2024年9月21日土曜日

#京都回想記#【19.中学一年生】

京都回想記【19.中学一年生】


 昭和36(1961)年4月、京都市立旭丘中学校に入学した。近隣の3つの小学校から生徒が集まるので、1学年で12クラスになった。自分は待鳳小学校で、ほかに鳳徳小と鷹峯小から来る。これまでとは違う小学校から集まるので、それぞれ雰囲気が違う。待鳳学区は織物関係の家庭が多かったが、鳳徳学区にはサラリーマン家庭が多かった。鷹峯小は丘の上のはずれにあって、分校のようで生徒も少なかった。

 新しいクラスにもすぐに馴染んだ。賑やかな鳳徳地域のグループと仲間になり、なんとなく彼らの方が大人びていて、来ているものもコ洒落ている気がした。隣の席の色白で眼鏡をかけた女の子が、突然話しかけてきたが、こちらは小学校でもほとんど女子と話すことが無かったので、不慣れな応答に困った。

 すると見ていた別の男子生徒が、好きなんやろと冷やかしてきた。そいつはオカマっぽい話し方をしていて、女ばかり姉妹の間で育ったそうで、女子の対応にも慣れていて、平気でしゃべっていた。まだ小学生気分が抜けていないので、異性を意識するほどではなかったが、不慣れな会話には困った。

 小学校では、担任がほとんどの教科を教えたが、中学になると教科ごとに専門の教師が担当する。社会科はベテランの男性教師で、1年生では日本と世界の地理を習う。さすがにベテラン教師で、まず地図の索引での調べ方をマスターさせるため、毎回の授業始めの5分ほどでちょっとしたゲームをする。先生が黒板に誰も知らない地名を書くと、一斉に調べて、最初にその場所を見つけたら、黒板の隅に生徒の名前と「正の字」を一本書き入れる。そうして競わせるので、生徒は地図をよく調べるようになった。

 また、世界地図を憶えさせるために、聞いたことも無い東欧圏の国の首都名を言わせたりして、知らず知らずにほとんどの国の首都が言えるようになった。これは、その後の世界のニュースなどを聞くと、すぐにどの辺の話かが分かるので非常に役に立った。この時期に憶えたことは、この歳になっても忘れないでいる。もっとも、60年も経てば国名や首都名は大半が変わってるが、その辺はなんとかなる(笑)


 中学になると部活が始まるが、器械体操部にしばらく所属した程度だった。しかしマット運動や鉄棒で身に着けた柔軟性や俊敏性は、通常の体育授業の課題は楽々とこなせたので、中学三年間はほとんどフルマークだった。いずれにしても、小学校とは異なる各科目の授業にもなじんで、最初の中学の一年間を楽しく過ごした。

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