2022年7月2日土曜日

#京都雑記#【18.京都駅舎など、もろもろ】

京都雑記【18.京都駅舎など、もろもろ】


 日本最初の官営鉄道新橋-横浜間に次いで、2番目の鉄道として 京都-神戸間が、1877(明治10)年に開通した。この時の京都停車場(京都駅)の初代駅舎は赤煉瓦のモダンな建物で、現在よりやや北側に設置され、京都市民には「七条(ひっちょ)ステンショ」と呼ばれ親しまれた。

 1914(大正3)年、大正天皇の即位式典は京都御所において行われ、それに合わせて2代目駅舎が、ほぼ現在の場所に移転建設された。渡辺節設計によるルネサンス式建築様式で、総ヒノキ造り2階建ての2代目駅舎であったが、戦後の1950(昭和25)年11月、失火により全焼した。

 その年の7月には金閣寺が炎上しており、戦時中に爆撃を受けなかった京都住民にとって、あい次いだ火災はショッキングな出来事であった。当方は生まれたばかりで直接の記憶はないが、事あるごとに両親から駅舎火災の話を聞かされた。戦後まもなくの時期なので、予算も限られ、急造の仮駅舎として3代目駅舎が建造された。薄っぺらなモルタル鉄骨駅舎は、京都の正面玄関なのに恥ずかしいという声も多かったのが、貧乏国鉄は長年、建て直す甲斐性もなかったようである。

 40年後にやっと新築されることになった4代目の現駅ビルは、国内外の7人の建築家による指名コンペで競われた。黒川紀章や安藤忠雄という一般にも著名な建築家も参加していて、黒川などは羅城門をイメージした、120mの巨大な黒い門を建てる案を出してあっけなく落選した。

 結局、60m以下の高さにおさえるという条件で、それをクリアした最も低層の設計デザイン案を提出した原広司の、ポストモダンな建築案が選ばれた。しかしこの建築には、審査員の一人で哲学者(らしいw)梅原猛らが批判している。それらの批判的な意見は、おおむね「古都の京都らしくない」というところに行きつく。

 さて、京都らしいとは何ぞや? そんなものは、世界遺産の神社仏閣がひしめく京の洛中洛外に腐るほど「本物」があるのであって、えざわざコンクリ−トのレプリカで、観光客を出迎える必要があるのであるか。

 半世紀前に京都タワーができたときも、駅前玄関口に巨大なペニスをおったててどーする(実際は蝋燭を模した)、などと意見もあった(笑) 文句はいくらでもあるだろうし言うのは勝手だが、出来たものは出来たもの、それをめでる方が現実的というものだ。

 youtubeなどで見ると、外人観光客たちが、駅ビルの大階段や50mの大屋根や吹き抜け空間を、興味深そうにに撮影したものがたくさんアップさられている。それらからは、好意的に楽しんでいるのがうかがえる。

 完成して20年にもなるのに、当方は数度しか駅ビルに行ったことがないが、外観はあまり具体的なイメージがない。むしろ、内部の大空間の開放性と、階段を上下して移動する立体迷路のような空間は、グリット構成のガラス天井と合わせて、子供の頃のパイプのジャングルジムで遊んでいるような楽しさがある。

 「エッフェル塔を見たくなければエッフェル塔に上れ、京都駅ビルを見たくなければ、駅ビル内を徘徊せよ」(笑)


2022年7月1日金曜日

#京都雑記#【17.總神社】


京都雑記【17.總神社】


 生れ育った北区紫竹の実家近くに「總神社(総神社)」という小さな神社があり、われわれ子供達には恰好の遊び場だった。神社の名称などロクに知らず、たんに「お宮さんで遊ぼ」という感じで、カクレンボやドロッコ(泥棒ゴッコ)であそんだ。遊び相手がいない時も、神社に行くと、メンコやビー玉の取りっこしてる仲間が必ず誰かいた。

 近くには「今宮祭」や「やすらい祭り」で有名な今宮神社があるが、うちの家は、より近くにある小さな「總神社天満宮」の氏子だった。天神様を祀った村の祠が、周囲が宅地化される時に囲いをつけて、やっと神社らしくなった程度の小さな神社だったが、ゆいいつ十月の秋祭りには、子供神輿が周辺を練り歩き、神社境内にはたくさんの出店が出て賑わい、子供たちには年に一度の楽しみだった。

 小学生になる前で神輿を担がせてもらえず、「槍持ち・旗持ち」として行列についてまわっている写真が残っていた。神輿の巡回行列が終ったあとは、近くの銭湯が無料開放され、うち風呂で慣れていたので少し恥ずかしかったが、この時ばかりは銭湯の大きな浴槽でみんなではしゃいだ。

 子供の頃は神社の祭神など関心も持たなかったが、近年になってから、その縁起や祭神を記した立看板が掲示されているようだ。それによると、祭神は天照大神の御子天穂日命・天満大神・八幡大神・源義朝神霊の4柱とされる。菅原道真が筑紫大宰府へ左遷される際に、叔母が巫女として当社に奉仕しており、別れに立ち寄ったと伝えられ、以来菅原氏が宮守りをしてきたため天満宮とされることになった。

 源義朝が祀られているのは近年まで、まったく知らなかった。実は実家の住所は「牛若町」となっている。源義朝の忘れ形見の牛若丸は、のちに源義経となって平家追討で活躍することになる。そもそも町名の由来は、町内に「牛若丸所縁りの井戸跡」があることに拠るが、しかも二ヵ所もある。
 
「牛若丸誕生井」と「牛若丸産湯の井戸跡」という石碑が、数百メートルほど離れて設置されている。どちらも言い伝えに基づいたものだが、後者は近年、宅地造成で撤去されてしまったらしい。この地域は当時は開けていない洛外であり、この周辺に義朝が別宅を設けて、お妾さんの常盤御前を住まわせていたということは考えられる。古図では、この周辺を「常磐の森」と記しているものもあるという。

 「總神社(総神社)」という社名の謂われも訊くことが無かった。特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(合祀)神社を総社、惣社として、総社宮、総神社、総社神社などとも呼ばれることがあるという。ということで、この周辺に所縁ある御霊をまとめて「總神社」としたのだと思われる。

(追記)2024.02.12
 貴船本社は丑の刻参りネタを書くときに調べたが、そこから分社された深泥池貴船神社・紫竹貴船神社・柊野貴船神社という貴船三社があるらしい。

 紫竹貴船神社は、すっかり忘れていたが、実家の近くにあって、子供の頃、何度も通っているのだった。

http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/57549630.html
https://blog.goo.ne.jp/kiremakuri/e/9f91e450076a60687c1f15a104e7cb23

 これらのリンク先の説明では、大徳寺通(旧大宮通)にそって総神社・紫竹貴船神社・久我神社と連なっており、大徳寺通は旧街道として、さらに上賀茂神社から貴船本社へと通じているということだ。

 子どもの頃「旧大宮通」と呼んでいた馴染みの街道で、これらの神社が一本に結びついてくるのは興味深い。いずれより深く調べてみたいが、とりあえずここにメモしておく。

2022年3月16日水曜日

#京都雑記#【16.正道官衙遺跡(城陽市)】


京都雑記【16.正道官衙遺跡(城陽市)】(2022.03.16)


 今の住いの近くに「正道官衙(しょうどうかんが)遺跡」というのがある。旧知の友人と爺二人で、久しぶりに行楽がてら出かけた。といっても、パック寿司とノンアルビールで数時間しゃべくっていただけだが。


 このあたりは久津川古墳群と呼ばれ、前古墳時代からの小規模古墳が散在している。芝ケ原古墳は、前方後円墳以前の最古級の方墳として注目された。ここ正道の地でも瓦片や土器片が見つかり発掘が進められると、古代の複合遺跡であることが分かってきた。そして最も広域に展開した掘立柱建物群跡が見つかり、これは奈良時代初期の官衙遺構であり、山城国久世郡の郡衙が置かれていたと推定される。

 官衙とは平城京の出張所であり、都にいたる主要な街道を守る関所や砦でもあったと考えられる。発掘が済まされた「正道官衙遺跡」は史跡公園として整備され、南門や庁屋跡の柱穴には模造柱が建てられ、当時の構造物の骨格が復元されている。そして周囲の遊歩道には、万葉植物が植えられ、それにゆかりの万葉短歌の歌碑がそえられている。

 南門から官衙跡に入ると、真っすぐ北に一直線の道が伸びて、正面に政務を執る庁屋が広がる。両側はひたすら平地が広がるだけである。われわれ二人の老人は、都からの使いよろしく庁屋に向かって進む。庁屋に設けられたベンチには、郡の長官ならぬお爺さんがひとりコンビニお握りをほうばっていた。

 われわれもその隣に腰かけて、パック寿司を広げた。桜も一部咲きはじめまさに春うらら、国の長官が仕切る位置から南面に広がる空き地を眺めると、万葉の時代のうららかな世界が浮かんでくるようだった。こうやって半日を楽しく過ごしたが、それに掛けた費用はパック寿司など千円以下だった(笑)

あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり



2022年2月14日月曜日

#京都雑記#【15.京都の大火と街並の変遷】

京都雑記【15.京都の大火と街並の変遷】


 宝永5(1708)年3月8日午の下刻、京都の油小路通三条あたりから出火、南西の風に煽られて被害が拡大し、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上、九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした417ヵ町、10,351軒、佛光寺や下鴨神社などの諸寺社などを焼いた。

 江戸時代における京都の三大大火は、1708年の「宝永の大火」、1788年の「天明の大火」、1864年の「元治の大火」が挙げられる。天明の大火は鴨川東側の宮川町団栗辻子から出火したため「団栗(どんぐり)焼け」とも呼ばる。また、元治の大火は禁門(蛤御門)の変によって御所の周辺から出火、御所の西部や南東方面一帯にどんどん焼け広がったため「どんどん焼け」と言われた。

 宝永の大火では、火災後「見渡せば京も田舎となりにけり 芦の仮屋の春の夕暮」と書かれた落首が市中に貼られるなど、京都御所とその南部一帯が焼け出された。そのため火災後、一部の町及び民家が鴨川の東などに丸ごと移転され、京都の市街が鴨東(おうとう)地域に拡大されることになった。

 当時の京都御所周辺には、公家の屋敷と町屋が混在していたが、焼失した禁裏の周りに公家邸を集中させ、混在していた町屋は鴨東の二条川東に広がる畑地に移転させた。町並み丸ごと移転させたため、この地域には、新丸太町通・新麩屋町通・新富小路通・新東洞院通・新柳馬場通・新堺町通・新高倉通など、新の字を頭につけた通り名がたくさん出来たという。

 これらは本来、御所の南側に南北に走る通りの名で(丸太町通のみは東西)、これらの京都の中心街を知る人にとっては、このまったく別場所に出来た新地名をみると驚かされる。

 これをきっかけに、洛外で畑地でしかなかった鴨川の東に町屋が広がるようになったらしい。そして大火で焼けた禁裏周辺には、散在していた公家屋敷を集中させたのだが、1864年の「禁門(蛤御門)の変」で、御所の周りが「どんどん焼け」と呼ばれる大火でまる焼けとなってしまった。

 そして明治維新で東京遷都となると、帝とともに公家屋敷も東京へ移転して、御所周辺は荒れ放題となった。維新政府の重鎮となった岩倉具視が、その状態を憂え整備を命じた結果、御所周辺が公園化され、いまの京都御苑公園となったのである。

2022年2月8日火曜日

#京都ゆかりの人物伝#【01.桓武天皇と平安京】

京都ゆかりの人物伝【01.桓武天皇と平安京】(737~806)


 「桓武天皇」(かんむてんのう)は、山城の地に「平安京」を定め、千年の都京都の端緒を開いた天皇として、切っても切れない縁がある。ただし、いきなり平安京に遷都したわけではなく、784年に平城京(奈良)から長岡京(京都府向日市)に移転させたが、さらにわずか10年の後の794年に都を平安京(京都)に移した。

 70年余り続いた奈良の平城京には、近くに大きな川がなく水運や排水に難があった。そのような地勢上の理由もあったが、桓武天皇が奈良から都を移転させることを考えたのは、やはり政治的な理由が大きい。

 平城京の時代は、持統・元明の女帝を除くと、壬申の乱によって王権を握った天武系皇の皇統が続いた。女帝の称徳天皇は子供を産まなかったため、その隙間をついて道鏡が皇位を望むなど政治が乱れ、そこで天武の嫡流が途絶えた。止むを得ず天智系で60歳を超えていた光仁天皇(白壁王)が即位し、まったく立太子の可能性のなかったその子の桓武天皇(山部王)にも、天皇を受け継ぐ偶然がやってきた。

 光仁天皇の崩御により桓武天皇が即位するが、当時の平城京には天武系の勢力が強く、また、東大寺・興福寺など南都七大寺と呼ばれた寺院勢力も強大で、後ろ盾のない桓武天皇はその勢力圏外に都を移そうと考えた。そして延暦3(784)年、当時未開の山城国乙訓(おとくに)郡に、「長岡京」を造営して遷都する。

 しかし遷都の翌年に、長岡京造営の責任者 藤原種継が何者かに暗殺された。犯行首謀者の中に皇太弟「早良親王」も連座するとされ、冤罪とするも配流され途上で悶死する。親王の死後、桓武天皇の近親に変事が重なり、さらに飢饉・疫病の大流行や河川の氾濫などの凶事が続いた。

 桓武天皇はこれが早良親王の怨霊の祟りとして怖れおののき、長岡京遷都からわずか10年後の延暦13(794)年、長岡京の北東の山背国葛野(かどの)郡および愛宕(おたぎ)郡の地に再遷都する。桓武天皇は現在の京都市東山区にある「将軍塚」から見渡して、新たな都に相応しいとして定めたとされるのが「平安京」である。

 桓武天皇は渡来人の血をひく高野新笠を母とし、早くから山城の地に地盤を持つ渡来人 秦氏の協力を仰ぎ、一方で藤原式家良継の娘 藤原乙牟漏を皇后とし、同じ藤原式家の藤原百川らを重用しながら、二度に及んだ遷都を推進したと思われる。

 桓武天皇は平城京で即位すると、律令政治再建を目指し、班田収授の励行・勘解由使の設置といった改良を加え、また律令制で農民に一律に課された兵役は負担が大きく、それを郡司の子弟や武芸に秀でたものを選抜した「健児の制」に改めた。そして、唐の都 長安にならった条坊制に基づいて、平城京や長岡京よりさらに広大な平安京を造営し、新たな律令制を目指した。

 さらに、奈良での寺院勢力を排除するために、平安京では原則的に新規寺院の建立を認めず、唐から持ち帰った最澄や空海の説く新仏教を保護した。また、健児制で地方の軍政を整備し、坂上田村麻呂を「征夷大将軍」に任命し、東北の蝦夷平定を行い、奥羽地方を中央政府の支配下に納めた。

 しかし悶死した早良親王に代わって皇太子となった安殿親王は、決して父親桓武と良好な関係とは言えず、妃の母であった「藤原薬子」を寵愛し、桓武から薬子の追放を命じられるなどその怒りをかった。そして桓武天皇崩御のあと践祚し「平城天皇」となったが、なおも天皇の寵愛を受ける薬子は兄の藤原仲成とともに、政治に介入するなど専横を極めた。

 平城天皇は病弱のため、在位僅か3年で皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、平城上皇は薬子とともに旧都平城京に移り住んだ。しかも、仲成・薬子兄妹の強い要請を受けて、平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った。

 しかし嵯峨天皇側は機先を制し、薬子の官位を剥奪、兄の仲成を捕縛した。平城上皇は、挙兵し薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻った。平城上皇は直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。これは「薬子の変」呼ばれたが、近年では「平城太上天皇の変」という表現もなされる。

 このように、桓武天皇が目指した平安京での律令制はその死後も安定せず、嵯峨天皇以降に少しづつ安定してゆくが、一方で、藤原冬嗣以下の藤原北家が台頭し、天皇が治める律令制から、藤原氏の摂関政治へと移行してゆく。


2022年2月4日金曜日

#京都雑記#【14.京都岡崎公園と文化施設の今】

京都雑記【14.京都岡崎公園と文化施設の今】


 京都の岡崎の地は、京都市左京区の南部に存在する地域であり、この地は平安時代に法勝寺など大寺が建ち並ぶ故地であったが、その後の戦乱で灰燼に帰しており、幕末維新のころには空き地が広がっていた。しかし1895(明治28)年、この岡崎地域で平安遷都千百年紀念祭と第四回内国勧業博覧会が実施されることになり、この地域が再開発された。

 当初は平安京の大極殿の地域が予定されたが、紀念祭や博覧会を実施できる空き地は無く、完成したばかりの蹴上疎水が流れ、利便がよくなったこの岡崎が着目された。平安京の大内裏の復元が計画され、平安京の正庁であった朝堂院を模して「平安神宮」が造営され、実物の8分の5の規模で復元された。

 この会場跡地はその後整備が進められ、1900(明治33)年、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)のご成婚に合わせて動物園の開設が決定され、1903年(明治36年)4月1日、東宮御慶事記念動物園として開園する。これが現在の「京都市動物園」で、市民には岡崎動物園と呼ばれて親しまれており、東京上野動物園に次いで日本で2番目に古い動物園である。

 同時に勧業博覧会場跡地は「岡崎公園」と称され、公園内には1909(明治42)年に「京都府立図書館」が移転設置され、さらにいくつもの文化施設が設置されてゆく。1933(昭和8)年に「京都市美術館」が開館、1937(昭和12)年には「京都市立勧業館」が竣工した。戦後にも、1960(昭和35)年に「京都会館」、1962(昭和37)年には勧業館別館が改装され「京都国立近代美術館」となった。

 勧業博にさいしては、京都七条(現JR京都駅)から岡崎勧業博会場まで、日本最初の市街電車で結ばれ、その電力はこれまた日本最初の蹴上水力発電所の電力でまかなわれた。岡崎は、上記文化施設等とともに、まさに京都近代文化の起点となったのである。

 これらの文化施設は老朽化が進んだため、近年に次々と改装改築された。京都市勧業館は全面的に建替えら、通称「みやこめっせ」とされて、京都府最大の展示場延べ面積を誇るイベント会場となった。京都市動物園も全面的にリニューアルされ、新しい展示様式とともに市民のリクレーションの場となった。

 ほかにも、京都市立美術館が全面リニューアルされ「京都市京セラ美術館」となり、京都会館は改築改修にともなって「ロームシアター京都」となったが、前川國男設計京都会館は文化財として重要とする異議もはさまれた。

 しかし「京セラ美術館」や「ロームシアター」という新たな呼び名は、いわゆるネーミングライツという命名権売却によって企業名がかぶせられることになり、古くからの市民には元の施設が何か分からないという声も寄せられている。

 ほかにも、岡崎ではないが、「わかさスタジアム」だの「たけびしスタジアム」だのと言われると、もはやどこにあるのかもわからない。それぞれ「西京極球場」や「西京極運動競技場」の時代が懐かしいと思うのは、もはやロートル化した元市民の泣き言でしかないのか(笑)

2022年1月7日金曜日

#京都雑記#【13.「餃子の王将」で相次ぐ個人経営FC店の閉店】

京都雑記【13.「餃子の王将」で相次ぐ個人経営FC店の閉店


>「餃子の王将」京都で相次ぐFC店の閉店 独自のサービス人気、惜しむ声 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/702811

 そもそも「餃子の王将」はフランチャイズチェーンといっても、従来の個人経営が加盟した店舗が多かった。マクドナルドみたいな徹底したマニュアル化などはなくて、ベース食材を共同仕入れする程度の縛りしかなかった。

 昭和50年代のはじめに四条大宮近くに住んだとき、すぐ近くの狭いビルの二階に、安くておいしい中華料理店を見つけて、よくかよった。いま思うとそれが「餃子の王将」の一号店で、現在はその隣の大きなビルに移転しているようで、その脇に「餃子の王将 発祥の地」と看板が掲示されている。

 その後数年は京都を離れていて、やがて京都府南部の山城地域に定住することになったが、当時王将は郊外に大型直営店を展開しだしていた。しかしバブルがはじけると、店舗施設の負担が大きいのか、料理の味もボリュームも低下した。

 一方の個人経営店は、相変わらず安くてうまいままだった。その後直営店の品質も改善し、かつての安くてうまい王将がもどってきたが、今度は個人経営店が、店主の高齢化などで閉じる店が増えてきた。それがコロナ騒ぎで加速したのかもしれない。


>「学生はお皿洗いすると無料」をうたった出町店も、2020年末に閉店
https://kotocollege.jp/archives/4959

 住まいを改造した店舗などで家族経営だから、店舗コストや労働コストが低いので、安くてボリュームのある定番メニューを提供できたのだった。いずれにしても残念なことだ。