2024年9月24日火曜日

#京都回想記#【20.中学二年になったけど・・・】

京都回想記【20.中学二年になったけど・・・】


 昭和37(1962)年4月、当然ながら中学二年生になった。校地の北西の端に遅ればせながら新校舎が建築中だったが、一部の棟が完成し二年生のクラスがはいることになった。初めての鉄筋コンクリート建てと言うことだったが、さっそくワルどもが廊下の壁面を蹴っ飛ばして穴をあけた。壁面などはスレートボードでペンキを塗っただけだから、簡単に破れたみたいだ(笑)

 新校舎で新学年の中学生活が始まったが、新クラスにはなかなか馴染めなかった。友達を作り損ねて、なんとなく孤立気味の生活だった。部活も二年生になる前に止めたし、勉学は適当になんとかなったが、これといって打ち込めることもなく、なんとも楽しくない中学生活だった。

 兄が結婚してアパートで新所帯を始めたので、二階の一間が空いた。それまで自部屋も学習机もなく、居間の食卓の隅でちょこちょこっと宿題を済ます程度だったが、あまり関心の無かった親も見かねたのか、その部屋をあてがってくれた。大工仕事の好きだった父親が、その辺の材木を使って机を作ってくれた。

 正規の部活ではないが、ワンダーフォーゲル部という同好会的な集まりがあった。なんとなく楽しそうなので参加してみた。近くの山間にある池など日帰りで行ったが、既存のメンバーは山歩き用の靴などで決めていたが、こちらは臨時参加的位置づけで、靴も運動靴と、なんとなく肩身が狭い思いがした。

 二年生が終わった春休み、これらのメンバー10人ぐらいで、京都市内では一番高いという愛宕山に上ることになった。春とはいえ、まだ山間には雪が残っていて寒い時期だった。高いといえ、たかだか800m程度の山で、山頂には愛宕神社もある。行きはよいよいで一気に山頂まで上り、帰りに谷川に降りて飯盒炊爨をする計画だった。

 谷に降りるとき道を間違ったようで、雪が残っている谷を下っても道が無くなり、軽装備の足元は雪に濡れて冷え込むばかり。とりあえず平たい場所を見つけて、飯を炊こうとしても、芝などが湿っていて火が付かない。ほとんど生煮えの飯を少し口に入れた程度で、もう日が陰りだした。

 谷底ではどこに居るのか分からないので、稜線に上がってみると、ずっと下の方に町が見えた。方角からすると、上った清滝町からはるか離れた高尾の集落だった。とにかく町が見えたから、そちらに向かう道を見つけて下った。やっとの思いで国道筋に出たときには、みんなホッとした様子だった。

 バスに乗って金閣寺にまで出たときには、もうどっぷりと日が暮れていた。やっと学校にたどり着いたのは午後8時ぐらいで、父兄たちが心配して学校に集まっていた。800m級の山で遭難という不名誉は、何とか免れたのだった。

2024年9月21日土曜日

#京都回想記#【19.中学一年生】

京都回想記【19.中学一年生】


 昭和36(1961)年4月、京都市立旭丘中学校に入学した。近隣の3つの小学校から生徒が集まるので、1学年で12クラスになった。自分は待鳳小学校で、ほかに鳳徳小と鷹峯小から来る。これまでとは違う小学校から集まるので、それぞれ雰囲気が違う。待鳳学区は織物関係の家庭が多かったが、鳳徳学区にはサラリーマン家庭が多かった。鷹峯小は丘の上のはずれにあって、分校のようで生徒も少なかった。

 新しいクラスにもすぐに馴染んだ。賑やかな鳳徳地域のグループと仲間になり、なんとなく彼らの方が大人びていて、来ているものもコ洒落ている気がした。隣の席の色白で眼鏡をかけた女の子が、突然話しかけてきたが、こちらは小学校でもほとんど女子と話すことが無かったので、不慣れな応答に困った。

 すると見ていた別の男子生徒が、好きなんやろと冷やかしてきた。そいつはオカマっぽい話し方をしていて、女ばかり姉妹の間で育ったそうで、女子の対応にも慣れていて、平気でしゃべっていた。まだ小学生気分が抜けていないので、異性を意識するほどではなかったが、不慣れな会話には困った。

 小学校では、担任がほとんどの教科を教えたが、中学になると教科ごとに専門の教師が担当する。社会科はベテランの男性教師で、1年生では日本と世界の地理を習う。さすがにベテラン教師で、まず地図の索引での調べ方をマスターさせるため、毎回の授業始めの5分ほどでちょっとしたゲームをする。先生が黒板に誰も知らない地名を書くと、一斉に調べて、最初にその場所を見つけたら、黒板の隅に生徒の名前と「正の字」を一本書き入れる。そうして競わせるので、生徒は地図をよく調べるようになった。

 また、世界地図を憶えさせるために、聞いたことも無い東欧圏の国の首都名を言わせたりして、知らず知らずにほとんどの国の首都が言えるようになった。これは、その後の世界のニュースなどを聞くと、すぐにどの辺の話かが分かるので非常に役に立った。この時期に憶えたことは、この歳になっても忘れないでいる。もっとも、60年も経てば国名や首都名は大半が変わってるが、その辺はなんとかなる(笑)


 中学になると部活が始まるが、器械体操部にしばらく所属した程度だった。しかしマット運動や鉄棒で身に着けた柔軟性や俊敏性は、通常の体育授業の課題は楽々とこなせたので、中学三年間はほとんどフルマークだった。いずれにしても、小学校とは異なる各科目の授業にもなじんで、最初の中学の一年間を楽しく過ごした。

2024年9月7日土曜日

#京都回想記#【18.町内一周】

京都回想記【18.町内一周】


 近所の遊び仲間が集まると、今日は何をやって遊ぼうかとなって、誰かが「ドロッコ」とかいう。地域によっては「ドロケイ」ともいって、逃げ回る泥棒組と追いかける警察組に分かれて行う。組み分けが済むと、次は遊びの範囲を定めるのだが、たいていは「町内一周」と決まる。

 現在は「牛若町」と一本化されているが、子供の頃は三つの牛若町に分かれていた。「本牛若町」、「北牛若町」、そして我が家のある「東牛若町」。だから北区が上京区から分区される昭和30(1955)年までは、住所が「京都市上京区紫竹東牛若町」だったのを記憶している。

 そして、写真地図の青線で示した紫竹南通の一部が我々のメインの遊び場で、「町内一周」と言ったときには、裏側の通りになる本牛若町の紫竹通をまわる黄緑色楕円で囲った範囲となる。駆けっこリレーなども、この一周を走る。カクレン(かくれんぼ)は、ちいさな子も居るときは青線部分、足の速い小学高学年が中心だと「町内一周」だった。

 家の前の道は、当時は舗装されておらず地道で、車もほとんど通らないので、前の道で凧揚げなどして遊んだ。団塊の世代なので子供は多く、同年と前後のの年を含めると、男子だけで6人ほども居たので、道端遊びの仲間には事欠くことがなかった。土の道に穴を掘ってビーダン(ビー玉)遊び、家の軒下のコンクリではメンコ、ほかにもいろいろ工夫して遊んだ。

 うちの家の前に木製のデンシンボ(電柱)があった。ドロッコやカクレンでは重要な陣地となって、ドロッコで捕まるとこのデンシンボに繋がれて、仲間の救出を待つ。カクレンでは鬼が隠れてる子を見つけられて、このデンシンボにタッチされるとアウトで、隠れた側が先にタッチするとセーフだったかな。

 月に一回ほど、近隣のお百姓さんが、大八車に肥タンゴ(肥桶)を積んで汲み取りに来る。牛に牽かせて来て、汲み取り作業中は牛をこのデンシンボに繋いでおく。牛は平気で、べたべたと糞を垂れ流す。そんな日は、道端遊びは中止で、家の中でゲームなどして遊ぶことになる。人糞肥料は貴重な肥料だったから、汲み取り賃は取らずに、逆に葱一把などを置いて行ってくれた。

 紙芝居は、ほぼ毎日やってきて、拍子木を鳴らして子供たちを呼び出す。それを聞くと、親に十円玉をもらって駆けつけて、水飴などを買う。半分に折った割りばしにぐるっと水飴を巻き付けて、それに四つ折りにした色付きの薄い煎餅をちょんと貼り付ける。それを割り箸でぐるぐる捏ねると、透明な水飴に煎餅の色が付いてくる。それを道端で舐めて、当時のガキどもに、衛生意識など皆無だった(笑)

 たまには竿竹ヤやイカケヤ(鋳掛屋))や研ぎヤなどがやってくる。イカケヤは鍋や釜の穴あきなどを直し、研ヤは切れなくなった包丁やハサミを研いでくれる。それぞれが、特徴のある掛け声で、やってきたことを屋内の人に告げる。いずれにせよ、のどかな町内一周の光景であった。