2026年9月19日土曜日
#京都雑記#【22.兄の思い出】
2026年9月12日土曜日
#京都雑記#【21.桓武天皇(737~806)と平安京】
【21.桓武天皇(737~806)と平安京】
「桓武天皇」(かんむてんのう)は、山城の地に「平安京」を定め、千年の都京都の端緒を開いた天皇として、切っても切れない縁がある。ただし、いきなり平安京に遷都したわけではなく、784年に平城京(奈良)から長岡京(京都府向日市)に移転させたが、さらにわずか10年の後の794年に都を平安京(京都)に移した。70年余り続いた奈良の平城京には、近くに大きな川がなく水運や排水に難があった。そのような地勢上の理由もあったが、桓武天皇が奈良から都を移転させることを考えたのは、やはり政治的な理由が大きい。
光仁天皇の崩御により桓武天皇が即位するが、当時の平城京には天武系の勢力が強く、また、東大寺・興福寺など南都七大寺と呼ばれた寺院勢力も強大で、後ろ盾のない桓武天皇はその勢力圏外に都を移そうと考えた。そして延暦3(784)年、当時未開の山城国乙訓(おとくに)郡に、「長岡京」を造営して遷都する。 平城京の時代は、持統・元明の女帝を除くと、壬申の乱によって王権を握った天武系皇の皇統が続いた。女帝の称徳天皇は子供を産まなかったため、その隙間をついて道鏡が皇位を望むなど政治が乱れ、そこで天武の嫡流が途絶えた。止むを得ず天智系で60歳を超えていた光仁天皇(白壁王)が即位し、まったく立太子の可能性のなかったその子の桓武天皇(山部王)にも、天皇を受け継ぐ偶然がやってきた。 しかし遷都の翌年に、長岡京造営の責任者 藤原種継が何者かに暗殺された。犯行首謀者の中に皇太弟「早良親王」も連座するとされ、冤罪とするも配流され途上で悶死する。親王の死後、桓武天皇の近親に変事が重なり、さらに飢饉・疫病の大流行や河川の氾濫などの凶事が続いた。
桓武天皇はこれが早良親王の怨霊の祟りとして怖れおののき、長岡京遷都からわずか10年後の延暦13(794)年、長岡京の北東の山背国葛野(かどの)郡および愛宕(おたぎ)郡の地に再遷都する。桓武天皇は現在の京都市東山区にある「将軍塚」から見渡して、新たな都に相応しいとして定めたとされるのが「平安京」である。 桓武天皇は渡来人の血をひく高野新笠を母とし、早くから山城の地に地盤を持つ渡来人 秦氏の協力を仰ぎ、一方で藤原式家良継の娘 藤原乙牟漏を皇后とし、同じ藤原式家の藤原百川らを重用しながら、二度に及んだ遷都を推進したと思われる。 桓武天皇は平城京で即位すると、律令政治再建を目指し、班田収授の励行・勘解由使の設置といった改良を加え、また律令制で農民に一律に課された兵役は負担が大きく、それを郡司の子弟や武芸に秀でたものを選抜した「健児の制」に改めた。そして、唐の都 長安にならった条坊制に基づいて、平城京や長岡京よりさらに広大な平安京を造営し、新たな律令制を目指した。 さらに、奈良での寺院勢力を排除するために、平安京では原則的に新規寺院の建立を認めず、唐から持ち帰った最澄や空海の説く新仏教を保護した。また、健児制で地方の軍政を整備し、坂上田村麻呂を「征夷大将軍」に任命し、東北の蝦夷平定を行い、奥羽地方を中央政府の支配下に納めた。しかし悶死した早良親王に代わって皇太子となった安殿親王は、決して父親桓武と良好な関係とは言えず、妃の母であった「藤原薬子」を寵愛し、桓武から薬子の追放を命じられるなどその怒りをかった。そして桓武天皇崩御のあと践祚し「平城天皇」となったが、なおも天皇の寵愛を受ける薬子は兄の藤原仲成とともに、政治に介入するなど専横を極めた。
平城天皇は病弱のため、在位僅か3年で皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、平城上皇は薬子とともに旧都平城京に移り住んだ。しかも、仲成・薬子兄妹の強い要請を受けて、平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った。 しかし嵯峨天皇側は機先を制し、薬子の官位を剥奪、兄の仲成を捕縛した。平城上皇は、挙兵し薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻った。平城上皇は直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。これは「薬子の変」呼ばれたが、近年では「平城太上天皇の変」という表現もなされる。このように、桓武天皇が目指した平安京での律令制はその死後も安定せず、嵯峨天皇以降に少しづつ安定してゆくが、一方で、藤原冬嗣以下の藤原北家が台頭し、天皇が治める律令制から、藤原氏の摂関政治へと移行してゆく。
2026年9月11日金曜日
#京都回想記#【46.やがて転勤で埼玉 所沢へ】
京都回想記【46.やがて転勤で埼玉 所沢へ】
かつての武蔵野の一角、一帯に関東ローム層が展開している地域で、住み慣れた関西に比べて、土地がやたら暗いというのが第一印象だった。会社からあてがわれた住まいは、新所沢駅前広場に面したマンションの8階で、便利そのもので、しかも販売会社へは線路を越えて北側に、歩いて10分の距離にあった。
住環境の利便は文句なしで、初めてのローカルな生活が始まった。しかし、関東ローカルの土地柄にはなじみがなく、仕事先の関係でも不慣れな生活だったし、何よりも言葉の違いに戸惑った。ある程度は土地の言葉に合わせているつもりでも、べたな関西言葉の抑揚は隠しようが無かった。
こうして所沢でも資生堂セールスマンとしての仕事が始まったわけだが、ここは「京都回想記」となっているので、一旦このシリーズは休止する。あらためて別タイトルで始めることができればよいが。
2026年7月5日日曜日
#郷土史散策#【12.難読駅名 嵐電に乗る】
郷土史散策【12.難読駅名 嵐電に乗る】
まずは無作為に、難読と思われる駅名を挙げてみる。
(嵐電嵐山本線)
西院・蚕ノ社・太秦広隆寺・帷子ノ辻・有栖川・車折神社・鹿王院・嵐電嵯峨
(嵐電北野線)
等持院・龍安寺・妙心寺・御室仁和寺・鳴滝・常盤
嵐山本線は、「四条大宮(しじょう おおみや)」を起点として、途中「帷子ノ辻」で北野線と合流し、終点「嵐山」に至る。阪急京都線の「四条大宮」駅もあり、かつてはターミナルとしてにぎわったが、阪急電車が河原町まで延伸し、ただの通過駅となってしまった。
次が「西院」で、嵐電駅では「さい」と表記されるが、地下を通る阪急の駅では「さいいん」と読まれる。その謂れもいろいろあって、淳和天皇の後院(西院)があったことによるとか、この世とあの世の境目とされる「賽(さい)の河原」があったというものがある。 「蚕ノ社(かいこのやしろ)」は、太秦森ヶ東町にある神社に由来し、本殿の右の摂社「養蚕神社(こかい じんじゃ)」は、大陸から織物技術を伝えた「秦氏」にゆかりが深く、ここから「蚕の社」の通称が生まれた。境内に「元糺(もとただす)の池」があり、その上段には珍しい「三方正面の石造の鳥居」が建っている。
「太秦(うずまさ) 広隆寺」は、「広隆寺」や「太秦映画村」へのアクセスポイント。この地は、半島からの帰化人「秦一族」の所領として栄えた。日本書紀に「秦酒公(はたのさけのきみ)が絹等をうずたかく盛って奉納したことから、禹豆麻佐(うつまさ)の姓を賜った」ことが記されている。
「広隆寺」は秦氏の氏寺であり、聖徳太子信仰の寺でもある。広隆寺にある「弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)」は国宝指定第1号とされ、昭和35(1960)年)8月、京大生が菩薩像に抱き着こうとして、右手薬指が折れるという事件があった。
「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」、カタとは丘山に沿う地形で坂・崖を意味する言葉。「都名所図会」が「上嵯峨、下嵯峨、太秦、常盤、広沢、愛宕などの別れ道なり」と示すように、古くから分岐点としての役割を担っており、現在もこの駅で北野線と嵐山線が分岐する要所となっている。
地名の由来は諸説あるが、嵯峨天皇の皇后にあたる壇林皇后の嵯峨深山谷への葬送の際に、棺を覆った帷子の衣が風で落ちた、という逸話が有名である。壇林皇后は死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、帷子辻において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したという。その時、皇后の遺体に掛けられていた帷子が風に舞ったのである。
「有栖川(ありすがわ)」駅は、大覚寺からの流れでる清流の有栖川に由来し、有栖川の歴史は古く、徒然草にもその名が見られる。有栖は「荒瀬」がなまったものか。開業当初の停留場名は「嵯峨野駅」だったが、観光名所がある嵐山と勘違いされるので変更された。
「車折(くるまざき)」は、近くの「車折神社」に由来する。車折神社は、後嵯峨天皇が嵐山に来られた際、社の前で車の轅(ながえ)が折れたので「車折大明神」の神号が贈られたことによる。商売繁盛の御利益があるされ、境内には芸能神社があり、奉納した芸能人の名が記された朱の玉垣は圧巻。
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