郷土史散策【01.あかねさす紫野ゆき・・・】
・茜指す紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王)
・紫の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも(大海人皇子)
万葉集に出てくるこの相聞歌、高校の古文で習って気になっていた。というのも、実家の近くに「紫野」という地名があり、高校にもその名が付いており、校歌には「あかねさす紫野の丘辺」との歌詞がある。その「紫野」は今の京都市北区にあり、今昔物語にも、源頼光の四天王のひとり坂田公時らが、賀茂祭(葵祭)を見るために通った時の失敗談として出てくる。また、応仁の乱で戦場となった「船岡山」もその地に存在する。
これはもうてっきり、このあたりで、こんなロマンティックなやり取りがあったのかと思って、調べてみるとさにあらず。考えてみれば、天智・天武の頃は近江京の時代で、この頃の京都はまだ何も無いド田舎であったはず。つまるところ「蒲生野」とされた土地は、今の滋賀県東近江市あたりで、ここにある「船岡山」には歌碑やレリーフもしつらえられているという。
さはいへ、気になるのは歌の内容。おそらくは天智が主催した御料地での野遊びの場、馬上の大海人が遠くからシグナルを送ってくる。誰かに見られたらどうするの、なんて情景はおだやかではない、すは三角関係か不倫事かと妄想をかきたてられる。
天智・大海人(天武)・額田王の関係は微妙ではあっただろうが、様々な説があり定かではない。しかも、この相聞は、両人がそこそこ歳をとってからの宴席での戯れ歌であろうとも言われている。そうでもなければ、こんなきわどいやり取りが、記録に残るわけもないとも思われる。いずれにせよ、残された歌などから、このようなロマンを想像するのは「歴史」の態度ではなかろうが、かってな妄想を繰り広げてみるのも、楽しいものではある。
天智天皇が崩御したあと、第一皇子 大友皇子が継ぐことになっていたが、天智の弟 大海人皇子との間で争いが生じ(壬申の乱)、大海人が勝って即位する(天武天皇)。額田王は、かつて大海人皇子(天武)に嫁し十市皇女を生んだとされ、一方で天智の寵愛を受けたという説もあるが、万葉の女流歌人としての収録された歌などから類推するしかない。いずれにせよ、大王(天皇)の正妻になる身分ではなかったようである。
〇天智天皇は山科の地で亡くなったとされ、山科「御陵(みささぎ)」に御陵が残されている。
〇『額田王』(新潮文庫/1972/井上靖) https://www.shinchosha.co.jp/book/106319/
〇京都市立紫野高等学校 校歌(在学中、ほとんど歌うことが無くて憶えなかった。参考として書いておく)
あかひらく 朝日は 出でぬ
おほらかに すがしき 姿
あかねさす 紫野の 丘辺
若人ら い寄り集ひて
胸にみつ 燃ゆる のぞみに 面も 輝く
新しき世は この地に 興る
ああ かぐはし 我が まなびや
あかねさす 紫野の 丘辺
若人ら い寄り集ひて
胸にみつ 燃ゆる のぞみに 面も 輝く
新しき世は この地に 興る
ああ かぐはし 我が まなびや
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