2021年8月16日月曜日

#京都近代化を遡る#【01.東京奠都と京都衰退危機】

京都近代化を遡る【01.東京奠都と京都衰退危機】


 千年の都をほこった京都も、幕末から維新にかけての急激な体制変換に決定的なダメージをうけた。1864年の禁門の変(蛤御門の変)では、落ち延びる長州勢が放った火などで、「どんどん焼け」という大火災で、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。

 その前後にも、京都の街中では攘夷と称するテロルが相次ぎ、これを取り締まるという京都見廻組や新撰組による粛清暗殺事件が頻発した。そして大政奉還と討幕運動の流れのもとで、各地で戊辰戦争が勃発。京都郊外の鳥羽伏見でも、薩長中心の新政府と幕府軍の戦闘が繰り広げられた。

 慶応4年7月17日(1868年9月3日)、江戸が東京と改称され、元号が明治に改められると、京都との東西両京としたうえで、明治2年(1869年)3月28日、2度目の東京行幸として、明治天皇が東京に入り、これ以降、天皇は東京を拠点とし、政府機構も順次、京都から東京に移され、明治4(1871)年にはほぼ東京への首都機能の移転が終わった。

 京都の公卿・政府役人・京都市民などからは東京遷都への反対の声が大きく、東京を首都と定め事実上の首都機能の移転がすすめられたが、京都の廃都の令は出されていないため、遷都ではなく「東京奠都(てんと)」と呼ばれることが多い。

 かくして首都機能の東京移転がすすむと、京都は平安京成立以来の危機に見舞われる。現在の京都御苑と呼ばれる地域には、京都御所(禁裏)を取り巻くように公家の屋敷が建ち並んで一街区を形成していたが、明治になると天皇に従って多くの公家が東京へ移り、公家屋敷はもぬけの殻となり、京都御所周辺は急速に荒廃していった。

 明治10(1877)年、明治天皇が京都を訪れ、周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、京都御所を保存せよとと宮内省に命じた。同様にこの状況を憂慮した岩倉具視は、御所の保存を建議した。これを受けて、京都府は旧公家屋敷の空家の撤去と跡地の整備を始め、御所を囲む火除け地を確保する区画を画定した。これが現在の京都御苑の始まりであった。

 このような京都衰退の危機に、幾つもの京都振興策を打ち出したのが、第2代京都府知事 槇村正直であった。槇村は長州出身で毀誉褒貶が激しい人物であるが、彼が京都復興第1期の推進者であったことは間違いないであろう。

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