2021年12月7日火曜日

#京都雑記#【12.そこにフォーククルセダーズが流れていた】

京都雑記【12.そこにフォーククルセダーズが流れていた】


◎フォーク・クルセダーズとフォークソングブーム

*1968.2.20/ 大ヒットの「帰って来たヨッパライ」に続く第2弾として、翌2月21発売予定の「イムジン河」が、突如、発売中止される。


 この時期のラジオ局は、「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パックインミュージック」など、各局が個性的なパーソナリティを起用してディスクジョッキー(DJ)番組を競った。この時期、団塊世代がまさに受験期にさしかかり、深夜ラジオを聴きながら机に向った。

 1967(s42)年4月から私もまた受験浪人となっていたが、深夜ラジオに投稿したりするほど熱心な方ではなかった。それでも受験生同士の話題には必須なので、それなりに聞いていた。そんなとき耳に飛び込んできたのが「帰ってきたヨッパライ」で、神戸のローカル局「ラジオ関西」の放送だった。


 こちらは京都なので電波状態がよくなく、主に「ラジオ京都(KBS京都)」に合わせることが多かったが、こちらでは同じくフォーク・クルセダーズの「イムジン河」をよく流していた。そして勉強に飽いた仲間が夜中に窓をつついて、いま何を聴いてるんだとかさぐりに来たりする。みな孤独感と不安を抱きながら、こうやってラジオを共有して安心していたのだった。

 フォーク・クルセダーズは、京都のアマチュアグループとして関西中心に活動していたが、メンバーの都合で解散を決め、その記念に自主制作盤のアルバム「ハレンチ」を制作した。そのアルバムから、関西のラジオ局のパーソナリティがピックアップして来たのが上記の曲だった。


 1967(s42)年末ごろ、大手レコード会社からプロデビューの声が掛かり、「加藤和彦」「北山修」が新たに「はしだのりひこ」を加え、「一年間だけ」という約束で再結成して、大手レーベルから出したシングル盤「帰ってきたヨッパライ」が、いきなりミリオンセラーとなった。

https://www.youtube.com/watch?v=HgW5KUyJarw

 さっそく次の曲をということで、同じく「ハレンチ」から「イムジン河」を取り上げ収録した。すでに13万枚が出荷されていた発売予定日の前日、1968(s43)年2月20日になって、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定する。北朝鮮系の団体からクレームが付けられたのがその理由だった。

https://www.youtube.com/watch?v=-wA4wFqszpY


 そこでまた急きょ別の曲を作れと、音楽出版社の一室に閉じ込められ、加藤和彦がギターをいじっているうちに出来上がったのが「悲しくてやりきれない」で、1968(s43)年3月21日に発売された。TV番組で「イムジン河のコードを逆にたどって出来上がった」と紹介されたこともあったが、加藤和彦自身は、ギターでいろいろ遊んでただけと言っている。

「悲しくてやりきれない」 

https://www.youtube.com/watch?v=jr49g9dvZBY

 フォーク・クルセダーズは、そのあと矢継ぎ早にヒットを連発し、1968(s43)年10月17日、大阪でのさよならコンサートの末、一年という約束通りに解散した。フォークルが日本のフォーク史に残した足跡は大きく、各メンバーはその後も音楽に関わったので、解散後にも大きな影響を及ぼしている。


 なお、一連の日本のフォークブームについては、下記ブログでまとめた。

「日本のフォークブーム」 https://naniuji.hatenablog.com/entry/20180930


(2021.12.07追記)

「悲しくてやりきれない 」ザ・フォーク・クルセダーズ https://www.youtube.com/watch?v=kP4oluZmjzA

 夜中に酒をのんで過去の想いにふけって、この曲を思い出した。1968年春、大学に入学し、4月から神戸の青谷というところに下宿した。三畳ひと間に押し入れのみという部屋だったが、それなりに生活できた。

 入学当初、あれこれ張り切って動き回ったが、やがていわゆる五月病というのにはまり込み、夜になってひとりになるとホームシックな気分に落ち込んだ。下宿のすぐ向かいにある川べりの小公園で、ひとりこの曲を口ずさんでいた。


 受験などバタバタしている時期に、「イムジン河」の発売中止騒ぎがあったが、当時はなぜ中止されたかよく分からなかった。急きょ代わりの曲を作れと、レコード会社に缶詰めにされた加藤和彦が、ギターコードをいじっているうちにできあがったのが「悲しくてやりきれない」だそうだ。

 そのままディレクターが、当時著名の作詞家サトーハチローのもとに走って、詩を付けてもらい出来上がったという。「かな~しくってかな~しくって」と、ひたすら哀切でペシミスティックなリフレインが続き、加藤和彦自身、歌っていてどうかなと思ったそうだが、いざレコードとして発売後ヒットすると、曲に馴染んだ詩だと納得したそうだ。


 実際「雲を眺めて涙ぐむ」などと、理由もない哀しさというのは、口ずさみながらもいささか恥ずかしい気がする。ただ、思春期の悲しみというものは、このように理由もなく孤独感におそわれれるものであり、下宿を始めて2ヵ月ほど過ぎた時期に、ホームシックな感傷におそわれ、この曲にドップリひたったというわけだった(笑)


(2021.12.08追記2)

さらにフォークルついでに、自分の精神的転機の時期に脳裏に刻まれた記憶を記す。

「戦争は知らない / フォーク・クルセダーズ」 https://www.youtube.com/watch?v=79Ld-CdgVeg&list=RD79Ld-CdgVeg&start_radio=1&t=12


 この曲は、寺山修司が作詞して、ラテン歌手坂本スミ子が歌ったが、シングルのB面でまったくヒットしなかった。ところが、同時期にフォーククルセダーズが、グループ解散記念にと自費プレスした「帰って来たヨッパライ」が、ラジオ放送を通じて偶発的に大ヒット。

 一年きりのプロ活動ということで、再結成してプロデビューした加藤・北山・端田の新クルセダーズは、「イムジン河」の発売中止などのアクシデントに見舞われながら、次々とヒットを飛ばした。そんな中で、独自の感性で加藤和彦が掘り起こしてきたのが、この「戦争は知らない」だった。


 本来は寺山修司が、太平洋戦争に出征して戦病死した自分の父親をしのんで書いた詩だが、当時ヴェトナム戦争の最中で、アメリカから反戦歌が幾つも流れてくる状況下で、この歌も反戦フォークとして受け容れられた。露骨な反戦詩ではなく、名前も知らない野に咲く花に託して、父を亡くして20年後にお嫁に行く娘が、父に新たに別れを告げる詩になっていて、歌人寺山独自の抒情が、切なく訴えてくる。

 私自身はこの時期、大学に入学したものの、夏休みの帰省中に二度目の鬱病に落ち込んで下宿は引き払い、10月ごろからやっと学校に通い始めたとたんに学園紛争で大学封鎖、翌春になっても一向に封鎖解除される気配がなかった。仏教思想などに耽って、何とか鬱を克服、漠然と郷愁を感じて、奈良西ノ京などを徘徊していた。

 写真家入江泰吉の「大和路」風景などにある、菜の花畑を通して観る薬師寺の塔の光景など、そっくりの位置を見つけて、下手くそなスケッチをしたりしたものであった。最悪の時期は通り越して、少しづつ光が見えてきたが、これからの方向性も見つけられず、将来に自信が持てない不安定な時期、春の明るい景色の中に、かすかなもの悲しさを感じた心象風景に、この「戦争は知らない」の曲が重なって記憶に埋め込まれている。


『戦争は知らない』 【作詞】寺山修司 【作曲】加藤ヒロシ

野に咲く花の 名前は知らない

だけども野に咲く 花が好き

ぼうしにいっぱい つみゆけば

なぜか涙が 涙が出るの

戦争の日を 何も知らない

だけど私に 父はいない

父を想えば あヽ荒野に


赤い夕陽が 夕陽が沈む

いくさで死んだ 悲しい父さん

私はあなたの 娘です

二十年後の この故郷で

明日お嫁に お嫁に行くの

見ていて下さい はるかな父さん

いわし雲とぶ 空の下

いくさ知らずに 二十才になって

嫁いで母に 母になるの


(2021.12.08追記3)

「風/はしだのりひことシューベルツ」 https://www.youtube.com/watch?v=ugtGClQLUdQ&t=1s


 フォークルが10ヵ月ほどで予定通り解散したが、それに先駆けて端田宣彦は、学生仲間たちと「シューベルツ」というグループを結成し、同じ同志社大学の井上博や越智友嗣と立命館大学の杉田二郎をひきいて、いきなり「風」というヒットを飛ばした。

 さらに「さすらい人の子守唄」などのヒットを飛ばし、頻繁にテレビなどに出演した。なかでも、カウボーイハットにウッドベースを担当する井上博は、端正なあまいマスクで若い女性に大人気だった。その井上が、1年余りの活動で、あっけなく死去してしまう。過労なのか、内臓不全が死因だという。


 この井上博は、実は実家の近くの商店街で、イノハツという屋号のタバコ屋の息子だった。小学校から高校までずっと、二学年上で在籍していたのを憶えている。直接言葉をかわしたおぼえはないが、近くの神社で一緒に遊んだような記憶もある。テレビではライトなどで色白でハンサムに見えていたが、実物の本人はどす黒い顔色をしていて、子供のころから、内臓が悪かったのではないかと思った。


2021年11月23日火曜日

#京都雑記#【11.金閣炎上での三島由紀夫と水上勉】

京都雑記【11.金閣炎上での三島由紀夫と水上勉】


 1950年7月2日の未明、国宝の鹿苑寺舎利殿(金閣)から出火、金閣は全焼し、舎利殿に祀られた足利義満の木像など国宝・文化財もともに焼失した。不審火で放火の疑いありと捜索中、同寺徒弟見習い僧侶であり仏教系大学に通う林承賢が、裏山で薬物を飲み自殺を図っているところを発見され逮捕された。


 足利三代将軍義満の創建した鹿苑寺は、その金箔を貼りつめた荘厳な舎利殿から金閣寺として知られている。応仁の乱では西陣側の拠点となり、その多くが焼け落ちたが、江戸時代に舎利殿金閣などが修復再建された。のちに国宝指定されたその時の金閣が、いち学僧の放火によって焼失したのである。


 吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。1956年に、三島由紀夫は『金閣寺』を書く。綿密な取材に基づいた観念小説であり、『仮面の告白』の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であった。


 一方、水上勉は1967年に『五番町夕霧楼』で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした。吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局焼失させるより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」は、西陣の遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子を登場させ、修行僧の唯一の安逸の場をもうけている。


 水上勉が数歳年長とはいえ、三島由紀夫とともに文学的には「戦中派」世代に属する。戦中派とは、昭和初年(1925年)前後に生まれ、十代後半の思春期を戦争さなかに過ごした世代で、自意識が確立する前後の時期に世の中の価値が180度転換してしまったわけで、その心には深い虚無感が刻み込まれている。しかしその後の両者は正反対の展開をみせる。


 高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた『雁の寺』で直木賞を受賞し世に認められた。


 水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは若狭湾沿岸のほぼ同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも『金閣炎上』というドキュメンタリー作で、再度林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。


 ちなみに、この年の11月には国鉄京都駅の駅舎が全焼した。もちろん、ともに2歳になる前後の火災なので直接おぼえているはずもない。しかし、のちの両親の話などから火災があったことは記憶に植え付けられている。この3年後に、のちに在学することになる中学校の校舎が焼けた。ちょうど中学に在学していた近所のお兄さんに手をひかれて、焼け跡を見に行った事は記憶は残っている。たぶん、金閣や京都駅舎の火災も、この時の焼け跡の残像と重ね合わされ記憶に残るようになったのであろう。


2021年9月9日木曜日

#京都近代化を遡る#【06.平安遷都千百年記念事業】

京都近代化を遡る【06.平安遷都千百年記念事業】


 「平安遷都千百年記念祭」は平安遷都から1100年目を記念し、1895(明28)年、第4回「内国勧業博覧会」と時期を合わせて挙行された。3月には「平安神宮」が完成し、記念祭は10月22日から3日間にわたって挙行された。25日には紀念祭の余興として時代行列が行われ、翌年からは平安神宮の「時代祭」として現在に続いている。

 内国勧業博覧会は、1877(明10)年から東京上野公園で、第1回から第3回まで開催された。そして、平安遷都千百年紀念祭にあわせての強い誘致運動の結果、1895(明28)年の第4回内国勧業博覧会の開催地は京都に決定された。京都市の政財界は総力を挙げて誘致活動を展開し、国務大臣も関与する国家的な行事とされた。

 内国勧業博の開催地は岡崎(現左京区)の地に決定され、まず記念事業として、この地に平安宮朝堂院大極殿と応天門を、実物の8分の5の規模で復元した神殿が造営され、桓武天皇を奉祀する「平安神宮」として3月に完成した。

 記念祭式典は、勧業博開催中の4月に催される予定だったが、諸事情で延期され、10月22日から3日間にわたって挙行された。そして10月25日に行われた時代行列は、翌年以降、平安神宮の「時代祭」として、毎年この時期に開催されるようになり、葵祭・祇園祭とともに京都の三大祭りとされている。

 勧業博の会場となった当時の岡崎は、水田と蕪(かぶら)畑が広がる土地だったが、その地に、工業館・農林館・器械館・水産館・美術館・動物館や各府県の売店飲食店などが建てられた。出品点数17万点、入場者は4月1日から4か月の会期中、113万人をこえる盛況だった。

 大事業となった琵琶湖疎水が開通しており、そこに設置された蹴上発電所で発電される電気を利用し、「京都電気鉄道会社」によって日本最初の市街電車が走り、勧業博開催にあわせて七条停車場(京都駅)と博覧会場が結ばれて、博覧会場への足となった。こうして、博覧会開催は京都の経済・文化の復興と再生に大きな役割を果たしたのである。

 ほかにも、平安遷都千百年紀念祭を行うに際して、平安京をひらいた桓武天皇のゆかりの寺社名勝遺跡保存のための補助が、熊野神社拝殿・坂上田村麻呂の墓・東福寺山門・神泉苑・長岡京遺跡など31件に適用された。

 また記念事業のひとつとして平安京の実測事業がなされ、羅城門の位置が確定され、「羅城門遺址(南区唐橋羅城門町)」の石標がその地に建てられ、大極殿の位置も実測して定められ、「大極殿遺阯(上京区千本丸太町上ル)」の石標が建てられている。

 そして、記念祭や博覧会で海外や全国各地から京都を訪れる観光客のために、京都の寺社は特別拝観を実施し、建物や宝物を一般公開した。これは、「近代観光都市京都」という新しい顔を全国に発信するとともに、廃仏毀釈の波に襲われた寺院仏閣の復活の起点ともなった。

 平安遷都千百年記念祭と第4回内国勧業博覧会の主会場となった岡崎公園は、その後、次々と施設が設置され整備されていく。京都市美術館(京セラ美術館)・京都国立近代美術館・京都会館(ロームシアター京都)・京都市勧業館(みやこめっせ)・岡崎グラウンド・京都府立図書館・京都市動物園など、平安神宮を核に京都の文化・観光・産業施設が集積し、琵琶湖疏水の水路が脇を流れている。

2021年9月6日月曜日

#京都近代化を遡る#【05.京都策第Ⅱ期・京電/京都市電】

京都近代化を遡る【05.京都策第Ⅱ期・京電/京都市電】


 1895(明28)年、民間企業である「京都電気鉄道」により第1期区間が開業し、日本最初の営業用電気鉄道となった。背景には、国内に先駆けて琵琶湖疏水を利用して蹴上水力発電所が建設されたことがあり、その電力の活用に電車が挙げられたのだった。当時は電灯や産業用電力利用もほとんどなく、結果的に京電の路面電車が電力の唯一の使い道となった。

 1895(明28)年2月、京都市南部の伏見から京都駅前付近まで最初の路線が開通し、同年4月、京都駅前から高瀬川沿いを北上、二条で鴨川を渡り東方の岡崎まで延長された。これは京都岡崎公園を会場として第4回内国勧業博覧会が開かれ、その開催にあわせての開業であった。京電は琵琶湖疏水の発電によって電力が供給されたため、発電所の機械故障や琵琶湖の増水などによる停電で、たびたび電車の走行が止まった。

 さらに開業当初は運転技術や設備が未熟で、衝突事故や電圧変動による立往生などもよく発生した。当時は停留所の概念がなく、電車は任意の場所で乗降扱いを行っていたので混乱をまねいた。また、事故を防止するため、先導役の少年が電車の前を走りながら告知していたが、不安定な電圧が突発的に上がって電車が急加速、先導役の少年自身が轢かれるという事故もあったという。

 その後、京都市による路線建設も進められ、競合する京都電気鉄道は、均一運賃制への移行のためもあって、1918(大7)年に市に買収され「京都市電」に統合された。京都市の路面電車は、琵琶湖疎水の水力発電によって供給される潤沢な電力を基にして始められたが、それに重ね、京都の計画的に建設された碁盤の目状の主要道路が電車の運行に都合が良かったことや、人口が多く観光客も多く見込めることなどがあった。さらには、首都東京移転による危機感と市民の進取の風潮が大きく働いたうえに、1895(明28)年の平安遷都1100周年を記念して、内国勧業博覧会が催される事になったことも、追い風となった。

 京都市が京電を買収し競合区間の路線が統一され、大正中期から昭和初期までは市電の第一期黄金時代となった。路線は戦後に至るまで延長され乗客も増大、1963(昭38)年)には一日平均50万人を超える利用となった。しかし昭和30年代の後半からモータリゼーションが進み、さらに市電と競合する市バスや会社バスが増加すると、市電はむしろ主要道路を占有する邪魔者とされるようになってきた。

 1969(昭44)年)、当時の革新系市長により京都市の新たな交通計画が策定され、「十文字の地下鉄路線とそれを補完するバス路線網」が決定され、財政再建の名目で市電路線の撤廃が始められた。1976(昭51)年に全面撤去へと計画が変更され、1978(昭53)年には全面廃止された。なお、地下鉄路線網は当初計画から40年以上が経過した現在も未完部分を残したままで、京都市財政は破綻の危機に面している。その主要原因は、地下鉄建設の膨大な費用負担だといわれている。

 京電時代に「伏見ー京都駅間」(伏見線)や「京都駅ー北野間」(堀川線)など幾つもの路線が敷設されたが、走る電車はいわゆる狭軌(Narrow gauge)用であり、のちに京都市電と統合されたとき、京都市電の広い軌道を走る車体と区別するため「N電」と呼ばれたという。一般に路面電車をチンチン電車の愛称で呼ぶことが多いようだが、京都ではもっぱら狭軌を走るマッチ箱のようなN電のことを、「チンチン電車」と呼んでいた。

 市営化後、堀川線は1961(昭36)年8月1日に廃止され、その他のN電も順次廃止されたが、私はこのころ中学生になったばかりで、東堀川通りを走るチンチン電車を、堀川通りを並走する市バスの窓から眺めた記憶があるが、結局、一度も乗ることがなかった。チンチン電車が廃止になる当日には、記念して造花で飾られた「花電車」が走ったという。

2021年9月5日日曜日

#京都近代化を遡る#【04.京都策第Ⅱ期・琵琶湖疏水建設】

京都近代化を遡る【04.京都策第Ⅱ期・琵琶湖疏水建設】


 京都近代化復興策は「京都策」と呼ばれ、その第1期は2代目府知事「槇村正直」らによって、新産業の奨励や人材育成策として展開されそれなりの成果を収めた。槇村が中央政界に転出したあと、3代目府知事「北垣国道」に代わった1881(明14)年ごろから、なんとか活気を取り戻した京都では、近代的なインフラの整備が必要となってきた。そこで、「第2期京都策」として「琵琶湖疎水(京都疎水)」の大事業が着手されることになった。

 北垣国道は但馬の国の郷士の家に生まれ、幕末の動乱期には生野義挙と呼ばれる尊皇討幕の挙兵を行うなどで、勤王派との親交を強めた。維新後は官軍の一員として戊辰戦争に参加し、そこで功を挙げて認められると、明治新政府の官僚として、高知県令などを経て京都府知事に赴任した。強引な手法によって府民の反発も多かった槇村知事の後任として、北垣知事は好意をもって迎えられた。

 着任した北垣は、手詰まり状態となっていた槇村の京都振興策の見直しに取りかかり、舎密局や織物・染物振興の諸工場などは、一定の役割を終えたとして民間に払い下げ、並行して、新たな政策の立案を進めた。その重要な一つが、京都~大津間に水路を開削し、琵琶湖の水を運輸・動力・用水として活用する「琵琶湖疏水」建設構想だった。

 琵琶湖疏水は、実現当初、舟運・発電・上水道・灌漑用水など多目的で運用されたが、現在では京都市に上水を供給するのが主たる目的となっている。大津市の取水口から京都市東山区蹴上までの最初の水路を「第一疏水」、次いで掘られた先の水路にほぼ沿う全線暗渠のものを「第二疏水」、南禅寺境内を横切り哲学の道に沿って北上し、高野川・賀茂川を横切って堀川に至るものを「疏水分線」、蹴上から出たあと南禅寺船溜を経て平安神宮の前を流れるものを「鴨東運河」、その水路が夷川ダムを過ぎて一部鴨川に流出しその後鴨川左岸沿いに一部は暗渠となって南下し伏見に至るものを「鴨川運河」と呼ぶ。

 琵琶湖の水利構想は古くからあり、その目的は琵琶湖の東方や北方からの水運利用だった。北垣は、京都で殖産興業を推進するために、琵琶湖の水の活用が必須と考え、安積疏水の工事を実現した南一郎平や測量技師の島田道生の協力の下で、1983(明16)年には「琵琶湖疏水設計書」を完成させた。

 趣意書では、主要目的は「水車動力」の確保と「通船運搬」と「田畑灌漑」となっていた。資金面では、首都の東京遷都の手切れ金「産業基立金」などを主材源と考えていたが、工費見積もりが財源の倍以上となり、住民に目的税として賦課することになり、住民から批判の声が上がった。しかし何とか、1885(明18)年6月、琵琶湖疏水建設の起工式にこぎつけた。

 当時の京都府予算2倍にも相当する膨大な費用が投入されて、着工4年後の1889(明23)年3月に、「第一疏水」と、蹴上から分岐する「疏水分線」とが完成された。これだけの大工事には、当時は外国人お抱え技師に頼るのが一般的であったが、事業の主任技師として北垣知事に登用されたのは、工部大学校(現東京大学)を卒業したばかりの青年技師「田邉朔郎(21)」であった。

 琵琶湖疎水の水力利用は、当初、水車動力として工業団地などで活用予定だったが、田邉らのアメリカ視察で計画は変更され、日本初の営業用水力発電所として「蹴上発電所」が建設されることになった。この時期さほど電力需要はなく、その余剰電力を用いて1895(明28)年には、日本初となる「京都電気鉄道」(京電)の運転が始められた。この偶発的な事業変更が、やがて京都人には、日本最初の水力発電と電気鉄道として誇らしげに語られることになる。

 さらに、二条近くの鴨川合流点から伏見までの「鴨川運河」は、1894年(明27)年に完成した。鴨川運河は鴨川東岸に沿って流れ、今は多くが暗渠化されており、あまり目立たないため、鴨川西岸の木屋町通りを流れる「高瀬川」と混同されることが多いが、こちらは、江戸時代初期に角倉了以によって造られた掘割運河であり、いずれも大阪からの水運の終点としての伏見と、京都をつなぐ船便物流として重要であった。

 1895(明28)年から大正年間(~1926)にかけて、「京都策第3期」として展開されたのが、京都市「三大事業」の「第二琵琶湖疏水(二疏水)」・「上水道整備」・「道路拡築および市電敷設」という近代都市に不可欠のインフラ整備の大プロジェクトだった。第二疏水により取水量は大幅に増大され、日本初の急速濾過式浄水場である蹴上浄水場など、現在も京都市民への良質の水道水を提供している。百年来、京都が水不足に悩まされることがないのは、ひとえに琵琶湖疎水のおかげといえる。そこで、何かと京都の陰に隠されることの多い滋賀県民は、「琵琶湖の水、止めたるで!」というのが、お約束となっている(笑)

 琵琶湖の湖水面と京都市街地の間には、50mほどの高低差があるという。この落差を利用して、滋賀県大津から東山蹴上まで「第一疏水」として導かれてきた水は、ここで分岐して「疎水分線」として北上する。南禅寺「水路閣」から「哲学の道」と、現在観光地化している疎水は、この途上にある。

 京都市街地は北部へ行くほど高くなっており、これが「上がる/下がる」という京都人の呼び方のゆえんとなっているが、京都北山松ケ崎周辺まで北上する「疎水分線」は、この京都人の土地感覚に逆行している。実は、東山山麓に沿った勾配を利用して北へ流しているのだという。子供のころ、松ケ崎から下鴨へかけて、「白川疎水」が緩やかに流れる閑静な住宅地に叔父の家があり、何度か叔父の家の前の疎水で遊んだ記憶がある。それが琵琶湖の疎水分線の一部だと知ったのは、後日になってからだった。

2021年8月27日金曜日

#京都近代化を遡る#【03.京都近代化策と番組小学校】

京都近代化を遡る【03.京都近代化策と番組小学校】


 明治新政府は1872(明5)年、日本最初の近代的学校制度を定め、身分・性別に区別なく国民皆学を目指す「学制」を発令した。しかし京都では、国家による学校制度の創設に先立って、1969(明2)年に京都の町衆たちを中心にして、「番組小学校」と呼ばれる日本で最初の学区制小学校を創設した。

 京都では、応仁の乱など京の街が戦乱の地となることが多く、町民たちには自分たちの生活を守ろうとする自治意識が強かった。江戸時代末には、町組や町代の仕組みも確立し、奉行所に一定の自治権を認められ、「祇園祭」など町衆の祭りを組織的に運営する力をつけていた。

 「町組」という住民自治の組織は、明治維新前後には通し番号のついた「番組」と呼ばれる地域に再編された。いまだ明治新政府の組織も定まらない時期に、京の町衆から小学校建設の動きがおこり、元長州藩士の画家 森寛斎や寺子屋経営の西谷良圃などが寺子屋の近代化について話し合い、西谷が町奉行所へ官立の教学所設立の建白を提出したりした。そして、府知事補佐だった槇村正直が、読書・習字・算術の稽古場として、1組に1ヵ所小学校建設を計画した。

 京都府が学校建設費を各番組に貸し付ける形で資金を提供し、不足する分は有志による寄付や「かまど銭」と称した町組各家庭からの出金などで、番組小学校の設立にこぎつけた。当時の京都は上京と下京と分かれていたが、その「番組」を元に64校の「番組小学校」が創られていった。番組小学校は単なる教育機関ではなく、町会所であり、役所・保健所・警察・消防・福祉事務所・気象台などとしての役割も担っており、火の見櫓や太鼓場などが併設されていた。

 市制施行によって上京と下京が合体して「京都市」となると、1892(明25)年に学区制度を確立した。その後、学区の再編や新小学校の新設などがあり、1941(昭16)年に国民学校に再編されて、学区による小学校の運営が廃止された。戦後の6・3・3・4制になり、小学校の通学区も変化していったが、戦前の学区は「元学区」として地域行政の核となり、住民自治単位として現在も独自の地域の結びつきを残している。

 京都市北区紫竹の待鳳小学校は当方の母校であるが、1873(明6)年に東紫竹小学校として開校し、当時の小学校の設立を推進した槙村京都府知事から、「待鳳館」と揮毫された額が贈られ「待鳳小学校」と改称した。明治初めには洛外だったので番組小学校ではないが、その数年後にそれに準じる形で設立されている。当初の「学区」は、その後いくつもの分校に分かれて小さくなっているが、それでも学区単位の結びつきは強く、町別対抗運動会など学区単位での催し事が定期的に開かれている。

 また、私の祖母は明治10年代に富山県の郡部に生まれたが、学齢期になって、できたばかりの小学校に通うことになった。ところが通学路の途上には、小学校に通わせてもらえないいたずら小僧が待ち構えていて、毎日、石を投げてくる。親に学校に行きたくないと告げると、あっさり行かなくてよいと言われた。かくして祖母は、めでたく小学校1週間中退となったとか。当時の農家では、学齢期になった子供は立派な働き手であって、親はすすんで小学校には通わせたくなかったということらしい。これもまた、小学校草創期の様子をうかがわせる逸話のひとつかと思われる。

2021年8月26日木曜日

#京都近代化を遡る#【02.京都近代化策と槇村正直知事】

京都近代化を遡る【02.京都近代策と槇村正直知事】


 京都における第1期勧業政策の中心人物は、2代目京都府知事槇村正直に、京都顧問であった山本覚馬、そして実際の事業を担当した明石博高である。槇村正直は旧長州藩士として、同じく長州出身で明治の三傑とされる木戸孝允に重用され、行政経験に乏しい初代京都府知事 長谷信篤の補佐として、実質的に京都府の政治を仕切ったとされる。

 1875(明8)年、槇村正直が京都府知事に就任すると、会津藩出身の山本覚馬と京都出身の明石博高ら有識者を起用して、果断な実行力で文明開化政策を推進した。山本覚馬は、NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン山本(新島)八重の兄で、眼病で失明したうえ薩摩藩に捕われて幽閉されていたが、その蘭学の素養と見識は周囲を感服させ、槇村府知事のもとで参与として京都振興に慧眼を発揮する。

 明石博高は、京都の医薬商の家に生まれ、化学・薬学などを研究していたが、槇村や山本のすすめで京都府に出仕、彼らと共に京都振興の諸政策を打ち出し、その科学的知見にもとづいて舎密局(洋学応用の拠点)などを拠点に西洋技術導入に大きな寄与をした。

 槇村・山本・明石の3名には、科学技術の導入による勧業政策が不可欠であるという共通認識の下、各種の殖産興業政策を展開した。その資金としては、国の殖産興業資金が「勧業基立金」として府に移管されたことや、遷都にともなって下賜された「産業基立金」10万両などが、京都府における資金的基礎を提供した。

 槇村が行った主な京都近代化政策は、実施順に「小学校の開設」「舎蜜局(せいみきょく)の創設」「京都博覧会の開催」「都をどりの開催」「新京極の造営」「女紅場(にょこうば)の創建」などが挙げられる。

 「舎密局」(蘭語”chemie-化学”に相当する当て字)は、理化学教育と化学工業技術の指導機関として、ドイツ人科学者ワグネルら外人学者を招き、多くの人材を育て京都の近代産業の発達に大きく貢献した。「京都博覧会」は日本で最初の産業博覧会として、京都の有力商人らが中心となって、西本願寺を会場に1ヵ月間開催され、その余興として「都をどり」が催された。「女紅場」は、女子に裁縫・料理・読み書きなどを教えるため設立された日本で最初の女学校で、山本(新島)八重も兄覚馬の推薦により、京都女紅場(後の府立第一高女)に関わっている。

 「新京極」は、かつて広大な寺域を誇った金蓮寺が、困窮して寺域の切り売りをはじめ、明治以前には、その売却地に料亭・飲食店・商店・見世物小屋が散在していた。さらに寺町通近隣の寺院の境内には、縁日がたって人が多く集まっていた。そこで寺町通のすぐ東側に新しく道路を造って、その「新京極通」を中心に各寺院の境内を整理し、やがて見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、現在の繁華街の原型ができた。この地域は、かつての平安京の「東京極(ひがしきょうごく)大路」があった場所で、文字通り「京の東の端」だったが、やがて京都の中心の繁華街となった。