことは言わなかったのだが、虫の知らせというのだろうか、いま思い切って行くしか機会が無いと思って、車を走らせたのだった。玄関の客間に祀られた祭壇には、これまであまり見たこともないような笑顔の兄の遺影が祀られて、それに手を合わせて別れを済ますことになった。合掌

2026年9月12日土曜日

#京都雑記#【21.桓武天皇(737~806)と平安京】

【21.桓武天皇(737~806)と平安京】

 「桓武天皇」(かんむてんのう)は、山城の地に「平安京」を定め、千年の都京都の端緒を開いた天皇として、切っても切れない縁がある。ただし、いきなり平安京に遷都したわけではなく、784年に平城京(奈良)から長岡京(京都府向日市)に移転させたが、さらにわずか10年の後の794年に都を平安京(京都)に移した。

 70年余り続いた奈良の平城京には、近くに大きな川がなく水運や排水に難があった。そのような地勢上の理由もあったが、桓武天皇が奈良から都を移転させることを考えたのは、やはり政治的な理由が大きい。

 光仁天皇の崩御により桓武天皇が即位するが、当時の平城京には天武系の勢力が強く、また、東大寺・興福寺など南都七大寺と呼ばれた寺院勢力も強大で、後ろ盾のない桓武天皇はその勢力圏外に都を移そうと考えた。そして延暦3(784)年、当時未開の山城国乙訓(おとくに)郡に、「長岡京」を造営して遷都する。

 平城京の時代は、持統・元明の女帝を除くと、壬申の乱によって王権を握った天武系皇の皇統が続いた。女帝の称徳天皇は子供を産まなかったため、その隙間をついて道鏡が皇位を望むなど政治が乱れ、そこで天武の嫡流が途絶えた。止むを得ず天智系で60歳を超えていた光仁天皇(白壁王)が即位し、まったく立太子の可能性のなかったその子の桓武天皇(山部王)にも、天皇を受け継ぐ偶然がやってきた。

 しかし遷都の翌年に、長岡京造営の責任者 藤原種継が何者かに暗殺された。犯行首謀者の中に皇太弟「早良親王」も連座するとされ、冤罪とするも配流され途上で悶死する。親王の死後、桓武天皇の近親に変事が重なり、さらに飢饉・疫病の大流行や河川の氾濫などの凶事が続いた。

 桓武天皇はこれが早良親王の怨霊の祟りとして怖れおののき、長岡京遷都からわずか10年後の延暦13(794)年、長岡京の北東の山背国葛野(かどの)郡および愛宕(おたぎ)郡の地に再遷都する。桓武天皇は現在の京都市東山区にある「将軍塚」から見渡して、新たな都に相応しいとして定めたとされるのが「平安京」である。

 桓武天皇は渡来人の血をひく高野新笠を母とし、早くから山城の地に地盤を持つ渡来人 秦氏の協力を仰ぎ、一方で藤原式家良継の娘 藤原乙牟漏を皇后とし、同じ藤原式家の藤原百川らを重用しながら、二度に及んだ遷都を推進したと思われる。

 桓武天皇は平城京で即位すると、律令政治再建を目指し、班田収授の励行・勘解由使の設置といった改良を加え、また律令制で農民に一律に課された兵役は負担が大きく、それを郡司の子弟や武芸に秀でたものを選抜した「健児の制」に改めた。そして、唐の都 長安にならった条坊制に基づいて、平城京や長岡京よりさらに広大な平安京を造営し、新たな律令制を目指した。

 さらに、奈良での寺院勢力を排除するために、平安京では原則的に新規寺院の建立を認めず、唐から持ち帰った最澄や空海の説く新仏教を保護した。また、健児制で地方の軍政を整備し、坂上田村麻呂を「征夷大将軍」に任命し、東北の蝦夷平定を行い、奥羽地方を中央政府の支配下に納めた。

 しかし悶死した早良親王に代わって皇太子となった安殿親王は、決して父親桓武と良好な関係とは言えず、妃の母であった「藤原薬子」を寵愛し、桓武から薬子の追放を命じられるなどその怒りをかった。そして桓武天皇崩御のあと践祚し「平城天皇」となったが、なおも天皇の寵愛を受ける薬子は兄の藤原仲成とともに、政治に介入するなど専横を極めた。

 平城天皇は病弱のため、在位僅か3年で皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、平城上皇は薬子とともに旧都平城京に移り住んだ。しかも、仲成・薬子兄妹の強い要請を受けて、平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った。

 しかし嵯峨天皇側は機先を制し、薬子の官位を剥奪、兄の仲成を捕縛した。平城上皇は、挙兵し薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻った。平城上皇は直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。これは「薬子の変」呼ばれたが、近年では「平城太上天皇の変」という表現もなされる。

 このように、桓武天皇が目指した平安京での律令制はその死後も安定せず、嵯峨天皇以降に少しづつ安定してゆくが、一方で、藤原冬嗣以下の藤原北家が台頭し、天皇が治める律令制から、藤原氏の摂関政治へと移行してゆく。