京都雑記【22.兄の思い出】
戦後1948年生まれの私がもの心ついたとき、兄はすでに高校生、戦争直後の新制中学で一期生だったそうだ。府立山城高校でラグビーをやってるのを、母に連れられて見学に行った記憶が残っている。それ以降の記憶は、同志社大学の学生だったころからだ。大学の四隅のとがった角帽に、玉子の白身やタバコの吸い殻をこすりつけてわざと汚していた。当時はまだ、バンカラの風習も残っていたようだ。
兄とはじつに14歳も歳が離れていたので、体力的にも精神的にも、兄弟喧嘩などする余地がなかった。幼時の私には、スポーツが得意で、まわりからも「アキさん」と親しまれている兄が、ちょいと誇らしい存在だった。
兄が町内青年会のメンバー数人と、二階の部屋で談笑している場を、幼い私もたまに覗かせてもらった。たわいない話をしているだけだが、そこははじめて見る大人の世界で楽しかった。兄の世界が、唯一私の大人への入り口だった。
戦後の復興景気が終わり、「なべ底不況(1957〜1958)」と呼ばれた時期、卒業をひかえた2月になっても、兄は就職先が決まらず鬱屈としていたのも憶えている。近所に住む中堅企業の重役さん宅に、母が何度も頭をさげて頼みにいって、やっとのことで山科の会社に就職が決まったようだ。
会社では経理部に配属されて、本社の経理を定年まで40年近く仕切った。家では会社の話をいろいろしたので、私にも会社員生活の模様が多少わかるようになった。本社の経理部長にまでなったので、資材仕入れなどの出入り業者にとっては、金を払ってくれる大本、とにかくひれ伏すように接してくる。
わたしは後年、営業マンになったので、とにかく頭を下げることから始まるが、兄の立場では、対外的に頭を下げることが無かったと想像できる。ということで、必然的に横柄な態度をとる習慣ができたのだろう。
ということで、対人的に横柄な態度にみえることがあったのは、そのせいだろう。そのへんで、互いに大人になってからの物事の捉え方が180度違っていたように思う。
私は次男坊でちゃらんぽらんな生き方をしたが、兄は長男として、近所付き合いから親戚付き合いまで、律儀に対応してきた。子供のころの私にも、クリスマスプレゼントなどを忘れずに枕元に置いてくれたりした思い出がある。
兄弟げんかする余地もないほど年齢が開いていたが、私が思春期を迎えて、傲慢になってきた高校生のとき、たった一度だけ、兄と口喧嘩になった。思春期の自我が芽生えたころで、自分自身の我がままな性格を嫌うようになっていたが、逆に兄も同じような性格を持っているのが分かるようになって、それがとっても嫌な気がしていたので、些細なきっかけで口ごたえするようになったのだと思われる。
その後、私が所帯をもって家を出たあと、仕事で失敗して、兄に多大な金銭的な迷惑をかけた。それ以来、兄にはまったく頭が上がらなくなった。これに関しては、まったく申し訳ないと思っている。
歳を取ってからは、半年に一度ていど電話してご機嫌伺いをするようにしていたが、一年ほど連絡を取らない時期があって、今年の正月に何とか電話をしたところ、兄嫁から入院してると告げられた。一度手術で切り取った癌が再発したとのことで 一度手術で切り取った癌が再発したとのことで、歳も90歳を越えており、手術もできないらしい。
私も歳をとって、車の運転もままならない状況になっていたが、この機会にしか京都市内に行くことができなだろうと思い切って車を走らせた。実家に着くと応対に出た義姉から、実はもう亡くなっていて身内で葬儀を済ませたところだと告げられた。
私も老齢化して、市内に行くことも難しい状況を知っていたので、葬儀を済ませて落ち着いてから連絡するつもりだったそうだ。電話したときには詳しいことは言わなかったのだが、虫の知らせというのだろうか、いま思い切って行くしか機会が無いと思って、車を走らせたのだった。玄関の客間に祀られた祭壇には、これまであまり見たこともないような笑顔の兄の遺影が祀られて、それに手を合わせて別れを済ますことになった。合掌

















