2021年7月8日木曜日

#京都雑記#【05.新大宮商店街 昭和30年代の商店街を想う】

京都雑記【05.新大宮商店街 昭和30年代の商店街を想う】


 京都の新大宮商店街は、北区で最も長い商店街として賑わった。京都の市街地には、大店法の規制もあり大型スーパーの出店が難しかった。その関係もあり、従来型の商店街や公設市場が多く残された。昭和30年代は大型スーパー出店の前夜でもあり、これらの商店街は大いに繁盛していた。

*新大宮商店街web http://shin-oomiya.jp/history1.html

 「新大宮通り」とは、旧平安京の大内裏の両側につけられた東西「大宮大路」にちなむもので、内裏東側の東大宮大路は北は一条大路から南は九条大路まで貫き、東寺の南側で九条に接する。一条大路から北は洛外にあたるが、少し西にずれて西賀茂方面への街道として北へ続いていていて、大徳寺東に沿う大徳寺通りと呼ばれたが、これが地元では「旧大宮通」と通称されていた。しかし昭和初期の区画整理事業で、本来の大宮大路に沿って真っすぐ北へ延びるあらたな路ができて、その主に北大路より北側が「新大宮商店街」として繁栄したものである。

 昭和30(1955)年に私は小学生になったが、実家は新大宮商店街で最もにぎやかな「大宮六間(新大宮今宮通)」に近く、毎日、祖母に連れられ買い物に出かけた懐かしい場所だった。割烹着のおばさんたちが、網み籠の買い物籠をさげて、毎日の食材を買いに集まる。当時は冷蔵庫もなく、魚や肉類の生ものは毎日買いに出る必要があった。ちょうどこの場所には、魚屋・肉屋・カシワ屋(鶏肉専門)・干物(かんぶつ)屋・八百屋がひしめいていたわけだ。

 当時の店は、平台に商品を並べ、店員が景気の良い声を弾ませ接客、商品台の上には天井から籠がゴムで吊り下げられており、これが売上金や釣銭が入れられた「レジストリ」だったわけである。そんな時に、店の出入り口にレジをもうけてセルフショッピングを導入した店が登場した。「丸善菓子店」という数店を経営する店だったと思うが、いわばスーパーのハシリので、扱う菓子も安いのがウリだった。

 そんな時期に、大宮六間の大きめの八百屋だった「カミトモ」が3階建てのビルを建て、一階はカミトモの八百屋店舗、2・3階を「スーパー・ニチイ(のちにイオンに吸収)」をテナントとして導入した。これが初めて知った大手チェーンストアだったが、野菜以外の食品中心で、衣類はファッションとは無縁のオバチャンパンツなどをちょこっと並べている程度だったw

 そのころの懐かしい店を思いつくままに並べてみると、肉屋の池尾・勝山、当時の精肉店は、牛肉が主で豚肉も扱うという形で、鶏肉はカシワ屋が専門に扱っていた。精肉店の店頭では、大きな天ぷら鍋でミンチ肉をたっぷり入れた芋コロッケを揚げており、これが実にうまく、子供たちのオヤツとなった。

 当時は外食はめったにせず、商店街にあったのはうどん屋程度で、キクヤというのがあった。そのころテレビジョンが普及を始めたとこで、これらのうどん屋が客寄せにいち早くテレビを導入、それが見たくてうどんを食いに行くという時代だった。

 ほかには、いまではネットで有名になったようだが「サカイ」という中華屋があり、ここのレーメン(冷やし中華)はクラシックな調理法を守っており、話題になっているようだ。ちなみにここの息子が中学の同級生だったので、店主になっていたはず。

 その後、高校生大学生となるにつれて新大宮商店街とも縁が薄くなっていったが、いくつかの転換点があったと思う。昭和40年代初め、北山通の加茂川以東が再開発され、堀川北山にあった市バスの上堀川車庫が西賀茂車庫に統合されることになった。その時、空き地に大手スーパーが出店する計画があったが、新大宮商店街が猛反対をしてつぶしてしまった。むしろ基点ショップとなる大手スーパーを誘致すべきではなかったのだろうか。

 また、新大宮はアーケード街にするには幅が広すぎ、しかも車の通行が買い物の邪魔になると考えられた。そこで、車止めを作り時限の一方通行を導入して、買い物をしやすい商店街を目指した。それが逆に、買い物客を遠ざけるということになったのではないか。もちろん、毎日の食材目的が主だった新大宮商店街の特性や、モータリゼーションの進展が郊外に客を向かわせたことなど、必然的な制約もあったのではあろう。ひそかに、新大宮商店街の復興を期待してはいるのだが。

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