2021年11月23日火曜日

#京都雑記#【11.金閣炎上での三島由紀夫と水上勉】

京都雑記【11.金閣炎上での三島由紀夫と水上勉】


 1950年7月2日の未明、国宝の鹿苑寺舎利殿(金閣)から出火、金閣は全焼し、舎利殿に祀られた足利義満の木像など国宝・文化財もともに焼失した。不審火で放火の疑いありと捜索中、同寺徒弟見習い僧侶であり仏教系大学に通う林承賢が、裏山で薬物を飲み自殺を図っているところを発見され逮捕された。


 足利三代将軍義満の創建した鹿苑寺は、その金箔を貼りつめた荘厳な舎利殿から金閣寺として知られている。応仁の乱では西陣側の拠点となり、その多くが焼け落ちたが、江戸時代に舎利殿金閣などが修復再建された。のちに国宝指定されたその時の金閣が、いち学僧の放火によって焼失したのである。


 吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。1956年に、三島由紀夫は『金閣寺』を書く。綿密な取材に基づいた観念小説であり、『仮面の告白』の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であった。


 一方、水上勉は1967年に『五番町夕霧楼』で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした。吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局焼失させるより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」は、西陣の遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子を登場させ、修行僧の唯一の安逸の場をもうけている。


 水上勉が数歳年長とはいえ、三島由紀夫とともに文学的には「戦中派」世代に属する。戦中派とは、昭和初年(1925年)前後に生まれ、十代後半の思春期を戦争さなかに過ごした世代で、自意識が確立する前後の時期に世の中の価値が180度転換してしまったわけで、その心には深い虚無感が刻み込まれている。しかしその後の両者は正反対の展開をみせる。


 高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた『雁の寺』で直木賞を受賞し世に認められた。


 水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは若狭湾沿岸のほぼ同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも『金閣炎上』というドキュメンタリー作で、再度林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。


 ちなみに、この年の11月には国鉄京都駅の駅舎が全焼した。もちろん、ともに2歳になる前後の火災なので直接おぼえているはずもない。しかし、のちの両親の話などから火災があったことは記憶に植え付けられている。この3年後に、のちに在学することになる中学校の校舎が焼けた。ちょうど中学に在学していた近所のお兄さんに手をひかれて、焼け跡を見に行った事は記憶は残っている。たぶん、金閣や京都駅舎の火災も、この時の焼け跡の残像と重ね合わされ記憶に残るようになったのであろう。


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