2021年5月20日木曜日

#京の都市伝説・探求#【03.貴船神社と丑の刻参り】

京の都市伝説・探求【03.貴船神社と丑の刻参り】


 叡電鞍馬線に沿って鞍馬街道を北上して行くと、貴船口駅あたりから貴船街道が西に分岐し、貴船川に並行して山間に上って行く。貴船神社参道までの間に、貴船川に沿っていくつかの料亭が立ち並ぶ。夏場になると、それらの料亭が貴船川の清流に川床を設けて、川魚の料理などを提供している。山間の冷気と清流のしぶきが入り交じった空気を浴びながら、旬の料理を食するのは、絶好の気分にひたれる。

 貴船神社は本宮・結社(中宮)・奥宮の3ヵ所に分かれており、祭神は高龗神(たかおかみのかみ)とされ、"龗"は龍の古語であり、水源の神、水や雨を司る神とされる。また結社では磐長姫命を祭神とし、縁結びの神としても信仰される。

 その一方で縁切りの神、呪咀神としての裏の信仰もあり、「丑の刻参り」で有名である。丑の刻参りは、丑時詣・丑参り・丑三参りとも呼ばれ、深夜の丑の刻に神社の御神木に、憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込むという、一種の呪術儀式が秘かに行われる。嫉妬に狂った女性が、白衣に扮し頭にかぶった鉄輪に蝋燭を突き立てた姿で行うというのが、典型的なイメージであったりする。

 「丑の刻(時)」とは、現在の午前1時〜3時の2時間の幅をもつ時間帯のことで、「草木も眠る丑三つ時」とは、その2時間を4等分した三つ目、つまり2時〜2時半のあたりを指す。いづれにせよ、電灯もない当時としては、まさに真っ暗闇の深夜をイメージさせる。

 七日間連夜でこの詣でを行うと満願となり、呪った相手が死ぬとされるが、その行為を他人に見られると失効するという。京都洛北の貴船神社は、鬱蒼とした山林にかこまれた環境で、密かに丑の刻参りの本場として語り継がれている。現在では半ば都市伝説として語られるが、今でも貴船神社の裏山には、古木に打ち付けられた呪の藁人形が見られるという。

 ネットで検索すると、「呪いの藁人形セット」なるものが通信販売されていた。さらに「呪い代行」のサービスも承っているとかだが、犯罪代行にならないのだろうか(笑)

 また、女の情念や怨念といった心情を切々と歌い上げる女性シンガーソングライター「山崎ハコ」の、「呪い」という曲を見つけた。「コーン、コーン、コーン、コーン、釘を刺す。わらの人形、釘を刺す♪」 まさに丑の刻参りの怨念の曲だ。ただし、この引用動画の背景に使われている光景は、残念ながら貴船神社ではなく、大徳寺高桐院の参道のようだ。
(背景画像は、動画掲載者がかってに差し込んだものとのこと)

 人の形を模した人形は、古来、人形(ひとがた)ないし形代(かたしろ)と呼ばれ、単なるモノではなく、人の霊を宿すものと考えられている。そこで、流し雛のように、身の穢れを雛人形に託して、水に流して清めるという風に、人の代理として使われる。

 丑の刻参りの藁人形にも、当然そのような役割が担わされている。丑の刻参りの源流は、日本書紀にまで遡れるようだが、今のような様式は江戸時代に完成したと言われる。そのひな形は「宇治の橋姫」の話しにみられる。源氏物語宇治十帖にも「橋姫」の巻があるが、ここではまだ穏やかな物語であって、嫉妬に狂う鬼としての橋姫が現われるのは「平家物語」あたりからである。

「橋姫」

2021年5月19日水曜日

#京の都市伝説・探求#【02.宝ヶ池の縁切り伝説】

京の都市伝説・探求【02.宝ヶ池の縁切り伝説】


 深泥池からひと山はさんだ東に「宝ヶ池」がある。深泥池が陰だとすれば宝ヶ池は陽、まったく対照的な二つの池が並んでいる。昭和40年ごろに、宝ヶ池の対岸に京都国際会館ができて、北山通が整備され、松ヶ崎方面から国際会館のある岩倉側へ抜けるトンネルが完成した。

 合掌造りをイメージした国際会館と、その背景には比叡山がそびえ、宝ヶ池自体も自然公園に整備された。そのような絵葉書のような景観の中で、池には従来からの手漕ぎボートにくわえ、カップルが並んで座れるペダル式ボートも配置されて、池に浮かびながらの景観も楽しめる。

 だがしかし、この場面には落とし穴がある。実はこの「宝ヶ池」でデートしてボートに乗ると、必ずそのカップルは別れるという都市伝説があるのであった。ストーリーのある都市伝説というよりも、いわばジンクスのようなものであるが。

 実は、かつてネットで蒐集した都市伝説のなかに、すでに「縁切り伝説」の投稿があった。まずは有名な井の頭公園の別れ伝説が投稿された。

《カップルでお参りしてはいけない場所 …ってゆーと、関東でメジャーなのは、通称「縁切り寺」だと思うのですが、バラバラ事件のあった井の頭公園の弁天様も、霊験あらたかだそうです。もともと弁天様は、未婚の女性の神様なので、夫婦や恋人が揃ってお参りすると嫉妬されるので、良くないとか。正しいお参りのしかたは、男女バラバラに、時間差をつけて行くのだそうです。》

 これに触発されて、幾つもの「縁切り伝説」が投稿された。それにあわられた場所をすべて羅列してみる。

<<東京井の頭公園弁天池・埼玉大宮公園ひょうたん池・東京ディズニーランド・津田梅子のお墓・関東の通称「縁切り寺」・京都嵐山の渡月橋・京都植物園・大阪万博公園エキスポランド・神戸ポートピアランド・名古屋東山公園「東山タワー」・太宰府天満宮・伊勢神宮>>

 どれもこれも各地の行楽観光の名所がずらりとならんでいる。若い男女がデートをする場所なのだから当然のことである。また、その多くのカップルがその後なんらかの理由で別れていくのも自然のながれであろう。とすれば、多くの観光名所に縁切り伝説があるのになんの不思議もない。

 しかしここでは、そのような噂の存在の合理的な理由をみつけるのが狙いではない。むしろ噂とは、しばしば非合理な状況から発生し伝播していくものである。またそのような非合理性にむけて、それなりの納得をあたえる役割をももっていることが多い。

 恋愛に終局があるのは事実だとしても、いままさに恋愛中のカップルにとって別れにおもいをむけるのは不合理なことだ。また恋愛そのものが多くの偶然によりはじまるのと同じく、両者とも納得のいくような別れがあるわけでもないだろう。これらはそもそも、恋愛そのもの自体にはらまれている偶然性であり非合理性であろう。

 とすれば、そのような偶然性に支配されている恋愛に、さまざまな占いやジンクスがともなっているのも不思議ではない。恋い占いに熱中する男女があれば、その一方で別れにささやかな理由づけをしてくれるジンクスも必要なのかもしれない。水の上に浮かぶ木の葉のような不安定な状況では、タロットカードの恋い占いに願いをかける少女もいるだろうし、弁天さまの嫉妬に別れの原因をみつけて苦笑する男の子がいてもおかしくはないであろう。

 投稿中で、別れ伝説を取りあげた資料も紹介された。
《カップルが別れるといわれる場所についての噂を、弁天さんなどの女の神様に起源を求めたりしていますが、おもしろいのは噂を集めたデータです。関西では嵐山・エキスポランド・ポートピアランドなど、東京近辺では井の頭公園・東京ディズニーランドなど、あと伊勢神宮などがあげられています。ボートがあるというのがキーになっているでのはという推理をされています。》

 この資料にはまだ直接あたる機会がないが、ボートのある場所という指摘は興味深い。前にあげたジンクスのある場所をざっと見わたしても、ほとんどが水とむすびつけることができる。そして、その多くには遊覧用のボートがあるようだ。さきに恋愛心理を水にただよう木の葉にたとえてみたが、ボートそのものが木の葉と見なすこともできる。恋愛の不安定な心理状態とボートをむすびつけるのも、ひとつの視点ではなかろうかとおもう。

 冒頭に掲げた「宝ヶ池縁切り伝説」は、まさしくこれらの条件にぴったり当てはまる典型的な「縁切り伝説」だったのである。

2021年5月17日月曜日

#京の都市伝説・探求#【01.深泥池の消えるタクシー女性客】

京の都市伝説・探求【01.深泥池の消えるタクシー女性客】


 かつてネットで(インターネットより前のパソコン通信の時代:1990年ごろ)、都市伝説を蒐集する試みに参加した。その時の成果は、私が整理して公開してある。その中に、京都にまつわる話が幾つもあった。それらを再構成して、取り上げてみようと思う。
 《》内は投稿者による記述の引用です。

「深泥池(みぞろがいけ/みどろがいけ)の消えるタクシーの女性客」

《深夜、京都市北部の深泥池の先を指定する女性客が、深泥池付近を通りかかると消てしまいシートが濡れている、という話。類似の話は、各地にありますね。》

 「深泥池伝説」は、まず典型的な「タクシー伝説」として投稿にあらわれた。そしてそれに現代の舞台背景と今日的な解釈をしめす投稿がつづく。

《「深泥が池」は、名前からしておどろおどろしいですね。古代からの植生群などが残っていて、底無し沼のような不気味な雰囲気が漂っています。あそこに生えているジュンサイ(字が判らない)は、トコロテンのような透明でヌメヌメしたものが茎のまわりに付いていて、味噌汁のミにするとオツな舌ざわりがなんともいえません。この水草を採りに池に入って、「泥」に引き込まれてしまった人が多いとも聞いています。夏の夜など、その「ヒトダマ」が植生群の間を漂うそうです。(蛍の見間違い、という説もあり)

 池の縁に沿った坂道を、北部の岩倉方面に向けて登っていくと、ひっそり閑とした病院があります。かつては結核療養患者の専用病院だったと思います。この病院で亡くなった人の亡霊が、深泥が池に「出る」という話しも聞いた事があります。「タクシーの女性客」は、病院が懐かしくて帰って来られるのかもしれませんね。シートが濡れているのは、もちろん「おもらし」ではなくて(^^;、池の水のせいでしょうね。》

 幽霊ということから、いまでも不気味な雰囲気をただよわせる深泥池と、その付近にある結核病院が結びつけられる。この付近の地理を知っている人々にとっては、さしあたって妥当な結びつきであろうとおもわれる。さてここで、さらに「深泥池の古伝説」が登場する。

《中世から江戸期に盛んだった説教浄瑠璃に「をぐり」というのがあります。小栗判官の物語でその一部を紹介しますと、

 小栗殿は、つひに定まる御台所のござなければ、・・・鞍馬へ参り、定まる妻を申さばやと思ひ、二条の御所を立ち出でて、市原野辺の辺りにて、漢竹の横笛を取り出だし、・・・・半時がほどぞ遊ばしける。深泥池の大蛇は、この笛の音を聞き申し、・・・・十六・七の美人の姫と身を変じ、・・・・と、深泥池には、昔からこういう類が住んでおったということです。

 なお、深泥池は天狗でお馴染みの鞍馬への途中であるだけでなく、現在も丑の刻参りに訪れる人がいる貴船神社、憑き物を落とすことで知られる岩倉観音の道でもあります。ちなみに、岩倉観音の周囲には、憑き物を落とす人を泊めたり、あずかる所が立ち並び、後に近代医学の導入にともない、それらの宿は病院に商売変えしたということです。深泥池はそういう所です。》

 「現代の深泥池伝説」を語りあう人々には、かならずしもこの古伝説が意識されているわけではないだろう。しかし民衆の意識の底にある古伝説が、現代深泥池伝説と重なりあって噂の重層的な立体感をかもしだしていると考えることはできる。

 「深泥池の大蛇」は何を意味するのであろうか。深泥池は、かつての都の外の東北部に位置し、洛外にあたる。かつて都から排除された一族の、なれのはてなのかもしれない。いずれにしても、「形をとりきれない生命」であることはまちがいないであろう。

 引用の後半にあるように深泥池の後背部には、都から排除されたものどものまさに魔界の巣窟といってよいような空間がひかえている。すぐ奥の岩倉には戦前から精神病院があり、京都の住民にはよく知られている。すぐそばの結核病棟よりも、さらにいっそう排除された人々が押し込められたことであろう。

 ここで現代の「肉体と精神」の主題が背景に浮かび上がってくる。「形をとりきれない生命」は、かつて「肺病やみ」とされ遠ざけられた肉体や、「気ちがい」として排除された精神であった。しかし現代ではもはや「排除」という手法はかぎりなく無効化されつつある。エイズや癌はいわばわれわれの細胞そのものの病いであり、排除するならば原理的にはわが身そのものをも排除しなければならない。精神の病いにおいても、正常なはずのわれわれの精神との境界はほとんど取り払われつつある。

 ミシェル・フーコ流にいえば、近代理性は「狂気」を排除することにより、はじめて「正常な理性」という形をとり得た。「明瞭な形」をとるためには、排除が不可欠であったのである。そしてその手の内が暴かれつつある現代では、安直な排除の手法は使えない。さらには上述したように、現代人にとって排除は原理的に不可能な手段であることもあきらかになりつつある。

 となれば、われわれ現代人は「形をとりきれない生命」として大都会をさまようほかないのであろうか。小栗判官の笛の音にさまよいでる深泥池の大蛇は、われわれ自身のうつし身かもしれないのである。

 なおのちに私が聞いた話では、下賀茂方面から深泥池に向かう手前に、かつて「グリル池」という喫茶と軽食を提供する店があり、この店はタクシー運転手が昼食などに立ち寄る穴場となっていた。そこでのある運転手の経験談が、タクシー運転手間の口コミとして広がったということである。

#京の食べ物探索#【12.年の暮れ餅つきと正月の雑煮】

京の食べ物探索【12.年の暮れ餅つきと正月の雑煮】


 京都の実家での子供時代には、毎年、師走の暮れ30日になると、家族総出で自宅の土間で「餅つき」をすることになっていた。朝早くから家族で準備をし、「おくどさん(カマド/竈)」に「せいろ(蒸篭)」を何段にも積み上げて、もち米を蒸し上げる。

 蒸しあがったセイロの餅米を、木または石の「うす(臼)」の上にひっくり返して、父親や兄が「きね(杵)」でつく。きねの合間に、脇で餅に水をつけたり返したりする役目は「てもと(手許)」と言っただろうか、母親や祖母の担当だが、ベテランでないと手をつかれたりする。たまに子供も餅をつく真似事をさせてもらった。

 なお、手許は杵でつく人に平行に位置しないと、写真のように対面でやると頭をどつかれてしまうでw


 つき上げた餅は、基本は小さくちぎって「丸餅」に丸める。「ふね(舟)」と呼ばれる木枠の平べったい長方形の入れ物の上に、片栗粉をひろげて、ちぎったり丸めたりするのは子供や老人の仕事。まれに、ひと臼分は平たく広げた「のしもち」にして、数日後に「角餅」に切る。同じ「のしもち」でも長細く棒状に伸ばして、色粉などで色付けした「のし餅(なまこ餅)」もつくる。これは薄く切って、干して乾燥させて「かきもち」にする。

 最後のひと臼で「鏡餅」をつくる。これはベテランの大人でないと形を作るのが難しい。三段重ねの上に「だいだい(橙/小さめの柑橘類)」を乗せて奥の「床の間」に飾る。餅つきの途中で、ちょいとした腹ごしらえに「おろし餅」を食べるのも楽しみ。つき上げた臼から、つき手が一口大にちぎった餅を、大根おろし醤油の鉢に投げ込んでくれる。熱々の餅を、おろし醤油で冷やしながらパクつく。餡やきな粉でくるむ「おはぎ」もあった。

 さて本題は、丸餅と角餅の分布である。おおむね見当をつけていた通り、西日本は「丸餅」・東日本は「角餅(切り餅)」であった。

 さて年が明け、元旦には「お雑煮」を食べることになる。この雑煮にも、丸餅・角餅の違いに加えて、それを焼いて入れるかそのまま煮込むかの違いがあり、さらには「味噌仕立て」か「すまし仕立て」かの分布がある。その味噌でも、京都では白味噌仕立ての汁で食べるが、場所によっては田舎味噌や赤味噌などもあるかもしれない。

 七日正月には、すまし汁に水菜を入れて、白餅を煮たものを食べた。七草粥の変形なのだろうか。この頃になると、鏡餅を割ってしまわないと固くなってどうしようもなくなる。すでに赤カビ青カビのついたのを削りながら割るのはかなりの力仕事だった。

 京庶民の雑煮はこんなもん。昆布だし白みそに、大根と金時人参煮て、丸餅いれる。

  初雑煮 寝ぼけまなこに 昼すぎて   何爺



2021年5月16日日曜日

#京の食べ物探索#【11.メロンパンとサンライズ】

京の食べ物探索【11.メロンパンとサンライズ】


 全国的にパンを販売している山崎パンなどは、円形で表面にはクッキー風の砂糖でパリッとした皮がのっているものを「メロンパンA」として販売している。全国的にも、大半はこの円形のものをメロンパンと認識されていると思われる。

 ところが私が子供の頃、京都の北区地域で買って食べていたメロンパンは、これとはまったく違って、ラグビーボールを半分に切ったような紡錘形で、皮はソフトなカステラ風、中には白餡が少し入っているものが多かったと思う。

 実はこの形のものを「メロンパンB」と呼ぶのは、京都や神戸あたりに限定される。関東はじめ多くの地区では、円形タイプが圧倒的である。しかし円形のものは、京都や神戸では「サンライズ」という名称で売られている。(A/Bは便宜上、区別するために付加している)

 もともと二つのタイプのメロンパンは、戦前に神戸で最初に焼かれたとされている。どちらが先か不明だが、メロンパンBとサンライズ(=メロンパンA)は、まったく別ものとして作成された可能性が強い。現在のサンライズ(メロンパンA)は、表面の皮に格子状の模様が付けられているが、当初は放射状の線が描かれていたと言われる。つまり、日の出の光を模したので「サンライズ=sunrise」というわけである。

 同様の二つのタイプが京都でも普及しているのは、冒頭の私の経験からも事実である。興味深いのは、それが何故か大阪抜きで、京都に飛び地しているところであるが、その理由は不明だ。そのヒントになるのは、神戸や京都が、パン消費量が全国トップレベルで、その分布が「サンライズ/メロンパンB」の分布と、ほぼ重なるということである。

 全国制覇している山崎パンが、サンライズタイプのをメロンパンと称して売っているので、殆んどの地域の人が、これを「メロンパン」だと思い込んでいる。しかし、パン食先進地域の神戸・京都では、すでに「サンライズ/メロンパンB」という二通りのパンが普及していたので、紡錘形のメロンパンも健在であるというわけだ。

 ここで疑問となるのは、今のマスクメロンとは似ても似つかない、紡錘形のパンが何故メロンパンとして売り出されたのかという点だ。戦前は当然のこと、昭和30年代ごろまでは、メロンというのは最高級フルーツで、果物店では雛壇の最後部にメロン一個だけが鎮座するような世界だった。われわれ庶民の子弟には、とても食べられる果物ではなかったのだ。

 そして「庶民のメロン」として食べたのは、マクワウリであり、黄色い紡錘形にウリ坊主のような縞があるものだった。まさしく「メロンパンB」の原型そのものである。その後、戦後の輸入自由化とかに連動して、マスクメロンやバナナなどの輸入関税が取り払われて、庶民の手に入るようになった。

 そして、サンライズの皮柄も放射光から格子状に変更され、マスクメロンの形状となった。いまやマクワウリを知る世代もほとんどなく、メロンパンと言えば円形格子柄のメロンパンとなったわけである。神戸や京都でも、紡錘形メロンパンを知っているのは、団塊世代あたりまでではないだろうか。

 メロンパンとサンライズの分布や、その歴史を詳細にたどった記事を紹介しておく。

2021年5月15日土曜日

#京の食べ物探索#【10.京のお好み焼は・・・】

京の食べ物探索【10.京のお好み焼は・・・】


 遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、香炉峰の雪は簾をかかげてこれを看る。京のお好み焼はコテで喰う(笑)

 大阪が中心の関西風お好み焼きと、広島中心の広島風お好み焼きがあるのは有名だが、京風お好み焼きというのが、明確にあるわけではない。京風を名乗るお好み焼き店の説明を見ても、結局は「京都に店がある」というところに行きつくしかないようだ。

 関西風のお好み焼きは、いわゆる「練り焼き」が特徴で、少し硬めに練った小麦粉にキャベツやブタ・イカなどの具材を乗せ、それを練りこんだものを鉄板に広げて焼く。一方、広島風は「重ね焼き」が基本で、薄めにといた小麦粉をクレープのように鉄板に広げ、その上にキャベツやブタ・イカなどの具材を重ねのせてゆく。さらに上に、ゆるめの下地を軽く回しかけて、それから裏返す。

 広島焼には、その上に焼きそば麺を乗せて焼くのが必須と言われているが、それは近年になってからで、あくまで広島焼の特徴は、具材をかさね乗せて生地をかけてボリュームたっぷりなものを裏返し、生地でふさぐようにして、いわば具材を蒸し焼きにするところにあり、薄めの生地がとろみを残しているという食感にあると思われる。

 京都のお好み焼き専門店も、関西風の練り焼きを基本としながらも、それぞれの独自性を打ち出そうとして、いまや千差万別、さらにマヨネーズでデコレーションすることで、何が何やら分からなくなっている。仕方がないから、京都市内北部で育った私が、半世紀以上前の子供時代に食べた「京風お好み焼き」の様子を記述しておく。当然ながら、これをもって京風お好み焼きの代表と称するつもりは、まったくない(笑)

 店には、鉄板付きの4人掛けテーブルなどがあり、それに座って注文するが、出てくるものは、カップにメリケン粉を固めに練った生地を入れ、その上にキャベツなどのカット野菜、その上に豚やイカといった具が乗せてある。

 天かすや紅ショウガやネギなどは、脇のカップから好きなだけトッピングする。そして、柄の長めのスプーンでコネコネして、まるく鉄板に広げて焼く。この時、あまり平べったく押し付けないで、厚めに焼くのがコツ。片面が焼けたら、手のひら大のコテで、裏返してまた焼く。最後に表がえしてソースを塗る。

 脇のソースカップには、甘めのとんかつソースと辛めのウスターソースが2種類、あと青ノリ・カツブシ粉はかけ放題となっている。そして焼きあがったら、そのまま鉄板の上で、コテでカットしながら口に運ぶ。待ちきれないガキとかは、一部を切り取って、鉄板に押し付けて先に食べたりする。焼きあがっても皿に移したりはしないが、頼めば小皿や割り箸ぐらいは出してくれた。

 壁には手書きのメニューがあり、ブタ・イカがメインで、ほかに牛肉・エビ・タコ・牡蠣などにミックスなどもあるが、何のことはない、カップの上に乗せる具が違うだけなのである。街なかの店舗付き木造住宅が多く、主婦の小太りのオバサンなどが一人で切り回していることが多い。小料理店や一杯飲み屋を切りもりするほど才は無さげな、素人風オバサンが多かったような気がする(笑)

 夕方になると、もっぱら部活帰りのニキビ面中高生たちで賑わう。

2021年5月13日木曜日

#京の食べ物探索#【09.たこ焼きとキャベツのお話し】

京の食べ物探索【09.たこ焼きとキャベツのお話し】


 京都では、たこ焼きにキャベツをたっぷり入れる。子供の頃、近くの神社の境内で、毎日屋台でたこ焼きを焼いていたオバサンは、確かにキャベツを、焼き面に広げるように入れていた。そしてタコをひと切れ乗せて、焼き面をひっくり返してゆく。

 たこ焼きとはそういうものだと思い込んでいたが、たこ焼き器を購入して自分で焼いたりし出して、いろいろ調べてみると、たこ焼き発祥の大阪・神戸を始め、京都・滋賀以外の関西地方では、キャベツを入れないらしい。

 たこ焼き本場の大阪では、たこ焼きにキャベツを入れないで、中のとろみを楽しむのが本物たこ焼きであって、キャベツを入れるのは邪道だということになるらしい。しかし、たこ焼き後発の関東を始め、他の多くの地域はキャベツを入れる。これは何故なのか。

 柳田國男の「蝸牛考」によると、都に発生した新しい言葉は、水紋のように同心円を描くように全国に広がってゆくと言う(方言周圏論)。同様にたこ焼きも、大阪で始まった関西一円に広がった。ところが京都では独自の発展をとげ、キャベツを入れて腰のあるたこ焼きとなった。

 そうすると、大阪発のたこ焼きは関西を周縁として止まり、京都のキャベツ入りたこ焼きが、その他のたこ焼き不毛の地に展開していったのではないかと考えられる。

 大阪は、たこ焼きのひな型である「明石焼き」の影響を、色濃く残している。明石焼きは、卵中心の生地にタコを一切れ入れるだけで、他の具は入れない。大阪のたこ焼きも、小麦粉を出汁で溶いた生地に、タコだけ入れて焼くものもある。他のものを入れても、せいぜいが紅生姜、天かす、刻みネギなどで、主要な具というよりもトッピングに近い。

 一方で、キャベツを入れるたこ焼きは、明石焼きの影響の無い地域で発生し、むしろ、キャベツをたっぷり入れるお好み焼きの影響ではないかと思われる。

「たこ焼きキャベツ論争」
http://kitchen-tips.jp/29001

(付記1)2022.04.11
 大阪のたこ焼きは明石焼きが発祥かと思っていたが、先ほど、大阪のたこ焼き屋の原型は会津から伝わったという指摘を受けた。本文はそのままにして、注記しておく。

(付記2)2025.06.04 (AI_Geminiによる生成)
たこ焼きのルーツは、いくつかの要素が組み合わさって誕生しました。

1. ラヂオ焼き(ラジオ焼き)
たこ焼きの直接の前身とされているのが「ラヂオ焼き」です。昭和初期の大阪の屋台で流行していました。これは、たこ焼きと同じように丸い鉄板で焼かれたもので、当時はタコではなく、牛すじやこんにゃくなどを具にしていました。「ラジオ」が当時最先端の技術で、その響きからモダンな食べ物として名付けられたと言われています。

2. 明石焼き(玉子焼)の影響
兵庫県明石市には、古くから「明石焼き(地元では「玉子焼」と呼ばれる)」という食べ物があります。これは、卵をたっぷり使ったふわふわの生地にタコが入っており、だし汁につけて食べるのが特徴です。

3. 「会津屋」の遠藤留吉氏による考案
昭和10年(1935年)、大阪でラヂオ焼きの屋台を営んでいた「会津屋」の初代・遠藤留吉氏が、お客さんから「明石ではタコを入れている」という話を聞いたことをヒントに、ラヂオ焼きの具をタコに変えてみたのが始まりとされています。遠藤氏は、小麦粉を醤油味のだしで溶くというアイデアも取り入れ、「たこ焼き」と名付けました。

まとめると、たこ焼きの誕生は、以下の要素の融合と言えます。

*ラヂオ焼き:丸い形で焼くという調理法と、屋台で手軽に食べられるスタイル。
*明石焼き:タコを具材とするアイデアと、卵を使ったふわふわの生地のヒント(会津屋のたこ焼きはだし味で、何もつけずに食べるスタイルが元祖です)。
*会津屋の遠藤留吉氏:これらを組み合わせて「たこ焼き」として完成させ、広めた功績。

このように、たこ焼きは既存の食べ物からヒントを得て、試行錯誤の末に生まれた、大阪を代表する「粉もん」として発展していきました。