京都雑記【10.京都大学熊野寮と義兄】
本棚を久しぶりにいじっていたら、こんな本が出てきた。『近代詩人集』、新潮社刊の世界文学全集の中の一巻で、奥付を見ると、なんと昭和五年五月発行となっている。西欧著名詩人のアンソロジーで、目次を見ると、知らない詩人をも含めて、百名近くのものが集められている。当時の代表的な訳詞者をそろえていて、さすがに文語訳は少ないが、旧漢字旧仮名遣いで、戦後教育で育ったものには読みづらい。奥付の上には、旧制第三高等学校図書館の蔵書印らしきものが押してあった。
昭和57年の暮れのクリスマスイブの夜、私より一歳年上の義兄が、30歳代前半で鉄道事故で亡くなった。当時仕事の関係で埼玉県所沢市に住んでいたが、知らせを聞いて急遽帰京することになった。葬儀を済ませた翌日、義兄の部屋の整理に行ったときに見つけて、何となく取っておいた数冊の古本の一冊だった。
義兄は高校を中退してペンキの吹き付け職人をしていたが、川端丸太町東入ルの長屋建オンボロ借家に、足が悪く仕事ができなくなった父親と住んでいた。義兄は頭がつかえるような低い中二階で寝起きしていたが、雨漏り受けに幾つもの洗面器が置いてあった。そんなところに、過激派学生として大学を除籍され、同じ並びにある京大熊野寮を追い出された、行く場所のない学生たちを住まわせていた。
思想的な関係は全くないはずだが、ジャズ喫茶などを通じて知り合った学生たちらしい。雨漏りのする屋根裏部屋には、退寮させられた学生が持ち込んだ古い学習机や簡易本棚などが残されており、入れ替わり何人か放校された学生を住まわせていた痕跡があった。前に居た学生がそのまま残していった書物などが残されており、どの学生のものとも知れない書物の中から、たまたま整理に行った私が、何冊か形見にと拾っておいたものである。
その中には、前進社発行『本多延嘉全集』なんてものもあった。数年前に対立セクトにアジトを襲撃され惨殺された中核派書記長 本多延嘉の著作集だったようだ。パラパラとめくってみたが、さすがにアジテーションを集めたようなもので、その後、処分してしまった。
たまたまその時に、大学を放校されて、かつてこの家に住まっていた元京大生が、供養に来てくれていた。まともな就職口もなく、臨時の作業員などで糊口をしのいでいるようだったが、部屋に何十枚もあったジャズのLPレコードを見つけて、これをかつてのジャズ仲間たちに頒布して、お供養にしたいと言ってくれた。
義兄はきわめて気の良い男で、私も気にいっていたが、唯一、酒癖が悪く、酔うとみさかいがなくなった。ある時には、深夜に自宅のガラス窓を一枚一枚割っていたところ、警察に通報され、やって来た駐在の胸ぐらをつかんだとかで、公務執行妨害で留置されたことがある。留置場では、自分の便器を手で洗わせられるんやで、とか状況を話してくれたりした。
我々の結婚式にも、慣れないスーツに革靴姿で来てくれた。二次会では馴染みのない参加者らで気詰まりだったのか、革靴を脱いで椅子の上にあぐらをかいていたが、唐突にトイレに行く様子で出て行ったあと、そのまま帰って来なかった。ぽつんと残された革靴を眺めながら飲み続けたが、あとで聞くと、外へ出て帰る店が分からなくなったとか。
義兄の事故のあった場所は、旧国鉄山陰本線(嵯峨野線)の現JR西の円町駅近くで、今は複線電化の高架になっているが、当時は駅もなく遮断機も無いような踏切があるだけの非電化の単線だった。ちょうどその10年ほど前に『二十歳の原点』の高野悦子が自殺したのと、ほぼ同じ場所だった。
義兄はクリスマスイブの夜、職人仲間との忘年会のあと、皆と分かれて一人で鉄道の線路内に入ったようであった。酒の上での事故死なのか、自殺なのかは、本人以外には伺い知りようがない。
鉄道での人身事故の現場跡は悲惨なものである。後日、本人の姉と妹ら肉親を連れて現場に供養に行ったが、事故跡は鉄道関係者に綺麗に整理されて、新らしい砂利がまかれていた。ただ、ふと見た枕木の上に、小春日和の日差しで干からびた小指大の肉片を見つけてしまった。肉親の女性には見せられないと、とっさに足で砂利に紛れさせたのが記憶に残っている。彼が亡くなってから、もうすでに40年近くが経過した。
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