2021年7月4日日曜日

#京都雑記#【01.高野悦子『二十歳の原点』】

京都雑記【01.高野悦子『二十歳の原点』】 (2017年記)


 NHK「かんさい熱視線」(2/10)で、高野悦子『二十歳の原点』が取り上げられた。50年近くたった今でも、読まれているというのが驚きだ。

 半世紀近く前、学園紛争や反体制活動の狭間で、社会活動と個人の恋愛などの葛藤に悩み自殺した女子大生の日記。というと、いまや大時代的な過去の遺物になりつつある。番組では、それから現代の若者との接点を見出そうという編集方針でドキュメントされていたようだ。

 私自身、この『二十歳の原点』を読んでいないし、出版そのものをかなり後日になって知った。ただ、同年代で同じような学生生活を送り、そして同時期に京都の街中を徘徊していたという縁から、多少当時の状況を探ってみたことがある。

 高野悦子が『二十歳の原点』の基になる日記を記し、その6月に鉄道自殺した1969年(S44)という年は、激しい学園紛争の後遺症で、あの東京大学の入試が出来なかった年だというだけでも、その様子がうかがえる。いまや風化しつつあるこの当時の状況を、高野の最後の半年の動向を中心に振り返ってみる。

 この年の1月東大キャンパスに機動隊が導入され、全共闘系学生がバリケード封鎖中の安田講堂が解放された。以後、関東の各大学では次々と機動隊導入による封鎖解除が行われ、関東での大学紛争は沈静の動きを見せる。

 一方、関西では、関東より一年ほど遅れて大学紛争の時期がやってくる。高野が文学部史学科2年生として在学した立命館大学では、他の関西の大学よりいち早く、2月に早々と機動隊の導入が行われた。これは立命館が置かれていた、活動家学生の勢力関係の影響も大きかった。

 立命館では民主青年同盟(民青・日本共産党の青年組織・代々木系)が学友会(大学自治会)を支配しており、他大学に比べてその勢力が圧倒的に強かったし、教職員にも共産党支持者が多かった。それに対抗して反民青系全共闘が結成され、立命館広小路キャンパスを占拠して封鎖した。入試を目前にした大学側は、右翼系学生などを動員して、封鎖解除を目指し、学友会を支配する民青系学生も、自力でバリケードを撤去しようとして衝突した。

 結果的に、大学側は機動隊導入を要請し、まもなく封鎖は解除された。関西の著名大学の中では、いち早く機動隊を導入したのが立命館で、このような力関係が、機動隊の導入を安易にしたと思われる。今では信じられないだろうが、当時は「大学の自治」が金科玉条であり、官憲がキャンパスに入ることなど考えられなかった。それが、東大安田講堂攻防で導入されてからは、もはや聖域でなくなったと言うわけであった。

 この時期、高野悦子は反代々木系全共闘のシンパ(同調支援する一般学生)として集会などに参加していたもようである。やがて、機動隊による封鎖解除などを見るにつけて、活動にのめり込んで行き、中核派など過激派セクト(全共闘に集っているが、それぞれ主張が異なる各派)のデモなどにも参加するようになる。

 私は一年浪人して1968年4月、神戸の大学に入学したが、夏休みに実家に戻ってぶらぶらしているうちに、二度目になる鬱病を発症した。神戸の下宿も引き払い、秋の学期は始まってからも実家で過ごしながら、やっと鬱を脱して登校し出したころ、12月に全学封鎖となった。以来、1969年を通じて、京都の街で、高校時代の友達と交友しながら過ごす。

 高野悦子とは同じ年齢であるが、一浪した分、大学生としては一年下級であった。高野が京都の街での出来事を記した日記の、1969年の最後の半年は、同じように京都の街を徘徊していたわけである。以下の記述は、『二十歳の日記』の足跡をたどり、関係者にもインタビューして詳細に記述された、下記のWEBに基づくことになる。
*『高野悦子「二十歳の原点」案内』 http://www.takanoetsuko.com/

 1969年2月1日の日記に、ジャズ喫茶「しぁんくれーる」で過ごしたという記述がある。ここは広小路キャンパスに近い河原町荒神口角にあり、私も何度か通ったことがある。一階がクラシック、二階がジャズのレコードを鳴らしていた。「明るい田舎」という意味のフランス語と「思案に暮れる」という語呂合わせの店名が、微妙な若者の心理に受け入れられたのかもしれない。

 3月になると「京都国際ホテルにウエイトレスとしてアルバイトに行き一つの働く世界を知った。」と書かれた。親の仕送りから自立をしようとアルバイトを始めたようだが、このホテルのバイト経験が、のちに高野悦子に恋愛問題の波紋を引き起こす。高野は栃木県の田舎町で、栃木県庁勤務の地方官僚の娘として生まれ育った。

 大学で京都に出て、都会生活を満喫する生活を始めたのだろう。芯はしっかりしているが、地味でおとなしい性格で、いささかウブな彼女にとって、東京ではなくて京都というこじんまりした都会は、むしろ向いていたかもしれない。酒を一杯飲んで真っ赤になり、タバコを一本吸ってくらくらするなど、いかにも背伸びして大人経験をしようとする、初心な記述が散見される。同い年ながら、すでにヘビースモーカーでハードドランカーだった私とは、かなり違う初々しさが感じられる。田舎育ちの良家の娘さん、といった感じか。

 以下、彼女が大学生活を満喫し、せっせと通った喫茶店・洋酒喫茶などを羅列してみる。まず洋酒喫茶「ニューコンパ」に「白夜」、若い学生カップルがちょいと洋酒カクテルを呑む、そういった健全な風俗を演出したのがコンパ・チェーンで、各地で展開された。とりあえずボラれる心配もなく行ってみるというのが洋酒喫茶であった。

 喫茶店では、「六曜社」に「リンデン」、さらには「フランセ」というのもあった。六曜社は、狭い店内に長椅子の席を中心に、押し詰めて客が同席するというのが売りであった。どの店も、みんな学生にとっては有名店で、口コミで聞いて行ってみるというパターンだった。おかしく思えてくるぐらいだが、これらのすべて、私もよく知っている。私自身、神戸で同じように有名各店を渡り歩いたもので、彼女の学生生活が手に取るように分かる。

 このように楽しげな学生生活を始めながら、やがて学生運動に関わるとともに、一方でバイト先での淡い恋愛経験と失恋。このような挫折が、彼女を自殺へと追いやったと考えても間違いはないだろう。6月24日午前2時ころ、高野悦子は下宿を「チョット外出します」と声をかけて出た。下宿のすぐ近くを国鉄山陰線(当時非電化単線)が走っており、高野は踏切から線路内に入り、西に向けて歩いた。そして嵯峨野から京都駅方面に向かう貨物列車に轢かれて亡くなったとされる。

 当時の国鉄(現JR)山陰線は本線とはいえ、きわめてローカルな路線で、京都駅を発して嵯峨野を経由、山陰地方に向う。実は、私事ではあるが、この10年余りのちに、私の一歳年長の義兄が、この近くの線路上で鉄道事故死している。クリスマスイブの夜、仕事仲間と酒を飲んで別れた後、線路上に入り込んで轢かれたという。酔っぱらったせいか自殺なのかは、不明であった。

 数日後、現場に花を手向けに行った。現在は複線電化され高架上を走っているが、その時はまだ高野の事故現場と同じく単線線路だった。事故跡は係員によってきれいに整備され新しい砂利がまかれていたが、枕木の端に小さな肉片が残ってこびりついているのを見つけた。同行した実の姉妹には見せないように、そっと足で肉片を砂利の下に隠した。鉄道自殺などするもんではない、と思った。

 なお、この時期の私自身の状況は、以前にブログに記した。参考までにリンクしておく。 
http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20140823

(附記)
 「しゃんくれ」に関しての思い出だが、ちょいはずかしいシミったれた話だから、あまり書かなかったが、もういいかと思って書いておく(笑)
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 しゃんくれには苦い思い出しかないのだw 高校の同級生でかすかに好きだと思ってた彼女が、大学に入学して神戸に下宿したときに、思いがけなく入学祝いの手紙をくれた。それから少し接点が復活して、大学紛争で京都に戻っていた一年間にいろいろとあった。夏休みぐらいには映画デートや夜の縁日を歩くなんてこともあったが、結局は話がかみ合わず離反した。秋ごろに最後の思いをかけて、一方的に彼女をしゃんくれに誘い出したが、2時間待ってもとうとう現れずすっぽかされた(笑)。じつはこの年の6月に高野悦子が鉄道自殺したのだが、同年齢の私の「二十歳の原点」は、もっとスカタンだったのである。

 その年の暮れから、あらためて神戸に下宿をかまえて、ひたすら文学に沈潜していた時期、また唐突に彼女からの手紙。で、あの時、夏の夜道をともに歩いたときの気持ちを種明かしします、なとといった内容で、実はあの時は甘えてみたかったのに、あなたは自分のことが精いっぱいでそういう私に気付いてくれなかった、などという内容だった。

 つまるところ、漱石の「三四郎」で、美祢子の気があるのかないのかわからないような態度に翻弄される三四郎と同じような状況だったのだろう。こちらはかなり奥手な思春期で、彼女は女性特有の現実に沿った思考をしていただけのことだろう。いまさら、ストレイシープなどとつぶやいてはいられない年頃なので、思えば恥ずかしい片思い体験だったに過ぎない。70歳をはるかに超えて、やっと、後にも先にも一度だけの初恋の体験を平気で書けるようになった(笑)



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