2021年7月21日水曜日

#京都回想記#【06.家族3】

京都回想記【06.家族3】


 加茂川に沿って加茂街道を北大路から少し下がったあたりから、西に向けて堀川鞍馬口まで、紫明通りという広い道路が走っている。これは白川疎水が賀茂川を越えて、堀川にまで流れ込んでいた名残で、曲がりくねっている。しかも戦争中に強制疎開で拡幅されたので、現在のように、やたら幅が広いが曲がりくねって短く、都市道路としてあまり意味のない道路となっている。

 昭和の初めまで、祖父母と母はこの近くに住んでいて、疎水が近くだったと聞いたことがある。そこに父親が養子として入って、やがて北区(当時は上京区)紫竹に家を建てて移った。その頃、西陣の織物業は活況で、旧西陣地区は満杯状態、そこで市が北大路通りを整備して、そこから今の北山通りまでの地区を区画整理して宅地化した。その一角に西陣からの移転を積極的に推奨し、市が住宅資金の融資などをした。

 この時、市の融資を受けて建てた家が、私の育った実家である。図にあるような典型的な「うなぎの寝床」と呼ばれる町屋造りであるが、さらに裏庭の奥に織物用の仕事場が別棟で建っている。そういう別棟付きの織屋(おりや)建でないと、融資の基準を満たさなかったそうだ。

 一時期を学生で神戸で下宿した以外、生れてからほぼ30年間この家で過した。子供の時期には、物置、路地、裏庭、仕事場など、いっぱい冒険の場があった。中高生時代には、物置で江戸川乱歩全集などを見つけて、密かに隠れて読んだ。乱歩によく出てくる怪しげな西洋館とまでは行かないが、秘密の場所がいくつもあって、臨場感満杯で夢中になって読んだ。

 女の子が居なかったので雛人形は無かったが、毎年端午の節句になると、お爺ちゃんが「大将さん人形」(五月人形)を飾ってくれた。二階の押し入れに、まるで甲冑でも仕舞ってあるような大きな長持があって、その中に丁寧に紙でくるんでしまってある。それを、一階奥座敷の床の間に飾る。一番上段は甲冑を纏った武将、その他、桃から生れる桃太郎とか、熊と相撲を取る金太郎、槍で虎退治する加藤清正など、雛人形とは違って、男の子が強く元気に育ちそうなものなら何でもありだった。

 その祖父も、私が小学校二年生の時に八十八歳で亡くなった。風邪で数日寝込んでいて、学校から帰ると亡くなっていた。家族で亡くなったのは初めての経験で、怖くてチラッとしか死に顔を見なかったが、老衰ということだった。祖母は九十歳を越えて長生きした。うちの家族は長生きの家系のようである。

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