2021年7月14日水曜日

#京都雑記#【09.京の町民自治の進長】

京都雑記【09.京の町民自治の進長】

*1817.7.3/ 京都下京の町年寄(町組長)らが、町代(町役人)の専横を訴え、町組と町代の権限について町奉行所に判断を求める。
*1818.10.10/ 懸案の町代権限問題に、町奉行所は町組側勝利の判決を下す。
*1819.閏4.23/ 京都上京に、町自治最高機関としての「大仲(おおなか)」が組織される。


 応仁の乱をまつまでもなく、京の都には各地の武士団が攻め入り、街中で覇権抗争を繰り返し、都は幾度も焼け野原となる。負ければ帰れる国元がある武士たちに対して、京の町にしか居場所のない町民庶民は、いずれが勝つか分からない武士勢力に、旗色を鮮明にして支持するわけにはいかない。

 物事を曖昧婉曲に表現する京都人の独特の言い回しは、このような状況から発生したと思われる。どちらとも採れる独自の言語表現を獲得したわけで、これが京都人の意地悪さと錯覚されるが、いわば生活の必然の知恵として発生したものと考えるべきである。

 一方で、頼りにできない武士勢力に対して、京の町衆は自衛できる自治能力を持とうとした。その基礎単位となったのが「町組」であった。天文元(1532)年に始まった「天文法華一揆」が、町組の勃興時期と重なる。そして、法華一揆終焉後の荒廃した街の復興処理には、町組が重要な役割をはたしたとされる。

 江戸期に入ると京都の市街は発展し、新たな町(ちょう)が幾つも誕生し、町組の再編が行われた。別個に発展していた下京(しもぎょう)と上京(かみぎょう)は、市街地の発展につれて境界がつながるようになった。二条大路を境にして、下京と上京それぞれが、惣町(拡大町組)として組織されていった。

 各町では、町年寄(町組長)が代表して、町民の寄合い(会合)で合議されたが、町奉行との連絡役として「町代」が置かれていた。しかし町代は次第に町奉行配下の役人的性格を帯び、奉行の権威をかさに次第に横柄にふるまうようになった。

 そこで上京・下京のそれぞれが、町組の権限と町代の立場確認を求めて町奉行所に訴えていたが、奉行所は町組側の主張を認め、上京・下京には「大仲」という自治組織最高機関の設立が認められた。やがて京都全体の統一的自治機関に拡大してゆく。

 京都町衆の自治意識の強さは、このような歴史的経緯に裏付けされたものといえる。町衆の祭と言われる祇園祭も、その歴史は平安朝にまで遡るが、今のような山鉾の巡行の形をとるのは、室町期の町組の確立と無縁ではあり得ない。現在まで山鉾巡行を支えているのは、そのような強固な町組組織が機能している証左でもあろう。

 また、明治の初期、小学校設立は予算のない政府に代わって、町組の資金協力によって可能になったものが多い。市中心部の小学校区も、町組の単位に沿ったものが多いという。その後、昭和以降の人口増で、小学校区もさらに多くの「町」に分かれているが、その小学校のグラウンドでは、町別対抗の運動会やソフトボール大会が行われたものである。

 当方は、戦後すぐに生まれた世代だが、京都市北区(分区前は上京区)に生まれ育った。その当時でも「町(ちょう)」の結び付きは強く、町会を基本に役員が選ばれ、形骸化したとはいえ、それなりに町単位の催し事も多かった。また、ボランティア的だが青年会や子供会もあり、活動も活発だった。

 いま住んでいる地域では、隣近所の名前も憶えられないぐらいの付き合いしかない。町内会があるのかないのか、回覧板ひとつ回ってこない。それが良いのか悪いのかは、別問題ではあるが。

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