京都回想記【12.小学校時代2】
小・中・高校すべて、京都市立の公立校だった。小学校では6クラス、中学は3小学校から集まるので12クラス、高校はさらに北区の5中学ぐらいから集まるが、入試選抜があるので13クラスということだった。いつも教室が足らず鉄筋コンクリートの新館が建設中だったが、在学中は取り壊し前のボロ木造校舎。高校などは、ベニヤ板とスレートで急設されたプレハブ教室だった。
小学校では低学年の三年間が同じクラス、四年生になるときにクラス変えがあって、高学年の三年間も同じクラスだった。高学年になると学級委員の選挙があった。一学期ごとに男女一人づつ選ぶのだが、戦前は学級長と呼ばれ成績などが優秀な生徒を教師が指名したらしい。さすがに戦後民主主義教育とかで、相互にクラス投票で選ぶのだが、小学校ではやはり成績がよさそうな生徒が選ばれた。私も成績は適当にできたのだが、一学期には必ず、成績も性格もてきぱきと人望があるもう一人の生徒が選ばれ、私は人望がなく協調性にも欠ける生徒だから、3年間とも二学期にやっと選ばれた。
学級委員には、それを示すバッヂが貸し出された。胸にそれを着けるのが義務付けられていて、家に帰っても外すのを忘れて、そのままで生活していることが多かった。あるとき自宅の汲みとり便所に、そのバッヂを落してしまった。覗いてみたが小さくて見えず、さすがに拾い上げるのは諦めざるを得ない、さあどうしたものかと、物陰に隠れてシクシク一人で泣いていた。
翌朝、思い切って担任の先生に打明けたが、そんなことで泣いていてどうするの、と逆に励まされた。一学期にいつも選ばれる優等生的な生徒と対照的に、そのような、気弱で社交性の無い意気地の無い生徒だった。
6年生10月ごろ、伊勢志摩方面への修学旅行に行った。最近のようにバスガイドさんが旗を振って引率するのではなく、クラスごとに担任の先生を先頭に行進している。男女の先頭は、正副学級委員が歩くことになっていたようで、たまたま二学期が指定席の私が先頭に写っている。
高学年になるに従って、学校の休み時間は当然のこと、放課後や休日にも、近所友達よりも学校友達と遊ぶ比重が高まった。休み時間にはドッヂボールなどで、放課後や休日にはソフトボールをすることが多かった。人数が足りないときには三角ベースや太鼓ベース、詳細の説明は省くが、太鼓ベースとはピッチャーとバッターの二人からできるルールだった。
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