2021年7月10日土曜日

#京都雑記#【06.昭和末にみる京都のおもしろ前衛建築】

京都雑記【06.昭和末にみる京都のおもしろ前衛建築】by「THE日本/1985」


 昭和60(1985)年前後は、20年近く続いた戦後の高度成長が一段落し安定成長と呼ばれる成熟期であり、この後の「バブル経済」の狂乱にはまり込んでいく時期でもあった。振り返れば、政治経済文化まとめて、戦後の一定の成熟のピークを迎えた時期ともいえる。その時期を象徴するような建築物を、「京都のおもしろ前衛建築」として取り上げてみよう。
 
 写真4の「京都国際会館」は、おもしろ前衛建築というには別格で扱わねばならない。日本最初の国立国際会議場として開設され、100名近くの著名設計者が参加した建築コンペで、丹下健三門下の大谷幸夫の設計が選ばれた。日本古来の伝統的な合掌造りを現代建築と融合させた建築は、前景に宝ヶ池、背景に比叡山を配して、悠久の美を醸し出している。

 とはいえ、掲載写真に多くみられる「北山通」は、この国際会議場の設置にともなって拡張整備された大通りであった。まず昭和30年代の後半、戦後占領軍の居住地として接収されていた府立植物園が返還された。植物園の整備と併行して、加茂川に「北山橋」が掛けられ、植物園の北側はほぼ畑地であったところを、東の松ヶ崎方面に向けて拡張され、それが今の北山通となった。そして松ヶ崎から宝ヶ池の脇の山にトンネルが掘られ、それが岩倉の会議場と直結する道となった。

 同時に、東大路から北上して宝ヶ池会議場に至る北白川通りも、同様に拡張整備された。当時はまさに日本もモータリゼイションのさ中で、若者たちは給料をもらうとこぞって車を手に入れた。そして北山通や北白川通には、ファッショナブルな店や喫茶・レストランなどが進出した。繁華街とは別の、若者が集う郊外型ファッションの街が出現したわけである。現在では、地下鉄南北線が、京都駅から北山を経て岩倉まで延伸され、20分もあれば着いてしまうようになっている。
 
 その後バブル期を経て、いまや30年以上が経過した。当時の前衛的な建物群も、その多くは消えてなくなっている。前衛と言っても、それは新しいアートを創造しようというより、半端にできた余裕のお遊びの域を出ていなかったのだろう。ファッションは、最先端から古びてゆくものである。人の顔のビルやガンダムロボットのような建物では、いまの若者は仕事をしたいとは思わないだろう。

 現在の地下鉄北山駅周辺には、府立資料館が建てかえられ、府立大学そばにはコンサートホールや陶芸美術館などができている。さて、北山は一時のファッションの地から、文化スポットに変遷してゆけるのだろうか。
 
1.デザイナーの住宅兼工房<顔の家〉三越発祥の地、室町通にある。山下和正設計
2.仁科歯科医院 桃山南口 高松設計
3.タイムス 高瀬川ほとりのファッションビル。安藤忠雄設計
4.京都国際会館 京都を代表する国際会議場。温暖化防止京都議定書はここで締結された。大谷幸夫設計
5.喫茶店<ドジハウス> 北山通 村上憲一設計
6.総ガラスのスナック 北山通 小川立比古設計
7.西陣の織屋<ひなや> 高松伸設計
8.ジャパンクラブ 北山通 山野成侑設計











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