2024年12月29日日曜日

#京都回想記#【43.新しいデパート部長との確執】

京都回想記【43.新しいデパート部長との確執】


 1976(昭51)年の秋に上司のデパート課長が転勤になり、あらたにデパート部長が転任してくることになった。新規に上司となる部長は、同期の中でトップを切って部長昇格ということで、どんなキレ者なのかと期待していた。着任してその下で働いてみると、どうやら人間関係だけでここまで成り上ってきたようだった。何より、本社のデパート部長という超えらいさんに取り入ってのし上がってきたという噂が、我々にも届いてきた。

 




2024年12月26日木曜日

#京都回想記#【42.担当店が変わる】

京都回想記【42.担当店が変わる】


 仕事が順調に進み、他社のセールスとも店頭で会話することも多くなった。担当でうろうろしていても、とりたてすることも無いので雑談を交わすことが多い。K社の担当が課長代理というベテランに変わったが、その課長代理と両者のコーナー前での立ち話では、この売り場はおたくとうちで成り立ってるようなもんですな、と彼がいうぐらいで、店の担当主任の影が薄くなるほどメーカーサイドで仕切ることが多かった。

 1975(昭50)年の秋のキャンペーンの時期になると、2年後輩が入社してデパート課に配属されてきた。新規セールスマンをトップ百貨店を担当させて鍛えるという方針で、彼がD百貨店担当になり、私は中堅デパート2店の担当に変わった。京都駅前のM百貨店と、四条寺町のF百貨店で、M店は老舗でゆったりとしたスペースがあるが、駅の乗降客を動員できないで売上げ不振に悩んでいた。F店は店舗規模が小さくて五十貨店と自称し、ファッション衣料品に特化していた。

 売り上げが小さめの2店舗担当となったが、M店が主で、F店はあまり商談も少なめなので、美容部員任せができた。M店は老舗であっても集客力が弱いので、店側の担当従業員も出入り業者に対して腰が低く、フランクに対応してくれて居心地がよかった。M店は会社からも歩いて行ける距離だったので、会社が居心地の悪いときには息抜きに行けるぐらい気楽な場所だった。


 担当店が変わった翌年1976(昭51)年の春のキャンペーンは「恋のミルキーオレンジ」というタイトルで、CMソングはピンポンパン体操という幼児番組で使われた、りりィの「オレンジ村から春へ」だった。化粧品売り場にはイベントスペースがあって、そこで各メーカーが交代でデモンストレーションを行うことになっていた。

'76年春 「オレンジ村から春へ」/りりィ
https://www.uta-net.com/movie/333205/4R83CE_0kfU/

 あるとき通勤の帰りのバスで、高校時代の同級生とであった。彼は京都の工業系国立大学を卒業したにもかかわらず、脱サラで花の仕入れ販売をやっているという。そこでバスの中で、花を売り出しの企画に使う相談がまとまって、資生堂のデモ期間中は、彼が持ち込んだ鉢植えの花でコーナーを一ぱいにした。それを化粧品の買い上げの景品としたので、結構な売り上げになった。

 秋のキャンペインは、シンガーソングライター小椋佳の「揺れるまなざし」がタイアップソングとなり、すぐにレコードもヒットした。この時も、M百貨店店頭でキャンペーンデモをやったのだが、売り場にはビデオが流せる装置があって、CMビデオなどを流していた。ところが、たまたまNHKで小椋佳の特別番組を放送したのを、美容部員の一人が録画してきて、そのビデオ装置で流したらしい。

'76年秋 「揺れるまなざし」/小椋佳

 店側に、客側に向けて番組ビデオを流したことが著作権法に違反する、との匿名のチクリ手紙が届いた。美容部員はよかれと思って流したのだろうが、私の知らない時のことなので、仕方なしに上司のデパート部長と二人で、NHK京都支社に謝りに行った。先方は「〇〇担当主査」などといった名刺を出したが、一般企業の役職と違う名称を使っているので、どれぐらい偉いのかも分からず、とりあえず二人で頭を下げて帰った。

2024年12月25日水曜日

#京都回想記#【41.新米セールスにも、やっと春が】

京都回想記【41.新米セールスにも、やっと春が】


 年が変わって1974(昭49)年になっても、状況は改善しなかった。さらに百貨店側の売り場改装計画が告げられ、これまで化粧品売り場は一階の入り口に近い一等地にあったのだが、改装ではより奥になってしまう計画であった。それ自体はわれわれ業者側からとやかく言えないので、移動後の化粧品売り場で、少しでもましな場所取りをするしかなかった。

 結局、改装オープンしたのは10月ぐらいだった。売り場はきれいになったが、奥まった分、客足は少なくなった。そして私の仕事も、一向に改善の兆しは見えなかった。沈んだ気分が続いて鬱が再発しそうになり、不安神経症から店に入れなくなって、裏の公園で缶ビールを飲んで誤魔化したりしていた。

 状況が一気に好転したのは、翌、1975(昭50)年の春のキャンペーンの時期だった。キャンペーンのタイトルは「彼女はフレッシュジュース」というもので、口紅にオレンジカラーを訴求しているが、コピーとしては陳腐に感じた。しかしリリィの歌うCMソングは、私にとっては、やっと春が来たという心情を思い起こさせるものとなった。

 状況が変化した要因は、なによりもチーフを変えてもらったことだろう。それまでのチーフを「ビューティコンサルタント」として名目上格上げして、他の店のサブチーフをしていた一歳若い美容部員を「チーフ」に抜擢した。元チーフも同じ売り場の仕事だから、新チーフの彼女にはやりずらかっただろうが、キリっと売り場を仕切って、こちらの指示もその意図をくみ取ってきちんと進めてくれた。

 「彼女はフレッシュジュース」のCMソングは、CMの一節しか流されなかったが、CM放映後、問い合わせが殺到したため、あらためて「春早朝」としてレコード化された。その後、化粧品などの「CMソング」は、企画段階からレコード化を前提として「イメージソング」として発表されるようになった。以後、毎年のようにCM曲からヒット曲が生まれるようになった。

'76年春 「オレンジ村から春へ」/りりィ
'76年秋 「揺れるまなざし」/小椋佳
'77年春 「マイピュアレディ」/尾崎亜美
'77年夏 「サクセス、サクセス」/宇崎竜童&ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
'78年夏 「時間よ止まれ」/矢沢永吉
'78年秋 「君の瞳は10000ボルト」/堀内孝雄
'78年冬 「夢一夜」/南こうせつ
'79年夏 「燃えろいい女」/ツイスト
'79年秋 「微笑の法則」/柳ジョージ&レイニーウッド

 当時、資生堂の宣伝広告費が100億円前後、レコード業界全体のの宣伝広告費がほぼ同じの100億円前後で、つまり、全レコード会社の宣伝広告費が資生堂一社の宣伝広告費に及ばないというわけだから、タイアップ企画の曲がヒットするのは間違いなかった。だがしかし、オイルショックの後には高度成長は終局を迎え、CMのヒットは、一向に化粧品の売り上げに寄与することはなかった(笑)




2024年12月23日月曜日

#京都回想記#【40.やっと営業に出たけれど】

京都回想記【40.やっと営業に出たけれど】


 1948(昭73)年8月21日から、資生堂では秋のキャンペーンが始まった。この年は「影も形も明るくなりましたね。目」というタイトルで展開された。春のキャンペインはリップスティック、秋はアイメイキャップとほぼ決まっていた。ちょうどこの時点で、営業部に配属されセールスマンとなった。

CF「図書館」杉山登志

 セールスマンといっても、あちこち飛び込み営業するわけではなく、販売契約を結んでいるチェーンストアを巡回する、いわゆるルートセールスである。ただし自分は百貨店を担当するデパート課に配属されたので、京都で売り上げトップだったD百貨店の担当になった。チェーン店なら20店ぐらい担当するのだが、大型百貨店なのでたった一店の専属担当みたいになった。

 売り場の資生堂コーナーは柱巻き一区画があてがわれ、接客は資生堂が派遣する美容部員でまかなわれる。チームは10名ほどの美容部員で構成され、そのリーダーはベテラン美容部員でチーフと呼んでいた。それを率いるのが担当セールスということになるが、直接化粧品の接客販売にはたずさわれないので、店側との折衝などもっぱら後方支援の裏方仕事となる。

 当時の化粧品売り場は、一階の奥まったスペースをしめていて、売り場には男性客は皆無で、店側の売り場主任や各メーカーのセールスマンぐらいなので、慣れるまではいづらかった。若い女子ばかりの華やかな職場と思われるが、実際に働くとなるとかなりシビアな世界だった。美容部員たちが働きやすい環境を作るのがセールスマンの仕事だが、こちらは営業に出たばかりで、さっぱり要領が分からない。

 美容部員たちは、担当セールスマンの仕事ぶりはシビアに見つめている。とりわけチーフ美容部員との連携は重要で、彼女との相性が悪いとチームの統率が取れなくなる。セールスに出たところで、店側の担当主任やレジ担当の社員などともコミュニケーションがとれず、起こるトラブルの対処にも慣れていない。それがチーフには耐えがたかったようで、こちらの意向はまったく伝わらない。

 担当セールスの方が指揮ラインでは上位のはずだが、こちらが美容部員に代わって接客販売するわけには行かないので、チームの指揮権は事実上はチーフが握っている。そのチーフとのコミュニケーションが取れないので、こちらの仕事がまったくうまく行かなかった。中堅以下の美容部員は、個別には愛想よく対応してくれるのだが、チーフの目が届くところでは、まったくそっぽを向くのだった。

 そうしているうち年末にかけて、第一次オイルショックが襲って来た。ティッシュの買いだめ騒動だけではなく、化粧品も品切れを起こし、店頭に並べる化粧品も無くなった。もはや売り上げノルマ達成どころではなくなってしまった。品切れ商品をなんとか調達してくる要領も得ず、新米セールスマンは右往左往するばかりだった。

#京都回想記#【39.やっと卒業、社会人となる】

京都回想記【39.やっと卒業、社会人となる】


 何やかやとありながら、やっと大学を卒業することになった。留年したため同期卒業生に知り合いもいないので、卒業式には出なかった。卒業証書は後輩に頼んで、ゼミの研究室に放り込んでおいてもらった。就職先は化粧品の資生堂に決まっていた。5年生になった4月ごろには大手の採用はほとんど決まるのだが、自分は今回も就職活動はスルーしたままでいた。一般の会社には入りたくないので、マスコミや広告代理店は採用試験が5月ごろになるので、それまで待っていたわけだ。

 しかし、それらは競争が激しく、ほとんどが一次のペーパーテストで落とされた。一般の企業はほぼ内定済みだったので、また新保教授に頼みに行った。新保先生は手元に来ていた求人をいくつか示してくれた。多くが製造業大手だったが、唯一、消費者と接点がありそうな会社が資生堂だった。そんなわけで、資生堂の面接を受けて内定をもらっていた。

 いくつか面接を受けた会社では、必ず留年した理由を訊かれる。体育会系の部活などに打ち込んで留年したとかいえば、むしろプラス評価になるのだが、自分は、下宿でごろごろ寝てましたと答えて、ほぼ落とされた。しかし資生堂の面接では、どんな仕事をするか考えてますかと問われて、営業職だと思うが、具体的にはどんな仕事になるんですか、と質問を返したら、その面接官は丁寧に説明してくれて、それだけで面接時間が終わり、留年理由は訊かれなかった。それが内定をもらえた理由だと思っている(笑)

 1948(昭48)年4月に資生堂に入社。それまで資生堂という会社は、テレビCMなどで見るだけで関心を持っていなかったが、いざ入社が決まってみると、華やかで女性も多い楽し気な会社だと思うようになった。配属は京都支社(販売会社と呼ばれていた)となって、いざ入社式に臨んだ。兄が就職祝いに作ってくれたスーツを身にまとい、資生堂の男性化粧品MG5でしっかり整髪して、入社式会場への階段を上っていると、ベテラン美容部員たちの数人のグループとすれ違った。

 すれ違いざまに、そのうちの誰かが「クッサ」とつぶやいたのが耳に入った。よく知らなかったがMG5はすでに低価格帯の商品で、新入社員が安物で出社してきたな、というベテラン美容部員のさっそくの洗礼だったわけだ。その入社式の帰り道、化粧品店に飛び込んで、さっそくワンランク上のシリーズ「MG5ギャラック」を買うことにした。

 資生堂は全国に販売会社があるので、どこに配属されるか分からないのだが、運よく京都支社に配属されたので、自宅から通勤できる。入社から半年は商品課に配属される。商品倉庫で出荷作業にたずさわりながら、数千点もある化粧品を憶えるためだという。ワゴン台車を押して、商品棚から口紅など幾つも品番のある小物をピックアップする。退屈な仕事だが、半年のことだと思って我慢した。

 一日の出荷作業が終わると、毎日全員で棚卸を行う。伝票上と実在庫が合わないときには、全員で棚の下などに落ちていないか探す。たとえ千円の口紅一本でも、商品課員、残業になっても探す。どう考えても非合理的だと感じて、商品部長に言うと、それは信用のためのコストだという。毎日、化粧品店に商品を配送するが、店頭で検品する手間を省いて、店にも信用して了解してもらってるからだそうだ。毎年、大卒の新入社員が入ってくると、必ずそういう文句を言ってくるよ、と、商品部長は笑った。

2024年12月20日金曜日

#京都回想記#【38.学生生活は5年目に】

京都回想記【38.学生生活は5年目に】


 留年が確定して大学5年生となった。さすがに親の負担も減らさねばならないので、神戸の下宿は引き揚げて、実家から学校に通うことになった。阪急電車で十三乗り換え、片道2時間の通学時間になるが、取り残した卒業単位の半年分を一年を通して取ればいいので、通学する日にちも少なくて済む。その分バイトに費やして、親の負担を減らそうと考えた。実際、両親に負担してもらっていたのは、おもに下宿代と生活費であって、学費そのものは年間12000円、月当たり1000円と言う時代だった。

 卒論は通っていたのでゼミ演習には出なくても良いのだが、議論は楽しいので新保先生に頼んでオブザーバーとして参加させてもらった。取り残した卒業単位は、ほとんど文学部でとることにした。ディスカッション形式の演習講座は、好きなことを言えるので通常の講義より楽しいのだが、文学部での講座数は少なかった。そんななかで、国文学演習という講座を受講した。

 このことは前に書いたのだが、担当は谷崎や三島を専門に研究している教官で、私の担当発表する回では、谷崎の初期作品を取り上げ徹底批判した。ふと気が付くと、並びの席の女子学生が熱心に注目していたようだった。帰り際に声をかけてみた。聞いてみると、阪神間にあるKg大学をすでに卒業していて、文学に興味が尽きないので、神大文学部の講義に潜り込んでいるのだという。

 そんなわけで、あらためてデートすることになった。鬱からの回復期に放浪した奈良の西ノ京のひなびてのどかな街を、ともに歩いた。道の真ん中に大木があって、そのわきに小さなお堂が建っていた。特に何かに使われている気配もなく、中はがらんどうだった。そこで自然の成り行きのように口づけをした。ちぃとロマンチックなシーンではあったw

 けっこう積極的に、彼女をあちこち連れまわした。神戸の繁華街をうろついたあと、夕方になって大学のキャンパスに上った。キャンパスは六甲山の中腹にあるので、芝生に寝転んで神戸の百万ドルの夜景が眺められる。彼女は口づけまでは許したが、それ以上は毅然として拒否した。良家の身持ちの固いお嬢さんというとこか。

 留年してのこの5年生の時が、もっとも大学生活を楽しんだのかもしれない。夏休みになると、さっそく京都でバイト先を見つけた。女性下着を主とする衣料品を扱う大手アパレルの倉庫作業だったが、高校の仲間たちも多く集まって、なかなか楽しく作業をした。ここでも、事務の女子と仲良くなって、しばらく付き合った。

 夏休みが終わって5年時の後期が始ったが、卒業に必要な単位はほぼ取得したので、最終学期はほとんど京都でバイト三昧となった。広告の屋外看板などを設置する広告企画会社で、出張取り付けなどであちこちに出張するので、屋内作業でなくて楽しい。滋賀県の琵琶湖に沿った湿地帯に突如出現した、雄琴風俗ヘルス街などにも出張作業があった。

 建設中の「トルコ大阪城」の窓から、体を乗り出して飾り金具を取り付けていると、道を挟んですぐ向かいには「ヘルス江戸城」があったりした(笑) あるいは、京阪三条にあった高級キャバレー「ベラミ」の作業もあった。屋根裏に上がって「美空ひばりショー」の懸垂幕を垂れ下げる作業だったが、うっかり屋根瓦を踏み割ってしまった。

 表から見れば、壁飾りなどで覆われて気が付かないが、なんと木造3階建ての瓦屋根だった。しまったと思ったが、知らんふりして過ごした。美空ひばりショーの最中に雨漏りなどしたらえらいことだw このベラミは、その後、山口組三代目田岡組長の狙撃事件があった場所だ。田岡組長はひばりの後見人的立場で、そんな縁で京都に来た時には必ずベラミに立ち寄ったとされ、それで狙われたらしかった。

2024年12月19日木曜日

#京都回想記#【37.オバカなことで留年決定】

京都回想記【37.オバカなことで留年決定】


 卒業論文も無事に合格となって、4年の後期の試験を残すだけになった。卒業しても就職が億劫で、かといってこれと言って特別に進みたい道があるわけではなかった。そんな感じで4年生を過していたので、最終期には多くの必要単位を残したままだった。最終学期に登録した科目の試験に、その多くを単位取得する必要があったが、まあ何とかなるだろうと考えていて、それで留年してもそれはそれでいいかもという状況だった。

 登録していた講義の中には、まったく興味が無く、授業にも一度も出てない科目もあった。それでも、試験かレポートに通れば単位をくれる。そんななかで、試験の課題を事前に公表する教官も多かった。そうやって単位を取らせようという思いやりなのかもしれないが、そんな学生を甘やかす教官の姿勢を、けしからんと思って私自身は嫌悪していた。

 事前に設問を公表するといっても、通常は3問程度黒板に書いて、ここから1問だけを当日に提示するというパターンだった。ところが私が一度も出ていない講座では、たった1問だけ示して、それを当日の問題とするという教官があった。さっそく下宿先の後輩からは、その模範解答がまわってきた。それを数分間読んで、それを答案用紙に書けば単位になるというバカな話で、学生をバカにしてるというような義憤さえ持った。

 まあ卒業単位にゆとりが無いから、取れるもんなら予備に取っておいてもいいかなと思った。ただ、憶えて行って試験場で書くということさえウザく思ったので、別の試験のときに大学のロゴの入った用紙を予備に取っておいて、事前に下宿で書き写したものを、当日の試験教室で提出しといた。

 試験結果の合否は、正門脇の掲示板に学籍番号だけ張り出される。登校した時にそれを見ると、合否とは別に、下記の学生は教務に出頭せよとかかれていた。当然思い当る節はあるので、あれまと思った。指定された日時に教務に行くと、教務担当の教授が個別に面接していて、あなたは試験当日にこの答案を書きましたか、と丁重に訊ねてきた。

 あっさり観念して事情を話たあと、ところで何で分かったんですかと訊ねると、こういうことがありそうだという意見があったので、当日の答案用紙だけは千枚通しで穴をあけておいたということで、なんともバカバカしい話だった。売春のおとり捜査みたいなもんですなと、面接の教授といっしょに笑った。

 不正行為の処置は教授会で、当期の試験はすべて無効とすると決定された。かくして、オバカなことで留年が決定した。自分自身はたいしてショックも受けず、多少はほっとした部分もあった。ただ、帰省して親にそれを告げるのは、さすがにつらかったし、兄にも叱責された。内定を取っていた石油会社にも電話したが、ハイそうですか、だけで終わった。