京都回想記【45.チェインストア担当にも慣れて、峠を越えれば天下】
丹波地域を担当して半年ほどで地域を把握、営業活動もうまく進むようになった。1978(昭53)年春には長男が誕生し、家族3人での団地生活となった。国道9号線で老ノ坂峠を越えて丹波路に入ると、私の担当地域なので他の社員はいない。夏場の暑い時期などは、亀岡の保津川に架かる橋の下の河原で、エアコンのない営業車のドアを開けっぱなしにして、昼寝してサボるのが日課だった。
亀岡を越えると、八木町、園部町などの集落があり(現 南丹市)、さらに観音峠という急な峠道を越えて下りに入ると、そこは丹波町の須知という小集落で、その先は「丹波の分かれ」と読んでいた国道9号線と27号線の分岐点がある。この分かれまでが自分の担当地域で、その先は福知山販社の管轄となっていた。
昭和55年(1980)になって、担当地域にも多少マンネリ気味になったころだったと思う。相変わらずの売り上げ停滞時期で、前年を上回るのも大変な時期だったが、他府県のある担当者が、「売上200パーセント挑戦」を達成したという話が、販売会議で成功事例として紹介された。京都市内などでは、軒並み前年割れの店が多いので、市内の担当者たちは、そんなの有り得ないと聞き流した。
わたしの担当地域は郡部なので比較的マシな方だが、それでも厳しかった。しかし、かなりのんびりと惰性で店をやっているので、 刺激をすれば何とかなりそうな余地があった。昭和55年の春のキャンペーンの時だったが、自分の担当する店に吹き込んで「200挑戦」をやらせてみた。
普通は大型店一店の集中するのだが、さほど大きな店のない自分の担当地域なので、いくつもの奥さんひとりでやってる中小の店に、軒並みこの企画を持ち込んでみた。当初は「とても無理」という店ばっかりだったが、とにかくやってみようとスタートした。
特別なイベントはやれないので、店の奥さんの意識付けが大半だったが、毎日訪問して売り上げを控えて帰る。近くのライバル店の情報も伝えて、競争意識もはかった。つまり、とろんと溜まった水を掻き回してみただけだが、店の奥さんがその気で接客するようになっただけで、売り上げは伸びだした。
結果的に、その3月度の担当店総店頭売上げは130%となった。販売部長はそれを見て、「お前、なんかインチキやったんか?」と疑っていた(笑)
「不思議なピーチパイ」 (竹内まりや/1980年春)
「劇的な、劇的な、春です。レッド」(ベルばら実写映画に協賛/1979春)