2021年7月4日日曜日

#京都雑記#【02.旭丘中事件と旭丘中学校】

京都雑記【02.旭丘中事件と旭丘中学校】


 1953年4月29日、京都市立旭丘中学校は原因不明の出火によって、2階建て木造校舎南側半分の8教室が焼けた。火災の原因について、一部の父兄から進歩的教員による放火説がとなえられ、父兄や教員の間での保守対革新の対立が表面化した。旭丘中学ではかねてから、日本共産党員である日教組教員によって、「平和教育」と称する赤化教育がなされているといううわさがあった。やがて保守派父兄によって市教育委員会に申し立てがあると、旭丘の「偏向教育」は中央の政治問題に発展した。

 具体的には、校内で革命歌や赤旗を生徒に強要するとか、全関西平和まつりに生徒を引率するなどが行われていたとされる。翌年3月、京都市教育委員会は「偏向教育」の主導者として、北小路昴教頭・寺島洋之助教論・山本正行教論を他校への転任を内示、3教員がこれを拒否したため懲戒免職とした。3教員の支持派は、赴任したばかりの北畑紀一郎校長を吊るし揚げ、辞任を強要した。教育委員会側は辞表を不受理、旭丘中学の休校と教職員の自宅研修を通知した。

 一方、これを不服とする進歩派の教員・父母と京教組組合員らが、学校を封鎖し自主管理授業を強行、校舎やグラウンドには赤旗が林立する。他方、保守派の父母と市教委は、岡崎の京都勧業館(現みやこメッセ)での補習授業を行い、生徒は2分されることになった。事態の長期化につれて、子供を政争の材料にしているとの世論の批判も高まり、京都府教育委員会などの調停により、懲戒免職とされた3名以外の全教員の処分を行わず転任させて、校長以下全教員を入れ替えることで双方が妥協し、授業が再開された。まるで60年70年安保時の大学紛争を思わせるが、これは戦後に新設されたばかりの一公立中学校での出来事である。

 校舎火災のとき私は5歳前後、旭丘中学在学の近くのお兄さんに手を引かれて火事現場を見に行った記憶がある。現在の校舎はコンクリート三階建になっているが、当時は木造二階建で左側の半分以上が焼け落ちた。8年後には私が入学することになるのだが、入学時には焼け残った右半分には職員室などがあり、左半分が安普請で継ぎ足された木造教室となっていた。

 昭和36(1961)年4月に入学した私は、在学中にこのような事件があったことはまったく知らなかった。教師も生徒もすべて入れ替わっており、しかも当時を知る教員や父兄も、意識的に話題を避ける雰囲気があったのだと思う。しかし私にとっては、その後調べて知った事件の概要と、幼くして見たおぼろげな火災跡との印象が結びついて、是非とも触れなくてはならない事件となっている。

 在学中にはほとんど触れられなかった事件で、当中学校についてはいわば「黒歴史」になるのだろうか、意図的に語られなくなくなっているようである。完全に風化しないように、ここに記録しておく。

 旭丘中学校は、昭和22(1947)年、京都市立待鳳中学校として待鳳小学校に併設するかたちで創立された。私の兄はその一期生だったようだ。その後、新制旭丘中学校として現在地に新設移転したが、私の在学中もプールはなくて、水泳部員は待鳳小学校のプールを借りて練習していた。航空写真で見ると、西側北山通りに面した最も古い木造校舎が取り払われて、プールやテニスコートが作られているようだ。

 しかも、現在は北山通り側の門が正門となっているようだが、私の頃は東側の門が正門で、東方向にある自宅から、坂道を上り詰めた所にあるこの門に駆け込んだものだった。西側の鷹峯に沿った高台にあり、グラウンドから見て高いコンクリート階段の上に校舎があるため、このコンクリート階段は、恰好のクラス写真ひな壇となった。また校舎から東を望むと、真正面に勇壮な比叡山がそびえ立ち、毎日絶好の景色を眺めながら快適に過ごせた。

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