京都雑記【09.京の町民自治の進長】
*1817.7.3/ 京都下京の町年寄(町組長)らが、町代(町役人)の専横を訴え、町組と町代の権限について町奉行所に判断を求める。
*1818.10.10/ 懸案の町代権限問題に、町奉行所は町組側勝利の判決を下す。
*1819.閏4.23/ 京都上京に、町自治最高機関としての「大仲(おおなか)」が組織される。

物事を曖昧婉曲に表現する京都人の独特の言い回しは、このような状況から発生したと思われる。どちらとも採れる独自の言語表現を獲得したわけで、これが京都人の意地悪さと錯覚されるが、いわば生活の必然の知恵として発生したものと考えるべきである。
一方で、頼りにできない武士勢力に対して、京の町衆は自衛できる自治能力を持とうとした。その基礎単位となったのが「町組」であった。天文元(1532)年に始まった「天文法華一揆」が、町組の勃興時期と重なる。そして、法華一揆終焉後の荒廃した街の復興処理には、町組が重要な役割をはたしたとされる。

各町では、町年寄(町組長)が代表して、町民の寄合い(会合)で合議されたが、町奉行との連絡役として「町代」が置かれていた。しかし町代は次第に町奉行配下の役人的性格を帯び、奉行の権威をかさに次第に横柄にふるまうようになった。



当方は、戦後すぐに生まれた世代だが、京都市北区(分区前は上京区)に生まれ育った。その当時でも「町(ちょう)」の結び付きは強く、町会を基本に役員が選ばれ、形骸化したとはいえ、それなりに町単位の催し事も多かった。また、ボランティア的だが青年会や子供会もあり、活動も活発だった。
いま住んでいる地域では、隣近所の名前も憶えられないぐらいの付き合いしかない。町内会があるのかないのか、回覧板ひとつ回ってこない。それが良いのか悪いのかは、別問題ではあるが。
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