2021年5月8日土曜日

#京の食べ物探索#【02.紫野今宮神社「あぶり餅」】

京の食べ物探索【02.紫野今宮神社「あぶり餅」】



 京都今宮神社門前では、数百年を越す二軒の「あぶり餅屋」が、向かい合わせで競っている。これまで幾度か触れたことがあるのだが、正面から取り上げたことがなかった。上賀茂神社「やき餅」を取り上げた機会に、こちらもまとめておこう。

 東門に向かって、右側が創業千年を超えるという「元祖 一文字屋和輔(一和)」、左側には創業四百年以上になるという「本家 かざりや」があり、参詣客が近づくと両店から声が掛かってくる。創業年がどこまで正しいのかは不明だが、京都老舗番付なるものでは、一和が東横綱、かざりやも中堅どころに掲載されている。

 紫野の現在地には平安遷都以前から疫神スサノオを祀る社があったとされるが、遷都後の平安京でたびたび疫病が流行り、それを鎮めるための「御霊会」が営まれた。民衆主導で行われたこの「紫野御霊会」が「今宮祭」の起源とされ、長保3(1001)年の疫病流行のとき、本格的に神殿や神輿が造られ「今宮社」と名付けられたという。

 「今宮祭」は毎年5月に、神幸祭(5月5日)・還幸祭(5月15日付近の日曜日)を中心に諸祭事が営まれ、この間、神輿は1キロほど離れた「御旅所」に出張することになる。普段は閑散としている御旅所が、この期間だけは出店や出し物で賑わう。

 
 「やすらい祭」は4月10日(現在は第2日曜日)に行われ、赤鬼黒鬼に扮した小中学生たちが鐘と太鼓に合わせて、「やすらえ花よ!」との掛け声とともに跳ね踊る民間祭りで、京都の三大奇祭にひとつに数えられている。今宮祭同様に、御霊会を起源とする近隣村落の祭りである。
 
 「あぶり餅」は、祭事で用いられた竹や供え餅を、厄除けとして参拝者に提供したのが始まりとされる。親指大にちぎった餅にきな粉をまぶし、竹串に刺したものを備長炭であぶって、白味噌の甘いたれをかけたものが、一人前十数本が皿に乗せて、土瓶の渋茶とともに供される。

 開け放たれた店先で焼くため、香ばしい香りが周りにただよい、参詣客が引き寄せられる。両店で、たれの味に微妙な違いがあると言われるが、餅の数や代金は同じで(ともに水曜定休)、皿や土瓶・湯呑の形や柄で区別されており、土産用包装紙も一見して分かるように異なっている。

 自分は半世紀以上前、今宮神社のすぐ近くにある公立高校の生徒だったので、あぶり餅屋の常連だった。ほぼ毎日、授業をサボって仲間とあぶり餅にたむろしていて、授業に出ている時間より長いぐらいだった。

 なぜか学年ごとに集まる店が異なっており、われわれの学年は順番から「かざりや」だった。向かいの「一和」には一年上級が居座っていて、それなりに対抗意識が強く、百年前の勤王志士と新選組のごとく対峙していたのであった(笑)

 あるとき、いつものように座敷に上がり込んで花札などして遊んでいるとき、表では映画の撮影が始められた。市川雷蔵の「眠狂四郎」の撮影で、あぶり餅屋の店構えは江戸時代の茶店そのもので、時代劇に最適のロケ場として利用されていたのだった。

 そんな最中に、仲間のヤクザっぽい顔つきのひとりが、仕切り襖をあけて「おば、ちゃんお茶」とやったところ、撮影カメラが正面からその顔を捉えていた。それこそヤクザまがいの撮影スタッフに、われわれが怒鳴り散らされたのは言うまでもない。

 北大路通りから今宮門前通りを北に向かって突き当たると、立派な朱塗りの楼門が南に面して聳えたっているが、あぶり餅屋は、東側の入り口から参詣道を西に入ってゆくと地味な東門があり、その手前参道の両側に向かい合わせに営業している。

 境内には本殿のほか、玉の輿社・織姫社など幾つかの末社が祀られている。「玉の輿社」は、織物の街西陣の八百屋の娘「お玉」が見そめられ、三代将軍徳川家光の側室となり、五代将軍となる綱吉を産んで、のちの「桂昌院」となったという話から、「玉の輿に乗る」という諺に因んだとされる。「織姫社」は、もちろん西陣織の祭神として祀られたものである。

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