京都回想記【11.近所の人々3】
家のすぐ前で凧揚げをしていると、通りすがりのおじさんが勝手にカメラを向けて撮っていった。その写真を後日、家に来て売りつける仕組で、母親から知らない人に勝手に写真を写されないように言われた。現像したのを持ってこられると、断りにくいという心理を利用した商売らしい。
このようにして家の前の道端で、独りで遊んだり、仲間と遊んだりするのが一日の日課みたいなものだった。あるとき、いつものようにみんなで遊んでいると、それを近くのおばさんが眺めてていて、遊び仲間の一人の男の子を呼び寄せた。その子は坊ちゃんぽい顔つきで、上品な気配の少年だった。
昭和30年当時、まだ町内には「戦争未亡人」と呼ばれる人たちが、数人は住んでいた。親や子供たちと一緒に大家族で過す人も居れば、母親と子との母子家庭もあったし、独りで暮らしている婦人もいた。そのA婦人もその一人で、借家にひっそりと独り住まい。婦人はいつも地味な着物を身につけており、ほっそりとして色白、若いときはそれなりの美人かとも想像された。
A婦人は呼び寄せた男の子の手を取ると、「あら、こんなとこが汚れてるわ、オバサンが石鹸で洗ってあげる」と家の中に引き入れていった。その言葉つきからは、京都育ちではなくて、関東方面から移ってきたのかと思わせた。その子の手の甲には、硬貨大のうっすら黒ずんだアザがあって、毎日遊んでいるわれわれ仲間はみんな知っていた。石鹸などで洗っても落ちるはずがないのに、大人のおばさんが何故そんな変なこと言うんだろうと、いぶかった。
しばらくしてからその子が戻ってきたが、家の中でどうしてたのか、何故かきいてはいけない気がして、みんな何事もなかったように遊びを続けた。孤独な未亡人が、かわいい子を見て、ふと家に引き入れて御菓子などを与えただけなのかも知れないが、何故かその時の不思議に思った違和感が、いまでも印象に残っている。
ひょうたん屋の老夫婦、マイペースな生活を送るYちゃん、そして戦争の傷跡を抱えて独り暮らす未亡人。ちょうど高度成長の初期にさしかって活気をみせる世間に背を向けて、ひっそりと暮らすこれらの人々の孤独感が、記憶の奥でぼんやりと思い出される。夜なべ仕事の親が仕事を終えて居間に戻るのを待ちながら、畳の上でビー玉を転がして独り遊びする自身の孤独と、多少なりとも重なるところがあったからかも知れない。
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