京都回想記【18.町内一周】
近所の遊び仲間が集まると、今日は何をやって遊ぼうかとなって、誰かが「ドロッコ」とかいう。地域によっては「ドロケイ」ともいって、逃げ回る泥棒組と追いかける警察組に分かれて行う。組み分けが済むと、次は遊びの範囲を定めるのだが、たいていは「町内一周」と決まる。
現在は「牛若町」と一本化されているが、子供の頃は三つの牛若町に分かれていた。「本牛若町」、「北牛若町」、そして我が家のある「東牛若町」。だから北区が上京区から分区される昭和30(1955)年までは、住所が「京都市上京区紫竹東牛若町」だったのを記憶している。
そして、写真地図の青線で示した紫竹南通の一部が我々のメインの遊び場で、「町内一周」と言ったときには、裏側の通りになる本牛若町の紫竹通をまわる黄緑色楕円で囲った範囲となる。駆けっこリレーなども、この一周を走る。カクレン(かくれんぼ)は、ちいさな子も居るときは青線部分、足の速い小学高学年が中心だと「町内一周」だった。
家の前の道は、当時は舗装されておらず地道で、車もほとんど通らないので、前の道で凧揚げなどして遊んだ。団塊の世代なので子供は多く、同年と前後のの年を含めると、男子だけで6人ほども居たので、道端遊びの仲間には事欠くことがなかった。土の道に穴を掘ってビーダン(ビー玉)遊び、家の軒下のコンクリではメンコ、ほかにもいろいろ工夫して遊んだ。
うちの家の前に木製のデンシンボ(電柱)があった。ドロッコやカクレンでは重要な陣地となって、ドロッコで捕まるとこのデンシンボに繋がれて、仲間の救出を待つ。カクレンでは鬼が隠れてる子を見つけられて、このデンシンボにタッチされるとアウトで、隠れた側が先にタッチするとセーフだったかな。
月に一回ほど、近隣のお百姓さんが、大八車に肥タンゴ(肥桶)を積んで汲み取りに来る。牛に牽かせて来て、汲み取り作業中は牛をこのデンシンボに繋いでおく。牛は平気で、べたべたと糞を垂れ流す。そんな日は、道端遊びは中止で、家の中でゲームなどして遊ぶことになる。人糞肥料は貴重な肥料だったから、汲み取り賃は取らずに、逆に葱一把などを置いて行ってくれた。
紙芝居は、ほぼ毎日やってきて、拍子木を鳴らして子供たちを呼び出す。それを聞くと、親に十円玉をもらって駆けつけて、水飴などを買う。半分に折った割りばしにぐるっと水飴を巻き付けて、それに四つ折りにした色付きの薄い煎餅をちょんと貼り付ける。それを割り箸でぐるぐる捏ねると、透明な水飴に煎餅の色が付いてくる。それを道端で舐めて、当時のガキどもに、衛生意識など皆無だった(笑)
たまには竿竹ヤやイカケヤ(鋳掛屋))や研ぎヤなどがやってくる。イカケヤは鍋や釜の穴あきなどを直し、研ヤは切れなくなった包丁やハサミを研いでくれる。それぞれが、特徴のある掛け声で、やってきたことを屋内の人に告げる。いずれにせよ、のどかな町内一周の光景であった。
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