京都回想記【04.家族1】
父親は明治末年の生まれ。上賀茂の社家(神官を出す家系)の跡取りの道楽者の私生児として生れた。十数人の兄弟姉妹が居るのだが、すべてが異父異母兄弟姉妹で、同じ両親の子としては自分一人だけとかで、ある意味さびしい幼少年期をおくったようだ。一番年長の姉とは親子ほど歳が離れており、その姉の嫁ぎ先に引き取られ、姉によって母親代わりに育てられたらしい。
子供の頃、叔父だの叔母だのの家に遊びに連れて行かれたり、またそういう親戚の人が何人もうちにやってきたが、いまだに誰が誰やら区別がつかない。当然、お互いに知り合っていると思い込んでたが、父親方の兄弟と母親方の兄弟であったりして、互いにはまったく接点がなかったりするのだった。
母親も同じく明治末の生まれで、二人娘の下の方なのだが、姉が大恋愛して勝手に家を出たため、母が姓を継ぐことになった。つまり父は婿養子である。継ぐことがさほど重要でもない家だったが、父方を継承するわけでもないので、自然に母方の姓を引き継ぐことになったのだと思われる。
私には14歳上の兄が一人いて、二人兄弟の末っ子として育った。父は戦争にとられてもおかしくない年齢であったが、徴兵検査で肺結核のおそれありと不適格とされた。事前に風邪をひいていて、軍医の誤診により戦争に行かなくすんだということだ。
兄の上にもう一人姉がいたらしいが、小学5年生のとき内臓腫瘍により亡くなった。戦時中で満足に医療設備もない頃で、京都帝大病院に入院した。当時、原因不明のめずらしい病状だったらしく、貴重な患者として扱われ、医療費は免除された。真夏の暑い盛りに手術を受けたが、まったく見当はずれの場所を切開され、水が欲しい欲しいと言いながら亡くなったそうだ。
術後、担当医局の教授がじきじきにやってきて、両親の前で「私の見立て間違いでした」と深々と頭を下げたという。医療事故の隠蔽が当たり前のような現在では考えられないような、鷹揚な時代であった。両親も、教授がじきじきにミスを認めて頭を下げたということで、そのまま納得したようである。
戦後しばらくして、のちに団塊世代と呼ばれるピークの年に私が生れた。戦前に生れて疎開経験などもした兄とは14歳の差で、その間父親は軍隊にも行っていない。ひと回り以上の間いったいオヤジは何をしてたんだと、高校生になって生意気盛りの私は訊いてみたい衝動に駆られたが、結局は聞きそびれた。
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