京都回想記【07.小学校時代】
小学校入学式の記念写真。表て道りに面した50mぐらいの近所に、これだけ同期生がいた、実は入院中で写ってないのがもう一人いるので、全部で5人になる。母が40歳の時の子なので、この中でうちの母親がいちばん歳をとっている。参観日など、できれば来てほしくないと、けしからぬ事を思ったものだ。
クラスは50人ほどで、すし詰めの教室だった。各クラスには数名の在日朝鮮人の子供が居た。本籍名だったり、日本名を名乗ってたりいろいろだったが、それとなくみんな分っていた。大人たちの差別意識は隠然とあり、それが不可抗力的に子供たちにも埋め込まれていた。しかし、露骨に差別したという意識も無い。なんとなく触れてはいけないという空気を感じていたのだと思われる。
当時の北朝鮮は大躍進し地上の天国と喧伝され、一方の韓国はといえば、親米傀儡政権のもとで惨憺たるありさまであった。北朝鮮への帰還事業というのが積極的に推進され、多くの同級生が母国へ帰って行った。その後の苦難が想像されて痛ましい思いである。
校舎には、上履きに履き替えて入る。休み時間になると、裸足で運動場に出て、元気に走り回った。ドッジボールなども人気があったが、男の子は土俵を描いて相撲をよくした。短足で腰が強かったせいか、相撲は強く、学年上の大柄な子供なども投げ飛ばしていた。女の子は縄跳び、ゴム飛びなどをしていたが、男女が一緒に遊ぶことはなかった。
三年生になる時、担任が換わった。朝礼で新規に転任してきた先生がたの紹介があり、すきっとしたスーツに身を固めた若い女の先生が際立ってみえた。その先生になると良いなと思ってたら、そのまま担任になった。始業式が終って家に帰っていると、その先生が早速うちの家までやってきた。まだ何も悪いことやってないぞと、何事かと思ったが、実は遠縁にあたる親戚だそうだ。このことはクラスでは言わないようにと指示されて、そのことは一年間守った。
えこ贔屓と思われたくなかったのだろう、むしろきつめに叱られたりした。とはいえ、やはりお互いに居心地が悪く、先生は転任希望を出して、一年で地元近くの学校に移って行った。
*December 14, 2016 三年生の時の担任T先生が亡くなったと、先ほど兄から連絡があった。享年92、合掌。
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