京の生活もろもろ【01.西陣と織屋建て町屋】
加茂川に沿って加茂街道を北大路から少し下がったあたりから、西に向けて堀川鞍馬口まで、紫明通りという広い道路が走っている。これは白川疎水が加茂川を越えて、堀川にまで流れ込んでいた名残りで、それが埋められた跡のため曲がりくねっている。しかも戦争中に強制疎開で拡幅されたので、現在のように、やたら幅が広いが曲がりくねって短く、都市道路としてあまり意味のない道路となっている。
昭和の初めまで、祖父母と母はこの近くに住んでいて、疎水が近くだったと聞いたことがある。そこに父親が養子として入って、やがて北区(当時は上京区)紫竹に家を建てて移った。その頃、西陣の織物業は活況で、旧西陣地区は満杯状態、そこで市が北大路通りを整備して、そこから今の北山通りまでの地区を区画整理して宅地化した。その一角に西陣からの移転を積極的に推奨し、市が住宅資金の融資などをした。
この時、市の融資を受けて建てた家が、私の育った実家である。図にあるような典型的な「うなぎの寝床」と呼ばれる町屋造りであるが、坪庭の奥にさらに織物用の仕事場(工場/こうば)が別棟で建っている。そういう別棟付きの織屋建(おりやだて)でないと、融資の基準を満たさなかったそうだ。
戦後すぐに生まれて30歳まで、ずっとこの実家ですごした。隣近所もほぼ同じ造りなので、特に「京町屋」という言葉は意識しなかった。昭和40年ごろ、経済成長にともない伝統的な家屋がどんどん建て替えられていくので、その保存を意識して京町家という言葉が使われ出したようだ。
通常、町屋というと商家建町屋のことをいい、玄関先に土間とともに板間の「店の間」があって、接客できるようになっている。一方で、織屋建の場合は畳敷きの客間であることが多い。その分、奥の間の一部に織物をする機屋(はたや)があったり、別棟が複数の機屋をしつらえた仕事場だったりして、職住一体住居となっている。
場所的には、いわゆる西陣地区より少し北になるが、市が推奨して西陣の織物業を移転させたので、実家のある地区はほとんどが織物にたずさわっている。その多くが賃機(ちんばた)といって、親方から発注された帯を織り上げて、1本いくらという手間賃をもらうという織物職人だった。
昭和30年代半ば迄は、人力でギッコンバッタンと織る手機(てばた)だったが、その後、動力織機が導入されて、軒並みガシャガシャと大きな音をたてて織物を織る街と変わった。すると、それまで3日に1本織り上げていたものが、機械織りで1日に1本織り上るようになった。
当然、1本当りの手間賃は下げられるので、各家では生活のために夜なべ仕事でよりたくさん織るようになる。すでに着物文化が失われて、西陣の帯産業は慢性的な不況業界となっていた。織元の親方は、売れない帯の山を抱えて次々に倒産してゆく世界であった。私自身もそんな賃機家業を継ぐ余地など無く、織物仕事のことはほとんど関心をもたないで育った。
子供の時期、実家には物置、路地、裏庭、工場(こうば)など、いっぱい冒険の場があった。中高生時代には、物置で江戸川乱歩全集などを見つけて、密かに隠れて読んだ。乱歩によく出てくる怪しげな西洋館とまでは行かないが、秘密の場所がいくつもあって、臨場感満杯で夢中になって読んだ。
女の子が居なかったので雛人形は無かったが、毎年端午の節句になると、お爺ちゃんが「大将さん人形(五月人形)」を飾ってくれた。二階の押し入れに、まるで甲冑でも仕舞ってあるような大きな長持があって、その中に丁寧に紙でくるんでしまってある。それを、一階奥座敷の床の間に飾る。一番上段は甲冑を纏った武将、その他、桃から生れる桃太郎とか、熊と相撲を取る金太郎、槍で虎退治する加藤清正など、雛人形とは違って、男の子が強く元気に育ちそうなものなら何でもありだった。
その祖父も、私が小学校二年生の時に88歳で亡くなった。風邪で数日寝込んでいて、学校から帰ると亡くなっていた。家族で亡くなったのは初めての経験で、怖くてチラッとしか死に顔を見なかったが、老衰ということだった。祖母は九十歳を越えて長生きした。うちの家族は長生きの家系のようである。
30歳になる頃、所帯を持って家を出た。兄が実家の所帯を引き継いだので、すでに建てられてから半世紀以上になった家は、建て替えることになった。それでも私の記憶には、30年過ごしたかつての実家の隅々までが、浮かび上がる。
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