2026年9月19日土曜日

#京都雑記#【22.兄の思い出】

京都雑記【22.兄の思い出】


 今年(2026年)の初めに、昭和9年生まれの兄が91歳で亡くなった。私にとってはたった一人の兄弟だった。実はその上に姉がいたらしいが、私が生まれる前の戦中に、小学5年生で病気で亡くなっているらしく、残された一枚の小さな写真を見ただけである。この機会に兄の記憶を書いておく。

 戦後1948年生まれの私がもの心ついたとき、兄はすでに高校生、戦争直後の新制中学で一期生だったそうだ。府立山城高校でラグビーをやってるのを、母に連れられて見学に行った記憶が残っている。それ以降の記憶は、同志社大学の学生だったころからだ。大学の四隅のとがった角帽に、玉子の白身やタバコの吸い殻をこすりつけてわざと汚していた。当時はまだ、バンカラの風習も残っていたようだ。

 兄とはじつに14歳も歳が離れていたので、体力的にも精神的にも、兄弟喧嘩などする余地がなかった。幼時の私には、スポーツが得意で、まわりからも「アキさん」と親しまれている兄が、ちょいと誇らしい存在だった。

 兄が町内青年会のメンバー数人と、二階の部屋で談笑している場を、幼い私もたまに覗かせてもらった。たわいない話をしているだけだが、そこははじめて見る大人の世界で楽しかった。兄の世界が、唯一私の大人への入り口だった。

 戦後の復興景気が終わり、「なべ底不況(1957〜1958)」と呼ばれた時期、卒業をひかえた2月になっても、兄は就職先が決まらず鬱屈としていたのも憶えている。近所に住む中堅企業の重役さん宅に、母が何度も頭をさげて頼みにいって、やっとのことで山科の会社に就職が決まったようだ。

 会社では経理部に配属されて、本社の経理を定年まで40年近く仕切った。家では会社の話をいろいろしたので、私にも会社員生活の模様が多少わかるようになった。本社の経理部長にまでなったので、資材仕入れなどの出入り業者にとっては、金を払ってくれる大本、とにかくひれ伏すように接してくる。

 わたしは後年、営業マンになったので、とにかく頭を下げることから始まるが、兄の立場では、対外的に頭を下げることが無かったと想像できる。ということで、必然的に横柄な態度をとる習慣ができたのだろう。

 ということで、対人的に横柄な態度にみえることがあったのは、そのせいだろう。そのへんで、互いに大人になってからの物事の捉え方が180度違っていたように思う。

 私は次男坊でちゃらんぽらんな生き方をしたが、兄は長男として、近所付き合いから親戚付き合いまで、律儀に対応してきた。子供のころの私にも、クリスマスプレゼントなどを忘れずに枕元に置いてくれたりした思い出がある。

 兄弟げんかする余地もないほど年齢が開いていたが、私が思春期を迎えて、傲慢になってきた高校生のとき、たった一度だけ、兄と口喧嘩になった。思春期の自我が芽生えたころで、自分自身の我がままな性格を嫌うようになっていたが、逆に兄も同じような性格を持っているのが分かるようになって、それがとっても嫌な気がしていたので、些細なきっかけで口ごたえするようになったのだと思われる。

 その後、私が所帯をもって家を出たあと、仕事で失敗して、兄に多大な金銭的な迷惑をかけた。それ以来、兄にはまったく頭が上がらなくなった。これに関しては、まったく申し訳ないと思っている。

 歳を取ってからは、半年に一度ていど電話してご機嫌伺いをするようにしていたが、一年ほど連絡を取らない時期があって、今年の正月に何とか電話をしたところ、兄嫁から入院してると告げられた。一度手術で切り取った癌が再発したとのことで 一度手術で切り取った癌が再発したとのことで、歳も90歳を越えており、手術もできないらしい。

 私も歳をとって、車の運転もままならない状況になっていたが、この機会にしか京都市内に行くことができなだろうと思い切って車を走らせた。実家に着くと応対に出た義姉から、実はもう亡くなっていて身内で葬儀を済ませたところだと告げられた。

 私も老齢化して、市内に行くことも難しい状況を知っていたので、葬儀を済ませて落ち着いてから連絡するつもりだったそうだ。電話したときには詳しいことは言わなかったのだが、虫の知らせというのだろうか、いま思い切って行くしか機会が無いと思って、車を走らせたのだった。玄関の客間に祀られた祭壇には、これまであまり見たこともないような笑顔の兄の遺影が祀られて、それに手を合わせて別れを済ますことになった。合掌

2026年9月12日土曜日

#京都雑記#【21.桓武天皇(737~806)と平安京】

【21.桓武天皇(737~806)と平安京】

 「桓武天皇」(かんむてんのう)は、山城の地に「平安京」を定め、千年の都京都の端緒を開いた天皇として、切っても切れない縁がある。ただし、いきなり平安京に遷都したわけではなく、784年に平城京(奈良)から長岡京(京都府向日市)に移転させたが、さらにわずか10年の後の794年に都を平安京(京都)に移した。

 70年余り続いた奈良の平城京には、近くに大きな川がなく水運や排水に難があった。そのような地勢上の理由もあったが、桓武天皇が奈良から都を移転させることを考えたのは、やはり政治的な理由が大きい。

 光仁天皇の崩御により桓武天皇が即位するが、当時の平城京には天武系の勢力が強く、また、東大寺・興福寺など南都七大寺と呼ばれた寺院勢力も強大で、後ろ盾のない桓武天皇はその勢力圏外に都を移そうと考えた。そして延暦3(784)年、当時未開の山城国乙訓(おとくに)郡に、「長岡京」を造営して遷都する。

 平城京の時代は、持統・元明の女帝を除くと、壬申の乱によって王権を握った天武系皇の皇統が続いた。女帝の称徳天皇は子供を産まなかったため、その隙間をついて道鏡が皇位を望むなど政治が乱れ、そこで天武の嫡流が途絶えた。止むを得ず天智系で60歳を超えていた光仁天皇(白壁王)が即位し、まったく立太子の可能性のなかったその子の桓武天皇(山部王)にも、天皇を受け継ぐ偶然がやってきた。

 しかし遷都の翌年に、長岡京造営の責任者 藤原種継が何者かに暗殺された。犯行首謀者の中に皇太弟「早良親王」も連座するとされ、冤罪とするも配流され途上で悶死する。親王の死後、桓武天皇の近親に変事が重なり、さらに飢饉・疫病の大流行や河川の氾濫などの凶事が続いた。

 桓武天皇はこれが早良親王の怨霊の祟りとして怖れおののき、長岡京遷都からわずか10年後の延暦13(794)年、長岡京の北東の山背国葛野(かどの)郡および愛宕(おたぎ)郡の地に再遷都する。桓武天皇は現在の京都市東山区にある「将軍塚」から見渡して、新たな都に相応しいとして定めたとされるのが「平安京」である。

 桓武天皇は渡来人の血をひく高野新笠を母とし、早くから山城の地に地盤を持つ渡来人 秦氏の協力を仰ぎ、一方で藤原式家良継の娘 藤原乙牟漏を皇后とし、同じ藤原式家の藤原百川らを重用しながら、二度に及んだ遷都を推進したと思われる。

 桓武天皇は平城京で即位すると、律令政治再建を目指し、班田収授の励行・勘解由使の設置といった改良を加え、また律令制で農民に一律に課された兵役は負担が大きく、それを郡司の子弟や武芸に秀でたものを選抜した「健児の制」に改めた。そして、唐の都 長安にならった条坊制に基づいて、平城京や長岡京よりさらに広大な平安京を造営し、新たな律令制を目指した。

 さらに、奈良での寺院勢力を排除するために、平安京では原則的に新規寺院の建立を認めず、唐から持ち帰った最澄や空海の説く新仏教を保護した。また、健児制で地方の軍政を整備し、坂上田村麻呂を「征夷大将軍」に任命し、東北の蝦夷平定を行い、奥羽地方を中央政府の支配下に納めた。

 しかし悶死した早良親王に代わって皇太子となった安殿親王は、決して父親桓武と良好な関係とは言えず、妃の母であった「藤原薬子」を寵愛し、桓武から薬子の追放を命じられるなどその怒りをかった。そして桓武天皇崩御のあと践祚し「平城天皇」となったが、なおも天皇の寵愛を受ける薬子は兄の藤原仲成とともに、政治に介入するなど専横を極めた。

 平城天皇は病弱のため、在位僅か3年で皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、平城上皇は薬子とともに旧都平城京に移り住んだ。しかも、仲成・薬子兄妹の強い要請を受けて、平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った。

 しかし嵯峨天皇側は機先を制し、薬子の官位を剥奪、兄の仲成を捕縛した。平城上皇は、挙兵し薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻った。平城上皇は直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。これは「薬子の変」呼ばれたが、近年では「平城太上天皇の変」という表現もなされる。

 このように、桓武天皇が目指した平安京での律令制はその死後も安定せず、嵯峨天皇以降に少しづつ安定してゆくが、一方で、藤原冬嗣以下の藤原北家が台頭し、天皇が治める律令制から、藤原氏の摂関政治へと移行してゆく。


2026年9月11日金曜日

#京都回想記#【46.やがて転勤で埼玉 所沢へ】

京都回想記【46.やがて転勤で埼玉 所沢へ】


 1980(昭55)年の夏、埼玉県の所沢市に転勤になった。埼玉の田舎とはいえ、人生で初めての関東住まいになるし、新宿にも西武線で40分ほどで、所沢駅から一つ先の「新所沢」が最寄りだった。

 かつての武蔵野の一角、一帯に関東ローム層が展開している地域で、住み慣れた関西に比べて、土地がやたら暗いというのが第一印象だった。会社からあてがわれた住まいは、新所沢駅前広場に面したマンションの8階で、便利そのもので、しかも販売会社へは線路を越えて北側に、歩いて10分の距離にあった。

 住環境の利便は文句なしで、初めてのローカルな生活が始まった。しかし、関東ローカルの土地柄にはなじみがなく、仕事先の関係でも不慣れな生活だったし、何よりも言葉の違いに戸惑った。ある程度は土地の言葉に合わせているつもりでも、べたな関西言葉の抑揚は隠しようが無かった。

  こうして所沢でも資生堂セールスマンとしての仕事が始まったわけだが、ここは「京都回想記」となっているので、一旦このシリーズは休止する。あらためて別タイトルで始めることができればよいが。

昭和55年(1980)はこんな年だった