京都回想記【05.家族2】
父が婿養子に入ったので、同居していたのは母方の祖父母となる。母方の祖父は明治11年ぐらいの生まれ、西郷の西南戦争の翌年というから、気が遠くなるような話だ。京都の生まれは確かだが、早くから丁稚奉公に出されたので、親元の記憶もあやふやらしい。寺も後日、知人の紹介で世話してもらった浄土宗の寺院に墓をもったということで、過去帖などもあるわけがない。つまり祖父以前の家系はたどりようがないわけだ。
祖父から聞いた面白い話は、当時の徴兵検査の様子。検査場に入ると、そこに身長ほどの高さに荒縄が渡してある。検査官が、真っ直ぐ立ってその下をくぐれという。直立してもその荒縄に触れなければ、身長不足で不合格だとか。ほかにどんな検査があったか知らないが、この話だけは当時の状況を物語っていて興味深かった。
祖母も、同じ明治十年代の生まれで、富山出身、のちにイタイイタイ病の中心地とされた地区である。祖母の従姉妹などにもイタイイタイと言って死んでいった者が居たと聞いた。当時は小学校制度が、地元の協力を得ながら確立しつつあった時期で、祖母も尋常小学校に「一週間」ほど通ったらしい。
学校への行き返りに、いじめっ子が待ち構えていて石を投げてくるという。親に行くのが嫌だというと、それなら行かなくても良いよと言われ、それっきり止めたらしい。当時の農家は子供も必要な働き手で、学校に取られると生活に拘ってくるので、できれば行かせたくなかったとか。そんな時代だったわけだ。
降る雪や 明治は 遠くなりにけり 草田男
#写真は小二ぐらいのときか。家の前の道端で遊ぶ。昭和30年代初めで、道はまだ地道で車もほとんど走らなかった。お百姓さんが肥桶を大八車に積んで、牛にひかせて汲み取りにやって来た時代だった。初期のダットサンらしき車が後方に写っている。この頃、祖父が亡くなったのを憶えている。右は最近の街並み、60年後でもほとんど変わってないのが面白い。
(追記)
祖父「新七」の父親の名は「新助」といったらしいと、後日、兄から聞いた。祖母は「シゲ」と呼んでいたが、70歳ぐらいの時に何かの必要で戸籍謄本をあげることになった。兄が役所で取ってきたが、何と名前が「ヨリ」となっているという。生まれも本人が憶えているよりも二年ほど前になる。実は祖母の上に姉が生れたが一歳ぐらいで亡くなったらしく、死亡届も出さずにいるうちに祖母が生れ、そのままの籍にしたらしい。それ以降「ヨリ」と名乗るようになった(笑)
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