2025年6月2日月曜日

#郷土史散策#【11.京の七野と蓮台野】

郷土史散策【11.京の七野と蓮台野】



 平安京の内裏の北部に、「京の洛北 七野」と呼ばれる地域があったと言われている。「内野・北野・平野・上野・紫野・蓮台野・〆野(点野/しめの)」がそれ(若干異同あり)とされる。

 一方で、平安京以来の「三大葬送の地」とされる場所があり、それは「鳥辺野(とりべの・洛東)、化野(あだしの・洛西)、蓮台野(れんだいの・洛北)」とされ、源氏や枕草子にも出てくるから、まず間違いない。

 しかし、火葬・埋葬されるのはごく一部の貴族階層だけで、多くの庶民は「風葬・野葬」といって野辺に放置して自然風化にまかせられたようだ。「野」という言葉を付けて呼ばれる土地には、このような野葬の場という意味をもつものが多い。ただし、「禁野」として、天皇や上級貴族の狩り場として、囲い地にして一般人の狩猟を禁じた「野」もある。男子は馬上で鷹狩、婦女子は薬草摘みなどで行楽にいそしんだようで、紫野や〆野などはそれにあたる。

 蓮台野と紫野は隣接しているので明確に切り分けられないが、「蓮台野」は紫野の西にあたり、千本通を中心に紙屋川と船岡山の間とされるが、その南北の範囲は定かでない。現在地名として残っているのは「上品蓮華寺」と「蓮台野町」だけだが、これらは千本通の南北にわたって、かなり離れている。仕方なしに、千本北大路を中心にかなり広めに黄色楕円で囲っておいた。かなりの部分が紫野と重なっているのはご理解いただきたい。

「蓮台野散策」

 60年以上前のことだが、祖父が亡くなったとき(s31)、金閣寺の裏山方面にあった火葬場で荼毘に付した記憶がある。これを「かつての葬送地 蓮台野の名残であろう」と書いたが、紙屋川を越えてさらに左大文字の山をも越えた場所に、かつての「蓮華谷火葬場跡」が残されており、さすがに蓮台野とは無関係の場所だ。「蓮華谷」と「蓮台野」という地名が、子供の脳みそで重なり合ってしまったようだが、ただ広くこのあたり一帯が葬送と結びついていたとは考えられる。

 こうやって調べていると、「二十歳の原点」という日記を残して、嵯峨野線で鉄道自殺した「高野悦子」は、この「蓮華谷火葬場」で荼毘に付されたということが分かった。つまり昭和44(1969)年ごろは、まだこの「蓮華谷火葬場」が使用されていたということだ。このことは、高野悦子の父親 高野三郎さんの手記に記されているとのこと。

>取るものも取りあえず京都に飛び本人であることを確認したとき、「どうか誤報であってほしい」とのはかない一縷の望みも、もろくも崩れ去ってしまいました。翌日、赤旗なびき騒然たる京大医学部に安置された遺体を引取り、午後四時から洛西の衣笠山葬場にて家族と在京の友人たち十数人で涙ながらの最後のお別れをしました。すっかり灰となったまだ温かい骨箱を胸にだきしめたとき、あの娘は本当に死んでしまったのだという実感がヒシヒシとわき、これでやっと手許に帰ってくれたのだ、それにしても何と変わり果てた姿だろうと、あふれる涙はどうすることもできませんでした。<
 (注)衣笠山葬場とは蓮華谷火葬場のことを指す

 ところで現在、地名としては「東蓮台野町」と「西蓮台野町」があるのみだが、実は我が母校である京都市立旭丘中学校は、まさに「東蓮台野町」の大半を占めている。そして裏門を出て北山通の向こう側は、鷹峯街道にかけて「西蓮台野町」である。したがって「蓮台野」はこのあたりだろうという意識が強いが、実際には北のはずれに当たるようだ。

 あと、蓮台野に関しては、宮本武蔵と吉岡道場当主の吉岡清十郎の決闘の場として話題になる。武蔵の物語ではよく出てくるが、この決闘の件は武蔵の養子が記したもので、吉岡道場の方からは、まったく別の話になっており、史実かどうかは不明。さらに有名な「一条下り松の決闘」は、その汚名をそぐために、吉岡一門総出で武蔵に立ち向かったという話になっている。中学生の時、仲間たちと学校裏の畑に出て、「決闘の後、ここで武蔵は立小便をしたのやで」とかデタラメをかましてた(笑)

2025年5月30日金曜日

#京都回想記#【45.チェインストア担当にも慣れて、峠を越えれば天下】

京都回想記【45.チェインストア担当にも慣れて、峠を越えれば天下】


 丹波地域を担当して半年ほどで地域を把握、営業活動もうまく進むようになった。1978(昭53)年春には長男が誕生し、家族3人での団地生活となった。



1978(昭53)年、そろそろ30歳になろうかという年の4月に結婚し、中京区壬生の公団住宅で新世帯をもった。初めて北区の実家を離れ、まち中で生活をすることになった。学生時代に通学で利用した阪急電車の四条大宮にも近く、生活には便利な街で、堀川通に出れば市バス一本で会社まですぐだった。


「劇的な、劇的な、春です。レッド」(ベルばら実写映画に協賛/1979春)

「ナツコの夏」(1979年夏)

2025年5月18日日曜日

#京都回想記#【44.一般チェインストアに担当店が変わる】

京都回想記【44.一般チェインストアに担当店が変わる】


 1978(昭53)年、そろそろ30歳になろうかという年の4月に結婚し、中京区壬生の公団住宅で新世帯をもった。初めて北区の実家を離れ、まち中で生活をすることになった。学生時代に通学で利用した阪急電車の四条大宮にも近く、生活には便利な街で、堀川通に出れば市バス一本で会社まですぐだった。

 担当もデパートからはずれ、市内の量販店をすべて担当することになった。といってもデパート部の管轄は直契約の量販店だけで、一般化粧品店がテナントとして入ってる店は除外されるので、全部で10店ほどだけだった。直契約店は美容部員を派遣するので、店の作業は美容部員任せで、店側と折衝することもあまりなかった。

 「メローカラー」(1978春)

 先述したように、デパート部長とはソリが合わず衝突を繰り返し、まず閑職の量販店担当になったのだが、そこでも決定的な対立をしたため、秋にはデパート部そのものを追い出されることになった。1978(昭53)年の秋からは、一般チェインストアを担当する販売部に所属することになる。

 担当地域は、老ノ坂峠に向かう「千代原口」周辺と、そこから奥の「丹波路」(山陰道/R9)一帯だった。京丹波町のR9とR27の別れから先は、福知山の販売会社の管轄だが、もうそのあたりは化粧品店などない山奥だった。つまり京都支社の管轄では、もっともローカルな地域の担当で、それまでのデパートとは極端な違いだった。

 最初にデパート担当となった時もそうだったが、新しい環境にすぐに馴染めないタイプで、今回も自分のペースで仕事を進めるのに半年ほどかかった。担当店は郡部に散在するが、やはり主力は亀岡市内だった。なかでも売り上げが大きな店は、K店・M店・H店の三つだった。

 K店は、本店にキャリア十分の奥さんがどっしり構えていて、長男の若嫁が駅前の支店を担当し、さらに街道筋の公設市場内に雑貨中心の店があり、長男が担当するという分担だった。M店は、雑貨卸の老舗で外交は主人が営むが、奥さんは店の化粧品販売に専念している。H店は、駅前の大手スーパー内にテナントとして出店しており、一店としての売り上げは
いちばん大きかった。

「君の瞳は10000ボルト」(アリスの堀内孝雄がソロとしてリリース/1978秋)

 ともに亀岡中心街に隣接して店を構えているのだが、当然ながら仲はきわめて悪い。したがって、この3店をどう取り扱がポイントだった。それぞれの店に、ローカル固有の癖があり、当初の半年ほどは様子見で、それなりに手こずった。




2024年12月29日日曜日

#京都回想記#【43.新しいデパート部長との確執】

京都回想記【43.新しいデパート部長との確執】


 1976(昭51)年の秋に上司のデパート課長が転勤になり、あらたにデパート部長が転任してくることになった。新規に上司となる部長は、高卒同期の中でトップを切って部長昇格ということで、どんなキレ者なのかと期待していた。着任してその下で働いてみると、どうやらゴマすりの人間関係だけでここまで成り上ってきたようだった。何より、本社のデパート部長という超えらいさんに取り入ってのし上がってきたという噂が、我々にも届いてきた。

 当時、女形で一世を風靡した尾上菊之助(七代菊五郎)に似ているのが自慢で、取引先では「資生堂の菊之助です」などと言って名刺交換していた。デパート部には化粧品担当3人だけで、一年先輩で私が新米の時なにかと面倒をみてくれたHさんと私が、ほぼ現場を仕切っていたといってよい。ところが二人と新しい部長は、仕事の進め方でまったく意見が合わず、まったく言うことを聞かなかったので、一年後ぐらいには二人ともデパート部を追い出されることになった。

 その間、残りの一年間はデパート担当を外されて量販店担当となった。当時はダイエーなどの大手量販店とは契約せず、場末の中小量販店ばかりで、販売ルート維持と定価販売のために、安売りや乱転売を避ける目的だけで契約していた。つまり担当セールスには、売り上げを上げることは期待されず、乱転売の監視や美容部員の管理だけが仕事だった。ということで、超閑職に押し込められたというわけだw

 それでも、安売り商売で有名な地元スーパーの本部役員と、部長が交渉してきて、低価格商品を500万円分契約してきたから発注しろと言われた。本来なら、部下が売上げ作りのために無理な注文を取ってきたのを、上司が安定取引のためにチェックを入れるというのが筋だが、立場が逆転で、担当者の私の方が納入拒否をしたw

 私を抜きにして誰かに発注させたようで、商品課では課員総出で朝まで掛かって出荷準備をしたらしい。ところが支社長(当時は本社待遇の役職で「専務」と呼んだ)が本社と相談した結果、乱売屋として本社まで伝わっていた量販店への納入はストップするように指示されたらしい。朝一番の支社長が商品センターに向かい、課員に事情説明して、徹夜作業で準備した商品を、もとの棚に戻させたということだ。

 後日、支社長室に呼ばれて、「君が納品を拒否したそうだな、立場は逆だがその判断は正しい」と言われたw そんなことで、支社長も部長も、二人を他の部門に出すのはやむを得ないと判断したようだ。結局、翌年からは販売課所属となり、チェインストアと呼んでいた一般契約化粧品店の担当に変わることになる。

2024年12月26日木曜日

#京都回想記#【42.担当店が変わる】

京都回想記【42.担当店が変わる】


 仕事が順調に進み、他社のセールスとも店頭で会話することも多くなった。担当でうろうろしていても、とりたてすることも無いので雑談を交わすことが多い。K社の担当が課長代理というベテランに変わったが、その課長代理と両者のコーナー前での立ち話では、この売り場はおたくとうちで成り立ってるようなもんですな、と彼がいうぐらいで、店の担当主任の影が薄くなるほどメーカーサイドで仕切ることが多かった。

 1975(昭50)年の秋のキャンペーンの時期になると、2年後輩が入社してデパート課に配属されてきた。新規セールスマンをトップ百貨店を担当させて鍛えるという方針で、彼がD百貨店担当になり、私は中堅デパート2店の担当に変わった。京都駅前のM百貨店と、四条寺町のF百貨店で、M店は老舗でゆったりとしたスペースがあるが、駅の乗降客を動員できないで売上げ不振に悩んでいた。F店は店舗規模が小さくて五十貨店と自称し、ファッション衣料品に特化していた。

 売り上げが小さめの2店舗担当となったが、M店が主で、F店はあまり商談も少なめなので、美容部員任せができた。M店は老舗であっても集客力が弱いので、店側の担当従業員も出入り業者に対して腰が低く、フランクに対応してくれて居心地がよかった。M店は会社からも歩いて行ける距離だったので、会社が居心地の悪いときには息抜きに行けるぐらい気楽な場所だった。


 担当店が変わった翌年1976(昭51)年の春のキャンペーンは「恋のミルキーオレンジ」というタイトルで、CMソングはピンポンパン体操という幼児番組で使われた、りりィの「オレンジ村から春へ」だった。化粧品売り場にはイベントスペースがあって、そこで各メーカーが交代でデモンストレーションを行うことになっていた。

'76年春 「オレンジ村から春へ」/りりィ

 あるとき通勤の帰りのバスで、高校時代の同級生とであった。彼は京都の工業系国立大学を卒業したにもかかわらず、脱サラで花の仕入れ販売をやっているという。そこでバスの中で、花を売り出しの企画に使う相談がまとまって、資生堂のデモ期間中は、彼が持ち込んだ鉢植えの花でコーナーを一ぱいにした。それを化粧品の買い上げの景品としたので、結構な売り上げになった。

 秋のキャンペインは、シンガーソングライター小椋佳の「揺れるまなざし」がタイアップソングとなり、すぐにレコードもヒットした。この時も、M百貨店店頭でキャンペーンデモをやったのだが、売り場にはビデオが流せる装置があって、CMビデオなどを流していた。ところが、たまたまNHKで小椋佳の特別番組を放送したのを、美容部員の一人が録画してきて、そのビデオ装置で流したらしい。

'76年秋 「揺れるまなざし」/小椋佳

 店側に、客側に向けて番組ビデオを流したことが著作権法に違反する、との匿名のチクリ手紙が届いた。美容部員はよかれと思って流したのだろうが、私の知らない時のことなので、仕方なしに上司のデパート部長と二人で、NHK京都支局に謝りに行った。先方は「〇〇担当主査」などといった名刺を出したが、一般企業の役職と違う名称を使っているので、どれぐらい偉いのかも分からず、とりあえず二人で頭を下げて帰った。

2024年12月25日水曜日

#京都回想記#【41.新米セールスにも、やっと春が】

京都回想記【41.新米セールスにも、やっと春が】


 年が変わって1974(昭49)年になっても、状況は改善しなかった。さらに百貨店側の売り場改装計画が告げられ、これまで化粧品売り場は一階の入り口に近い一等地にあったのだが、改装ではより奥になってしまう計画であった。それ自体はわれわれ業者側からとやかく言えないので、移動後の化粧品売り場で、少しでもましな場所取りをするしかなかった。

 結局、改装オープンしたのは10月ぐらいだった。売り場はきれいになったが、奥まった分、客足は少なくなった。そして私の仕事も、一向に改善の兆しは見えなかった。沈んだ気分が続いて鬱が再発しそうになり、不安神経症から店に入れなくなって、裏の公園で缶ビールを飲んで誤魔化したりしていた。

 状況が一気に好転したのは、翌、1975(昭50)年の春のキャンペーンの時期だった。キャンペーンのタイトルは「彼女はフレッシュジュース」というもので、口紅にオレンジカラーを訴求しているが、コピーとしては陳腐に感じた。しかしリリィの歌うCMソングは、私にとっては、やっと春が来たという心情を思い起こさせるものとなった。

 状況が変化した要因は、なによりもチーフを変えてもらったことだろう。それまでのチーフを「ビューティコンサルタント」として名目上格上げして、他の店のサブチーフをしていた一歳若い美容部員を「チーフ」に抜擢した。元チーフも同じ売り場の仕事だから、新チーフの彼女にはやりずらかっただろうが、キリっと売り場を仕切って、こちらの指示もその意図をくみ取ってきちんと進めてくれた。

 「彼女はフレッシュジュース」のCMソングは、CMの一節しか流されなかったが、CM放映後、問い合わせが殺到したため、あらためて「春早朝」としてレコード化された。その後、化粧品などの「CMソング」は、企画段階からレコード化を前提として「イメージソング」として発表されるようになった。以後、毎年のようにCM曲からヒット曲が生まれるようになった。

'76年春 「オレンジ村から春へ」/りりィ https://www.youtube.com/watch?v=3RqhWFof2qc
'76年秋 「揺れるまなざし」/小椋佳 https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=0nlgE9xXN10
'77年春 「マイピュアレディ」/尾崎亜美 https://www.youtube.com/watch?v=RMSboqQFRko
'77年夏 「サクセス、サクセス」/宇崎竜童&ダウン・タウン・ブギウギ・バンド https://www.youtube.com/watch?v=cD7msuJ30Ac
'78年夏 「時間よ止まれ」/矢沢永吉 https://www.youtube.com/watch?v=h0RYKKIE6mM
'78年秋 「君の瞳は10000ボルト」/堀内孝雄  https://www.youtube.com/watch?v=T_ifzSFB2E8
'78年冬 「夢一夜」/南こうせつ https://www.youtube.com/watch?v=sJAlsZJKNS0
'79年夏 「燃えろいい女」/ツイスト https://www.youtube.com/watch?v=kI0GumeVcTg
'79年秋 「微笑の法則」/柳ジョージ&レイニーウッド https://www.youtube.com/watch?v=IgCQzCms2qk

[Shiseido commercials in 1970s]

 当時、資生堂の宣伝広告費が100億円前後、レコード業界全体のの宣伝広告費がほぼ同じの100億円前後で、つまり、全レコード会社の宣伝広告費が資生堂一社の宣伝広告費に及ばないというわけだから、タイアップ企画の曲がヒットするのは間違いなかった。だがしかし、オイルショックの後には高度成長は終局を迎え、CMのヒットは、一向に化粧品の売り上げに寄与することはなかった(笑)




2024年12月23日月曜日

#京都回想記#【40.やっと営業に出たけれど】

京都回想記【40.やっと営業に出たけれど】


 1948(昭73)年8月21日から、資生堂では秋のキャンペーンが始まった。この年は「影も形も明るくなりましたね。目」というタイトルで展開された。春のキャンペインはリップスティック、秋はアイメイキャップとほぼ決まっていた。ちょうどこの時点で、営業部に配属されセールスマンとなった。

CF「図書館」杉山登志

 セールスマンといっても、あちこち飛び込み営業するわけではなく、販売契約を結んでいるチェーンストアを巡回する、いわゆるルートセールスである。ただし自分は百貨店を担当するデパート課に配属されたので、京都で売り上げトップだったD百貨店の担当になった。チェーン店なら20店ぐらい担当するのだが、大型百貨店なのでたった一店の専属担当みたいになった。

 売り場の資生堂コーナーは柱巻き一区画があてがわれ、接客は資生堂が派遣する美容部員でまかなわれる。チームは10名ほどの美容部員で構成され、そのリーダーはベテラン美容部員でチーフと呼んでいた。それを率いるのが担当セールスということになるが、直接化粧品の接客販売にはたずさわれないので、店側との折衝などもっぱら後方支援の裏方仕事となる。

 当時の化粧品売り場は、一階の奥まったスペースをしめていて、売り場には男性客は皆無で、店側の売り場主任や各メーカーのセールスマンぐらいなので、慣れるまではいづらかった。若い女子ばかりの華やかな職場と思われるが、実際に働くとなるとかなりシビアな世界だった。美容部員たちが働きやすい環境を作るのがセールスマンの仕事だが、こちらは営業に出たばかりで、さっぱり要領が分からない。

 美容部員たちは、担当セールスマンの仕事ぶりはシビアに見つめている。とりわけチーフ美容部員との連携は重要で、彼女との相性が悪いとチームの統率が取れなくなる。セールスに出たところで、店側の担当主任やレジ担当の社員などともコミュニケーションがとれず、起こるトラブルの対処にも慣れていない。それがチーフには耐えがたかったようで、こちらの意向はまったく伝わらない。

 担当セールスの方が指揮ラインでは上位のはずだが、こちらが美容部員に代わって接客販売するわけには行かないので、チームの指揮権は事実上はチーフが握っている。そのチーフとのコミュニケーションが取れないので、こちらの仕事がまったくうまく行かなかった。中堅以下の美容部員は、個別には愛想よく対応してくれるのだが、チーフの目が届くところでは、まったくそっぽを向くのだった。

 そうしているうち年末にかけて、第一次オイルショックが襲って来た。ティッシュの買いだめ騒動だけではなく、化粧品も品切れを起こし、店頭に並べる化粧品も無くなった。もはや売り上げノルマ達成どころではなくなってしまった。品切れ商品をなんとか調達してくる要領も得ず、新米セールスマンは右往左往するばかりだった。