2021年8月27日金曜日

#京都近代化を遡る#【03.京都近代化策と番組小学校】

京都近代化を遡る【03.京都近代化策と番組小学校】


 明治新政府は1872(明5)年、日本最初の近代的学校制度を定め、身分・性別に区別なく国民皆学を目指す「学制」を発令した。しかし京都では、国家による学校制度の創設に先立って、1969(明2)年に京都の町衆たちを中心にして、「番組小学校」と呼ばれる日本で最初の学区制小学校を創設した。

 京都では、応仁の乱など京の街が戦乱の地となることが多く、町民たちには自分たちの生活を守ろうとする自治意識が強かった。江戸時代末には、町組や町代の仕組みも確立し、奉行所に一定の自治権を認められ、「祇園祭」など町衆の祭りを組織的に運営する力をつけていた。

 「町組」という住民自治の組織は、明治維新前後には通し番号のついた「番組」と呼ばれる地域に再編された。いまだ明治新政府の組織も定まらない時期に、京の町衆から小学校建設の動きがおこり、元長州藩士の画家 森寛斎や寺子屋経営の西谷良圃などが寺子屋の近代化について話し合い、西谷が町奉行所へ官立の教学所設立の建白を提出したりした。そして、府知事補佐だった槇村正直が、読書・習字・算術の稽古場として、1組に1ヵ所小学校建設を計画した。

 京都府が学校建設費を各番組に貸し付ける形で資金を提供し、不足する分は有志による寄付や「かまど銭」と称した町組各家庭からの出金などで、番組小学校の設立にこぎつけた。当時の京都は上京と下京と分かれていたが、その「番組」を元に64校の「番組小学校」が創られていった。番組小学校は単なる教育機関ではなく、町会所であり、役所・保健所・警察・消防・福祉事務所・気象台などとしての役割も担っており、火の見櫓や太鼓場などが併設されていた。

 市制施行によって上京と下京が合体して「京都市」となると、1892(明25)年に学区制度を確立した。その後、学区の再編や新小学校の新設などがあり、1941(昭16)年に国民学校に再編されて、学区による小学校の運営が廃止された。戦後の6・3・3・4制になり、小学校の通学区も変化していったが、戦前の学区は「元学区」として地域行政の核となり、住民自治単位として現在も独自の地域の結びつきを残している。

 京都市北区紫竹の待鳳小学校は当方の母校であるが、1873(明6)年に東紫竹小学校として開校し、当時の小学校の設立を推進した槙村京都府知事から、「待鳳館」と揮毫された額が贈られ「待鳳小学校」と改称した。明治初めには洛外だったので番組小学校ではないが、その数年後にそれに準じる形で設立されている。当初の「学区」は、その後いくつもの分校に分かれて小さくなっているが、それでも学区単位の結びつきは強く、町別対抗運動会など学区単位での催し事が定期的に開かれている。

 また、私の祖母は明治10年代に富山県の郡部に生まれたが、学齢期になって、できたばかりの小学校に通うことになった。ところが通学路の途上には、小学校に通わせてもらえないいたずら小僧が待ち構えていて、毎日、石を投げてくる。親に学校に行きたくないと告げると、あっさり行かなくてよいと言われた。かくして祖母は、めでたく小学校1週間中退となったとか。当時の農家では、学齢期になった子供は立派な働き手であって、親はすすんで小学校には通わせたくなかったということらしい。これもまた、小学校草創期の様子をうかがわせる逸話のひとつかと思われる。

2021年8月26日木曜日

#京都近代化を遡る#【02.京都近代化策と槇村正直知事】

京都近代化を遡る【02.京都近代策と槇村正直知事】


 京都における第1期勧業政策の中心人物は、2代目京都府知事槇村正直に、京都顧問であった山本覚馬、そして実際の事業を担当した明石博高である。槇村正直は旧長州藩士として、同じく長州出身で明治の三傑とされる木戸孝允に重用され、行政経験に乏しい初代京都府知事 長谷信篤の補佐として、実質的に京都府の政治を仕切ったとされる。

 1875(明8)年、槇村正直が京都府知事に就任すると、会津藩出身の山本覚馬と京都出身の明石博高ら有識者を起用して、果断な実行力で文明開化政策を推進した。山本覚馬は、NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン山本(新島)八重の兄で、眼病で失明したうえ薩摩藩に捕われて幽閉されていたが、その蘭学の素養と見識は周囲を感服させ、槇村府知事のもとで参与として京都振興に慧眼を発揮する。

 明石博高は、京都の医薬商の家に生まれ、化学・薬学などを研究していたが、槇村や山本のすすめで京都府に出仕、彼らと共に京都振興の諸政策を打ち出し、その科学的知見にもとづいて舎密局(洋学応用の拠点)などを拠点に西洋技術導入に大きな寄与をした。

 槇村・山本・明石の3名には、科学技術の導入による勧業政策が不可欠であるという共通認識の下、各種の殖産興業政策を展開した。その資金としては、国の殖産興業資金が「勧業基立金」として府に移管されたことや、遷都にともなって下賜された「産業基立金」10万両などが、京都府における資金的基礎を提供した。

 槇村が行った主な京都近代化政策は、実施順に「小学校の開設」「舎蜜局(せいみきょく)の創設」「京都博覧会の開催」「都をどりの開催」「新京極の造営」「女紅場(にょこうば)の創建」などが挙げられる。

 「舎密局」(蘭語”chemie-化学”に相当する当て字)は、理化学教育と化学工業技術の指導機関として、ドイツ人科学者ワグネルら外人学者を招き、多くの人材を育て京都の近代産業の発達に大きく貢献した。「京都博覧会」は日本で最初の産業博覧会として、京都の有力商人らが中心となって、西本願寺を会場に1ヵ月間開催され、その余興として「都をどり」が催された。「女紅場」は、女子に裁縫・料理・読み書きなどを教えるため設立された日本で最初の女学校で、山本(新島)八重も兄覚馬の推薦により、京都女紅場(後の府立第一高女)に関わっている。

 「新京極」は、かつて広大な寺域を誇った金蓮寺が、困窮して寺域の切り売りをはじめ、明治以前には、その売却地に料亭・飲食店・商店・見世物小屋が散在していた。さらに寺町通近隣の寺院の境内には、縁日がたって人が多く集まっていた。そこで寺町通のすぐ東側に新しく道路を造って、その「新京極通」を中心に各寺院の境内を整理し、やがて見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、現在の繁華街の原型ができた。この地域は、かつての平安京の「東京極(ひがしきょうごく)大路」があった場所で、文字通り「京の東の端」だったが、やがて京都の中心の繁華街となった。

2021年8月16日月曜日

#京都近代化を遡る#【01.東京奠都と京都衰退危機】

京都近代化を遡る【01.東京奠都と京都衰退危機】


 千年の都をほこった京都も、幕末から維新にかけての急激な体制変換に決定的なダメージをうけた。1864年の禁門の変(蛤御門の変)では、落ち延びる長州勢が放った火などで、「どんどん焼け」という大火災で、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。

 その前後にも、京都の街中では攘夷と称するテロルが相次ぎ、これを取り締まるという京都見廻組や新撰組による粛清暗殺事件が頻発した。そして大政奉還と討幕運動の流れのもとで、各地で戊辰戦争が勃発。京都郊外の鳥羽伏見でも、薩長中心の新政府と幕府軍の戦闘が繰り広げられた。

 慶応4年7月17日(1868年9月3日)、江戸が東京と改称され、元号が明治に改められると、京都との東西両京としたうえで、明治2年(1869年)3月28日、2度目の東京行幸として、明治天皇が東京に入り、これ以降、天皇は東京を拠点とし、政府機構も順次、京都から東京に移され、明治4(1871)年にはほぼ東京への首都機能の移転が終わった。

 京都の公卿・政府役人・京都市民などからは東京遷都への反対の声が大きく、東京を首都と定め事実上の首都機能の移転がすすめられたが、京都の廃都の令は出されていないため、遷都ではなく「東京奠都(てんと)」と呼ばれることが多い。

 かくして首都機能の東京移転がすすむと、京都は平安京成立以来の危機に見舞われる。現在の京都御苑と呼ばれる地域には、京都御所(禁裏)を取り巻くように公家の屋敷が建ち並んで一街区を形成していたが、明治になると天皇に従って多くの公家が東京へ移り、公家屋敷はもぬけの殻となり、京都御所周辺は急速に荒廃していった。

 明治10(1877)年、明治天皇が京都を訪れ、周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、京都御所を保存せよとと宮内省に命じた。同様にこの状況を憂慮した岩倉具視は、御所の保存を建議した。これを受けて、京都府は旧公家屋敷の空家の撤去と跡地の整備を始め、御所を囲む火除け地を確保する区画を画定した。これが現在の京都御苑の始まりであった。

 このような京都衰退の危機に、幾つもの京都振興策を打ち出したのが、第2代京都府知事 槇村正直であった。槇村は長州出身で毀誉褒貶が激しい人物であるが、彼が京都復興第1期の推進者であったことは間違いないであろう。

2021年8月1日日曜日

#京都回想記#【17.交友など】

京都回想記【17.交友など】


 森鴎外に『ヰタ・セクスアリス』という自伝的作品がある。自伝といっても、その性的な部分に焦点をあてたもの。"VITA SEXUALIS"はラテン語だそうで「性的生活」とでも訳すのであろうか。その意味を知って期待して手に取ったが、少年期から青年期の淡い思春期の性の目覚めみたいな記述であって、がっかりした覚えがある。いわゆるポーノグラフじゃないので、為念。

 さてこの「日記」もそろそろ種切れ気味で、最後に小学校高学年での交友関係などを書いて、いったん休止したい。中学生以上のこととなると、性の目覚めなど「セクスアリス」風の記述も必要になる。そうなると書き方の手法も、記憶の断片を繋ぐこれまでの方法でなく、別の記述法を考えねばならないので、それは稿を改めることとする。

 写真は小学六年生での伊勢修学旅行で撮られたもの。小学校では伊勢、中学は東京、公立高校では九州というのが、当時のパターンだった。交友といっても小学生ではいわゆる「遊び友達」であり、さほど深い付き合いにはならなかった。その中で一人だけ、その後、深い付き合いをしたのがU君である。

 小学高学年の三年間は同じクラスで、いつも一学期の学級委員に選ばれた、前述の「優等生」がそのU君である。小学校では単に遊び仲間の一人であったし、中学では一度も同級になることは無く、彼が生徒会長になったとか間接に知る程度であった。高校一年生では、私は今でも交流のある終生の友を得たが、U君とは接点も無く、2・3年でやっと同級になった。

 高校では二人とも遊びに熱心で、いわゆる劣等生となっていたが、仲間も遊びの方向も違って、接点をもつことはなかった。何より、クラスで欠席率のトップがU君で、その次が私ということで、学校で顔を合わせる事も稀だった。やがて卒業だが、両人とも見事に受験浪人、そんな同じ境遇で、少し行き来が始まった。

 本格的な付き合いが始まったのは、私が大学に入った夏休みに二度目の鬱病を発症して、京都の自宅でぶらぶら過すことになった時期からである。私は鬱からどう這い出すか、彼は二度目の受験もうまく行かず、親との葛藤も抱えていた。私は禅仏教などの考え方に道を見出そうとしていたが、彼はニーチェなどをかじって、親や社会への反発反抗を徹底するという方向をとった。

 彼から紹介されたのは、吉行淳之介をはじめとする「第三の新人」という小説家グループ、およびニーチェの反抗哲学であった。そんな中で、お互いのそれまでの世の中の常識を一から疑うことから始めて、徹底的に世間に逆らうことを始めた。彼に誘われて共同で手作りの詩集を出したり、個人でも作って、繁華街にへたり込んで売るという浮浪者のまね事もした。私の今の自我の確立は、彼の影響なくしてはあり得なかった。

 記憶に残っているのは、三島由紀夫が自決した日のことだ。そのころ両人とも文学にどっぷりつかっていたが、三島には距離を置いていた。とはいえ、毎年ノーベル文学賞の候補に上げられる作家に無関心ではいられないし、それなりの注目はしていた。自決を知ったのは夕刻に近かかったかもしれない。西日が差し込む我が家の部屋に彼がやってきて、「困ったことになったな」と話し合った。何が困ったか分らなかったが、とにかく「困った」わけで、これは両人だけに通じた会話だった。

 たがいに働くようになってからは、住む地域も異なり、音信が途切れがちになった。あるとき、共通の知人から電話がかかって来た。たまたま彼の家に電話して、彼が亡くなったのを知ったという。葬儀からすでに一週間が過ぎていた。二人で残された奥さんを訪問して、かつての数冊の彼の詩集を持参した。おそらく、そういう若いときの痕跡は残していないであろうという私の推測は正しかった。初めて見たその詩集を、形見としていただいておきます、と奥さんは頭を下げた。