京都回想記【20.中学二年になったけど・・・】
昭和37(1962)年4月、当然ながら中学二年生になった。校地の北西の端に遅ればせながら新校舎が建築中だったが、一部の棟が完成し二年生のクラスがはいることになった。初めての鉄筋コンクリート建てと言うことだったが、さっそくワルどもが廊下の壁面を蹴っ飛ばして穴をあけた。壁面などはスレートボードでペンキを塗っただけだから、簡単に破れたみたいだ(笑)
新校舎で新学年の中学生活が始まったが、新クラスにはなかなか馴染めなかった。友達を作り損ねて、なんとなく孤立気味の生活だった。部活も二年生になる前に止めたし、勉学は適当になんとかなったが、これといって打ち込めることもなく、なんとも楽しくない中学生活だった。
正規の部活ではないが、ワンダーフォーゲル部という同好会的な集まりがあった。なんとなく楽しそうなので参加してみた。近くの山間にある池など日帰りで行ったが、既存のメンバーは山歩き用の靴などで決めていたが、こちらは臨時参加的位置づけで、靴も運動靴と、なんとなく肩身が狭い思いがした。
二年生が終わった春休み、これらのメンバー10人ぐらいで、京都市内では一番高いという愛宕山に上ることになった。春とはいえ、まだ山間には雪が残っていて寒い時期だった。高いといえ、たかだか800m程度の山で、山頂には愛宕神社もある。行きはよいよいで一気に山頂まで上り、帰りに谷川に降りて飯盒炊爨をする計画だった。
谷に降りるとき道を間違ったようで、雪が残っている谷を下っても道が無くなり、軽装備の足元は雪に濡れて冷え込むばかり。とりあえず平たい場所を見つけて、飯を炊こうとしても、芝などが湿っていて火が付かない。ほとんど生煮えの飯を少し口に入れた程度で、もう日が陰りだした。
谷底ではどこに居るのか分からないので、稜線に上がってみると、ずっと下の方に町が見えた。方角からすると、上った清滝町からはるか離れた高尾の集落だった。とにかく町が見えたから、そちらに向かう道を見つけて下った。やっとの思いで国道筋に出たときには、みんなホッとした様子だった。
バスに乗って金閣寺にまで出たときには、もうどっぷりと日が暮れていた。やっと学校にたどり着いたのは午後8時ぐらいで、父兄たちが心配して学校に集まっていた。800m級の山で遭難という不名誉は、何とか免れたのだった。