2021年5月28日金曜日

#京の生活もろもろ#【05.京都人の「排他性」と「いけず」】

京の生活もろもろ【05.京都人の「いけず」と「排他性」】


 「いけず」という言葉は、京都人の専売特許のように言われているが、実際には京都や大阪の方言とされ、関西を中心に幅広い地域で使われている。その意味は「意地が悪いこと。また、そういう人や、そのさま」とされる。それから転じて「悪人、ならず者」という意味もあるとされるが、いまではほぼ使われない。

 「京都人はいけずか?」というのは、問いの立て方が正しくないだろう。どこにも「いけず」な人物は一定の割合で居るだろうし、それは京都でも同じである。ただし「京都人はいけず」というイメージは定着しているし、そう思わせるような文化的状況は存在する。

 その一つは、前述したような京言葉の二重的な表現で、その裏のニュアンスを理解できない「よそ者」には、明らかに「いけず」だと思われるであろう。しかしその表現者は、同じ京都人にも同様の表現をするだろうし、その場合に意図的な悪意などは無い。つまり、受け取る側の誤解に基づく「いけず」もあると想像される。

 もう一つ、京都に固有の「排他性」から来るものもあるだろう。京都の街は三方を山に囲まれた盆地で、古くは豊臣秀吉が御土居で街を囲い、「洛中」の枠組が出来上がっている。つまり、京都は「内と外」の区別が物理的にも明瞭で、これは京都ほどの大きな都市では珍しい。

 その上に、何よりも千年以上も都であったことで、政治以上に精神文化の中心を占めてきたわけで、そのことから来る住民の特別意識はやはり強いであろう。それは自分たちの文化を守ろうとする意識が強いとともに、その文化にそぐわないと思われるものを見下げて排除的に振る舞うこともあるだろう。

 それらのことから「京都人のいけず」という話題が発生する。当然ながら、「いけず」と思われる現象もよくある。京都外から転校してきた生徒では、明らかにいじわると見えるイジメがあるだろうし、それはやる側は遊び半分でしていても、された転校生徒は、誰にも言えない差別を強く感じるはずである。

 いずれにしても、無意識な習慣からやっている行為でも、外からやって来た人には、意図的な「いけず」で、京都人が一体となって自分を排除しようとしていると感じることは、往々にして有り得ることであり、そのことはより強調して伝えられ行くと考えられる。つまり京都人の意図や性格とはまったく別に、外部から来た人には「いけず」と受けとられる場面が多いということである。

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