2021年5月5日水曜日

#京都・文学散策#【05.芥川龍之介 「芋粥」粟田口】

京都・文学散策【05.芥川龍之介 「芋粥」粟田口】


 それから、四五日たつた日の午前、加茂川の河原に沿つて、粟田口(あはたぐち)へ通ふ街道を、静に馬を進めてゆく二人の男があつた。一人は濃い縹(はなだ)の狩衣に同じ色の袴をして、打出の太刀を佩いた「鬚黒く鬢(びん)ぐきよき」男である。

 もう一人は、みすぼらしい青にびの水干に、薄綿の衣を二つばかり重ねて着た、四十恰好の侍で、これは、帯のむすび方のだらしのない容子と云ひ、赤鼻でしかも穴のあたりが、洟にぬれてゐる様子と云ひ、身のまはり万端のみすぼらしい事おびただしい。

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 豊臣秀吉が、当時の京の街を「御土居」と呼ばれる土塁で囲った。平安京は、唐の都にならって造営されたが、西半分は「長安」、東半分は「洛陽」に擬したとされる。西ノ京の地域は早くから寂びれ、秀吉の時代には、東の洛陽部分が都市として栄えていた。そして御土居で囲われた都市部を「洛中」、その外側を「洛外」と呼ぶようになった。

 御土居には「京の七口」ないし「九口」と呼ばれる、洛外への出入り口が設けられ、そこから各地への街道がのびていた。「粟田口」はそれより以前から、東国に至る街道(のちの東海道)の出入り口として、最も重要な関の一つであったと考えられる。

 拠点は鴨川に架かる三条大橋(秀吉が本格的な橋を造ったとされる)で、橋を渡って東に向かい蹴上の峠に至る地域が「粟田口」と呼ばれた。三条の河原や粟田口などには刑場があり、都を出たばかりとはいえ、もの寂しくおどろおどろしい道が延びるだけの荒地であったと想像される。

 「芋粥」は「鼻」とともに、芥川龍之介の初期の秀作であり、デビュー作の「羅生門」よりも優れている。これらは今昔物語などの中世の説話集などから題材を取り、芥川が独自の創作を加えたものである。とくに「芋粥」と「鼻」は、それぞれゴーゴリの「外套」「鼻」から主題を借用したと考えられる。

 「芋粥」の場合、主人公の五位が、長年の願望であった鍋一杯の芋粥を目の前にして、急に食欲がなくなるという、願望の達成と希望の喪失という不安定な人間心理を描いたとされる。「羅生門」や「鼻」でも同様に、簡単に移ろってゆく人間心理をテーマにしているが、これらは人間の深層意識に着目すれば、一貫した意識の働きに過ぎない。

 芋粥を腹いっぱい食べたいという五位の願望は、みすぼらしく惨めな自らの境遇から目をそらすために抱き続けてきた願望に過ぎず、それが叶えられてしまうと意味を持たなくなるもので、五位の食欲を失せさせるのも当然のことでしかない。同様に、「羅生門」の老婆を眼にして盗賊に豹変してしまう下人や、「鼻」で禅智内供の鼻が元に戻るのを心よしとしない周囲の「傍観者の利己主義」も、深層的エゴの一貫した働きに過ぎない。

 「芋粥」や「鼻」の真髄は、漱石が「鼻」で「自然其儘の可笑味」と表現したユーモアでありペーソスにあるのであって、若い芥川が勘違いしていた、移ろいやすいエゴの心理主義的分析など必要ではなかったのである。

(追補)
 この洛外には刑場がいっぱいあった。粟田口だけでなく、「蹴上(けあげ)」から山科方面に上って行く先の「九条山」にもあり、嫌がる罪人を蹴り上げながら刑場に上って行ったので地名がケアゲとなったり、ひどいのは刑で斬り落とされた首を蹴り上げたのでケアゲだとか言われたという説がある。

 九条山の峠を越えて山科に入ったあたりの「日ノ岡」には「ホッパラ町」という土地があり、処刑された罪人の遺体を、そのあたりの野原に放りっぱなしにしたから「放り原」、つまりホッパラ町だとか、何ともひどい話だ。

 さらに一駅先に行くと天智天皇の陵があり、「御陵(みささき)」と呼ばれる。ここには「御陵血洗町」という地名があり、源義経が平家の兵の首を落して、刀の血を洗ったという逸話からだとされる。

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