京都ゆかりの人物伝【01.桓武天皇と平安京】(737~806)
「桓武天皇」(かんむてんのう)は、山城の地に「平安京」を定め、千年の都京都の端緒を開いた天皇として、切っても切れない縁がある。ただし、いきなり平安京に遷都したわけではなく、784年に平城京(奈良)から長岡京(京都府向日市)に移転させたが、さらにわずか10年の後の794年に都を平安京(京都)に移した。
平城京の時代は、持統・元明の女帝を除くと、壬申の乱によって王権を握った天武系皇の皇統が続いた。女帝の称徳天皇は子供を産まなかったため、その隙間をついて道鏡が皇位を望むなど政治が乱れ、そこで天武の嫡流が途絶えた。止むを得ず天智系で60歳を超えていた光仁天皇(白壁王)が即位し、まったく立太子の可能性のなかったその子の桓武天皇(山部王)にも、天皇を受け継ぐ偶然がやってきた。
光仁天皇の崩御により桓武天皇が即位するが、当時の平城京には天武系の勢力が強く、また、東大寺・興福寺など南都七大寺と呼ばれた寺院勢力も強大で、後ろ盾のない桓武天皇はその勢力圏外に都を移そうと考えた。そして延暦3(784)年、当時未開の山城国乙訓(おとくに)郡に、「長岡京」を造営して遷都する。
しかし遷都の翌年に、長岡京造営の責任者 藤原種継が何者かに暗殺された。犯行首謀者の中に皇太弟「早良親王」も連座するとされ、冤罪とするも配流され途上で悶死する。親王の死後、桓武天皇の近親に変事が重なり、さらに飢饉・疫病の大流行や河川の氾濫などの凶事が続いた。
桓武天皇はこれが早良親王の怨霊の祟りとして怖れおののき、長岡京遷都からわずか10年後の延暦13(794)年、長岡京の北東の山背国葛野(かどの)郡および愛宕(おたぎ)郡の地に再遷都する。桓武天皇は現在の京都市東山区にある「将軍塚」から見渡して、新たな都に相応しいとして定めたとされるのが「平安京」である。
桓武天皇は渡来人の血をひく高野新笠を母とし、早くから山城の地に地盤を持つ渡来人 秦氏の協力を仰ぎ、一方で藤原式家良継の娘 藤原乙牟漏を皇后とし、同じ藤原式家の藤原百川らを重用しながら、二度に及んだ遷都を推進したと思われる。
桓武天皇は平城京で即位すると、律令政治再建を目指し、班田収授の励行・勘解由使の設置といった改良を加え、また律令制で農民に一律に課された兵役は負担が大きく、それを郡司の子弟や武芸に秀でたものを選抜した「健児の制」に改めた。そして、唐の都 長安にならった条坊制に基づいて、平城京や長岡京よりさらに広大な平安京を造営し、新たな律令制を目指した。
さらに、奈良での寺院勢力を排除するために、平安京では原則的に新規寺院の建立を認めず、唐から持ち帰った最澄や空海の説く新仏教を保護した。また、健児制で地方の軍政を整備し、坂上田村麻呂を「征夷大将軍」に任命し、東北の蝦夷平定を行い、奥羽地方を中央政府の支配下に納めた。
しかし悶死した早良親王に代わって皇太子となった安殿親王は、決して父親桓武と良好な関係とは言えず、妃の母であった「藤原薬子」を寵愛し、桓武から薬子の追放を命じられるなどその怒りをかった。そして桓武天皇崩御のあと践祚し「平城天皇」となったが、なおも天皇の寵愛を受ける薬子は兄の藤原仲成とともに、政治に介入するなど専横を極めた。
平城天皇は病弱のため、在位僅か3年で皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、平城上皇は薬子とともに旧都平城京に移り住んだ。しかも、仲成・薬子兄妹の強い要請を受けて、平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った。
しかし嵯峨天皇側は機先を制し、薬子の官位を剥奪、兄の仲成を捕縛した。平城上皇は、挙兵し薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻った。平城上皇は直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。これは「薬子の変」呼ばれたが、近年では「平城太上天皇の変」という表現もなされる。
このように、桓武天皇が目指した平安京での律令制はその死後も安定せず、嵯峨天皇以降に少しづつ安定してゆくが、一方で、藤原冬嗣以下の藤原北家が台頭し、天皇が治める律令制から、藤原氏の摂関政治へと移行してゆく。
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