2022年7月1日金曜日

#京都雑記#【17.總神社】


京都雑記【17.總神社】


 生れ育った北区紫竹の実家近くに「總神社(総神社)」という小さな神社があり、われわれ子供達には恰好の遊び場だった。神社の名称などロクに知らず、たんに「お宮さんで遊ぼ」という感じで、カクレンボやドロッコ(泥棒ゴッコ)であそんだ。遊び相手がいない時も、神社に行くと、メンコやビー玉の取りっこしてる仲間が必ず誰かいた。

 近くには「今宮祭」や「やすらい祭り」で有名な今宮神社があるが、うちの家は、より近くにある小さな「總神社天満宮」の氏子だった。天神様を祀った村の祠が、周囲が宅地化される時に囲いをつけて、やっと神社らしくなった程度の小さな神社だったが、ゆいいつ十月の秋祭りには、子供神輿が周辺を練り歩き、神社境内にはたくさんの出店が出て賑わい、子供たちには年に一度の楽しみだった。

 小学生になる前で神輿を担がせてもらえず、「槍持ち・旗持ち」として行列についてまわっている写真が残っていた。神輿の巡回行列が終ったあとは、近くの銭湯が無料開放され、うち風呂で慣れていたので少し恥ずかしかったが、この時ばかりは銭湯の大きな浴槽でみんなではしゃいだ。

 子供の頃は神社の祭神など関心も持たなかったが、近年になってから、その縁起や祭神を記した立看板が掲示されているようだ。それによると、祭神は天照大神の御子天穂日命・天満大神・八幡大神・源義朝神霊の4柱される。菅原道真が筑紫大宰府へ左遷される際に、叔母が巫女として当社に奉仕しており、別れに立ち寄ったと伝えられ、以来菅原氏が宮守りをしてきたため天満宮とされることになった。

 源義朝が祀られているのは近年まで、まったく知らなかった。実は実家の住所は「牛若町」となっている。源義朝の忘れ形見の牛若丸は、のちに源義経となって平家追討で活躍することになる。そもそも町名の由来は、町内に「牛若丸所縁りの井戸跡」があることに拠るが、しかも二ヵ所もある。
 
「牛若丸誕生井」と「牛若丸産湯の井戸跡」という石碑が、数百メートルほど離れて設置されている。どちらも言い伝えに基づいたものだが、後者は近年、宅地造成で撤去されてしまったらしい。この地域は当時は開けていない洛外であり、この周辺に義朝が別宅を設けて、お妾さんの常盤御前を住まわせていたということは考えられる。古図では、この周辺を「常磐の森」と記しているものもあるという。

 「總神社(総神社)」という社名の謂われも訊くことが無かった。特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(合祀)神社を総社、惣社として、総社宮、総神社、総社神社などとも呼ばれることがあるという。ということで、この周辺に所縁ある御霊をまとめて「總神社」としたのだと思われる。

(追記)2024.02.12
 貴船本社は丑の刻参りネタを書くときに調べたが、そこから分社された深泥池貴船神社・紫竹貴船神社・柊野貴船神社という貴船三社があるらしい。

 紫竹貴船神社は、すっかり忘れていたが、実家の近くにあって、子供の頃、何度も通っているのだった。

http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/57549630.html
https://blog.goo.ne.jp/kiremakuri/e/9f91e450076a60687c1f15a104e7cb23

 これらのリンク先の説明では、大徳寺通(旧大宮通)にそって総神社・紫竹貴船神社・久我神社と連なっており、大徳寺通は旧街道として、さらに上賀茂神社から貴船本社へと通じているということだ。

 子どもの頃「旧大宮通」と呼んでいた馴染みの街道で、これらの神社が一本に結びついてくるのは興味深い。いずれより深く調べてみたいが、とりあえずここにメモしておく。

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