京都近代化を遡る【02.京都近代策と槇村正直知事】
京都における第1期勧業政策の中心人物は、2代目京都府知事槇村正直に、京都顧問であった山本覚馬、そして実際の事業を担当した明石博高である。槇村正直は旧長州藩士として、同じく長州出身で明治の三傑とされる木戸孝允に重用され、行政経験に乏しい初代京都府知事 長谷信篤の補佐として、実質的に京都府の政治を仕切ったとされる。
1875(明8)年、槇村正直が京都府知事に就任すると、会津藩出身の山本覚馬と京都出身の明石博高ら有識者を起用して、果断な実行力で文明開化政策を推進した。山本覚馬は、NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン山本(新島)八重の兄で、眼病で失明したうえ薩摩藩に捕われて幽閉されていたが、その蘭学の素養と見識は周囲を感服させ、槇村府知事のもとで参与として京都振興に慧眼を発揮する。
明石博高は、京都の医薬商の家に生まれ、化学・薬学などを研究していたが、槇村や山本のすすめで京都府に出仕、彼らと共に京都振興の諸政策を打ち出し、その科学的知見にもとづいて舎密局(洋学応用の拠点)などを拠点に西洋技術導入に大きな寄与をした。
槇村・山本・明石の3名には、科学技術の導入による勧業政策が不可欠であるという共通認識の下、各種の殖産興業政策を展開した。その資金としては、国の殖産興業資金が「勧業基立金」として府に移管されたことや、遷都にともなって下賜された「産業基立金」10万両などが、京都府における資金的基礎を提供した。
槇村が行った主な京都近代化政策は、実施順に「小学校の開設」「舎蜜局(せいみきょく)の創設」「京都博覧会の開催」「都をどりの開催」「新京極の造営」「女紅場(にょこうば)の創建」などが挙げられる。
「舎密局」(蘭語”chemie-化学”に相当する当て字)は、理化学教育と化学工業技術の指導機関として、ドイツ人科学者ワグネルら外人学者を招き、多くの人材を育て京都の近代産業の発達に大きく貢献した。「京都博覧会」は日本で最初の産業博覧会として、京都の有力商人らが中心となって、西本願寺を会場に1ヵ月間開催され、その余興として「都をどり」が催された。「女紅場」は、女子に裁縫・料理・読み書きなどを教えるため設立された日本で最初の女学校で、山本(新島)八重も兄覚馬の推薦により、京都女紅場(後の府立第一高女)に関わっている。
「新京極」は、かつて広大な寺域を誇った金蓮寺が、困窮して寺域の切り売りをはじめ、明治以前には、その売却地に料亭・飲食店・商店・見世物小屋が散在していた。さらに寺町通近隣の寺院の境内には、縁日がたって人が多く集まっていた。そこで寺町通のすぐ東側に新しく道路を造って、その「新京極通」を中心に各寺院の境内を整理し、やがて見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、現在の繁華街の原型ができた。この地域は、かつての平安京の「東京極(ひがしきょうごく)大路」があった場所で、文字通り「京の東の端」だったが、やがて京都の中心の繁華街となった。
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