2021年5月6日木曜日

#京都・文学散策#【09.井原西鶴「好色一代男」 人には見せぬところ/両替町】

京都・文学散策【09.井原西鶴「好色一代男」 人には見せぬところ/両替町】


「人には見せぬところ」
 鼓もすぐれて興なれども、跡より恋の責くればと、そこばかりを明くれうつ程に、後には親の耳にもかしかましく、俄にやめさて、世をわたる男芸とて、両替町に春日屋とて。母かたのゆかりあり。

 此もとへ、かね見習ふためとてつかはし置きけるに、はや、死に一倍、三百目の借り手形、いかに欲の世の中なれば迚とて、かす人もおとなげなし。

 そのころ九才の、五月四日の事ぞかし。あやめ葺きかさぬる、軒のつま、見越の柳しげりて、木下闇の夕間ぐれ。

 みぎりにしのべ竹の人よけに、笹屋島の帷子、女の隠し道具をかけ捨ながら、菖蒲湯をかゝるよしして、中居ぐらいの女房、我より外には松の声もしきかば、壁に耳、見る人はあらしと、ながれはすねの跡をもはぢぬ。

 臍のあたりの、垢かき流し、なおそれよりそこらも、糠袋にみだれて、かきわたる湯玉、油ぎりてなん。

 世乃介、あづま屋の棟にさし懸り、亭の遠眼鏡を取持て、かの女をあからさまに見やりて、わけなき事どもを、見とがめゐるこそおかし。

 与風、女の目にかゝれば、いとはづかしく、声をもたてず、手を合わせて拝めども、なを顔しかめ指さして笑へば、たまりかねて、そこそこにして、塗り下駄をはきもあへず。

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 世之介、九歳の時の話。鼓を打ってばかりいるので、少しは世渡りの職を身に付けさせようと、親はツテを頼って両替町の春日屋に、銭勘定の見習いに出したが、親の財産から倍返しという借金して遊行する始末。そんな中、世之介はあずま屋の棟に上がって、遠眼鏡を取り出して覗き見する。その先の庭には、あられもなく行水をつかう中居風の女の姿。

 『好色一代男』は、世之介七歳から六十歳に至る間の、色事逸話を集めたものとなっている。一年毎の話で、ちょうど五十四章からなる。源氏物語り五十四帖に合わせたもので、源氏のパロディとして書かれたのは明らかだ。

 現在の京都市中京区には、「両替町通り」というのが残っている。烏丸通りの一筋西側の南北通りで、その名の通り、当時の金融街で、金座銀座などが並んでいたという。世之介に、ちょいとビジネス街で修業して来いと言うわけだが、ここでもひたすら色恋修行に励むという体たらく。

 最終章「床の責め道具」。世之介60歳ともなると、色恋にも飽き、この浮世にも未練はなくなった。遊び仲間を誘って、「好色丸」(よしいろまる、と読むらしいw)なる船を調達し、いざ漕ぎ出でむ。

 舳先にには、あの吉野太夫の形見の緋縮緬腰巻をなびかせ、船床には媚薬、強精剤、枕絵、張り形、その他もろもろの責め道具を取りそろえ、あたかも「大人の玩具店」のごとし(笑)

 門出の酒を酌み交わし、目指すは「女護の島」、つかみ取りの女どもを見せむと申せば、男ども、これぞ男の道ぞと欣喜雀躍、恋の風に任せて船出するも、その行へ知る人も無し。

 井原西鶴は、大坂・難波に町民として生れ、元禄時代に上方中心に活躍した。若い時から俳諧師を志し談林派を代表する俳諧師として名をなし、万句俳諧の興行をするなど、一日にして「矢数俳諧」の創始を名乗るなど、やたら俳諧連歌の数を誇るようなことで名を成した。まあ、ギネスにチャレンジするようなもんだろう。

 そのうち「好色一代男」を書き大当たりすると、それに味をしめて読物作家の道を歩む。「仮名草子」から発展し「浮世草紙」の創始者とされ、以後、好色物以外にも、雑話物や武家物と世界を広げた。ようするに、受けるなら何でも取り込むというスタンス。 

 ウェットな近松に対し、世相を笑い飛ばすようなドライな西鶴には、あっと思うような近代的な感性を見せることもある。出典は忘れたが、遊郭を借り切って遊行を繰り返す若旦那、取り巻き連中が、女郎の着物をはぎ取ったりして酔い騒ぐ中、花魁が密かに隠していた臀部の「白なまず(疥癬菌による皮膚病の一つか)」を見つけ出し、はじらう花魁を無視して騒ぎまくるまわりを見て、ふと世をはかなく思い為し、そのまま出家した、などという話があった。

*映画『好色一代男』昭和36年(大映) 世之助:市川雷蔵 夕霧太夫:若尾文子 お町:中村玉緒

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