京都近代化を遡る【03.京都近代化策と番組小学校】
明治新政府は1872(明5)年、日本最初の近代的学校制度を定め、身分・性別に区別なく国民皆学を目指す「学制」を発令した。しかし京都では、国家による学校制度の創設に先立って、1969(明2)年に京都の町衆たちを中心にして、「番組小学校」と呼ばれる日本で最初の学区制小学校を創設した。
京都では、応仁の乱など京の街が戦乱の地となることが多く、町民たちには自分たちの生活を守ろうとする自治意識が強かった。江戸時代末には、町組や町代の仕組みも確立し、奉行所に一定の自治権を認められ、「祇園祭」など町衆の祭りを組織的に運営する力をつけていた。
「町組」という住民自治の組織は、明治維新前後には通し番号のついた「番組」と呼ばれる地域に再編された。いまだ明治新政府の組織も定まらない時期に、京の町衆から小学校建設の動きがおこり、元長州藩士の画家 森寛斎や寺子屋経営の西谷良圃などが寺子屋の近代化について話し合い、西谷が町奉行所へ官立の教学所設立の建白を提出したりした。そして、府知事補佐だった槇村正直が、読書・習字・算術の稽古場として、1組に1ヵ所小学校建設を計画した。
京都府が学校建設費を各番組に貸し付ける形で資金を提供し、不足する分は有志による寄付や「かまど銭」と称した町組各家庭からの出金などで、番組小学校の設立にこぎつけた。当時の京都は上京と下京と分かれていたが、その「番組」を元に64校の「番組小学校」が創られていった。番組小学校は単なる教育機関ではなく、町会所であり、役所・保健所・警察・消防・福祉事務所・気象台などとしての役割も担っており、火の見櫓や太鼓場などが併設されていた。
市制施行によって上京と下京が合体して「京都市」となると、1892(明25)年に学区制度を確立した。その後、学区の再編や新小学校の新設などがあり、1941(昭16)年に国民学校に再編されて、学区による小学校の運営が廃止された。戦後の6・3・3・4制になり、小学校の通学区も変化していったが、戦前の学区は「元学区」として地域行政の核となり、住民自治単位として現在も独自の地域の結びつきを残している。
京都市北区紫竹の待鳳小学校は当方の母校であるが、1873(明6)年に東紫竹小学校として開校し、当時の小学校の設立を推進した槙村京都府知事から、「待鳳館」と揮毫された額が贈られ「待鳳小学校」と改称した。明治初めには洛外だったので番組小学校ではないが、その数年後にそれに準じる形で設立されている。当初の「学区」は、その後いくつもの分校に分かれて小さくなっているが、それでも学区単位の結びつきは強く、町別対抗運動会など学区単位での催し事が定期的に開かれている。
また、私の祖母は明治10年代に富山県の郡部に生まれたが、学齢期になって、できたばかりの小学校に通うことになった。ところが通学路の途上には、小学校に通わせてもらえないいたずら小僧が待ち構えていて、毎日、石を投げてくる。親に学校に行きたくないと告げると、あっさり行かなくてよいと言われた。かくして祖母は、めでたく小学校1週間中退となったとか。当時の農家では、学齢期になった子供は立派な働き手であって、親はすすんで小学校には通わせたくなかったということらしい。これもまた、小学校草創期の様子をうかがわせる逸話のひとつかと思われる。