京都雑記【15.京都の大火と街並の変遷】
宝永5(1708)年3月8日午の下刻、京都の油小路通三条あたりから出火、南西の風に煽られて被害が拡大し、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上、九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした417ヵ町、10,351軒、佛光寺や下鴨神社などの諸寺社などを焼いた。
江戸時代における京都の三大大火は、1708年の「宝永の大火」、1788年の「天明の大火」、1864年の「元治の大火」が挙げられる。天明の大火は鴨川東側の宮川町団栗辻子から出火したため「団栗(どんぐり)焼け」とも呼ばる。また、元治の大火は禁門(蛤御門)の変によって御所の周辺から出火、御所の西部や南東方面一帯にどんどん焼け広がったため「どんどん焼け」と言われた。
宝永の大火では、火災後「見渡せば京も田舎となりにけり 芦の仮屋の春の夕暮」と書かれた落首が市中に貼られるなど、京都御所とその南部一帯が焼け出された。そのため火災後、一部の町及び民家が鴨川の東などに丸ごと移転され、京都の市街が鴨東(おうとう)地域に拡大されることになった。
当時の京都御所周辺には、公家の屋敷と町屋が混在していたが、焼失した禁裏の周りに公家邸を集中させ、混在していた町屋は鴨東の二条川東に広がる畑地に移転させた。町並み丸ごと移転させたため、この地域には、新丸太町通・新麩屋町通・新富小路通・新東洞院通・新柳馬場通・新堺町通・新高倉通など、新の字を頭につけた通り名がたくさん出来たという。
これらは本来、御所の南側に南北に走る通りの名で(丸太町通のみは東西)、これらの京都の中心街を知る人にとっては、このまったく別場所に出来た新地名をみると驚かされる。
これをきっかけに、洛外で畑地でしかなかった鴨川の東に町屋が広がるようになったらしい。そして大火で焼けた禁裏周辺には、散在していた公家屋敷を集中させたのだが、1864年の「禁門(蛤御門)の変」で、御所の周りが「どんどん焼け」と呼ばれる大火でまる焼けとなってしまった。
そして明治維新で東京遷都となると、帝とともに公家屋敷も東京へ移転して、御所周辺は荒れ放題となった。維新政府の重鎮となった岩倉具視が、その状態を憂え整備を命じた結果、御所周辺が公園化され、いまの京都御苑公園となったのである。