京都回想記【40.やっと営業に出たけれど】
1948(昭73)年8月21日から、資生堂では秋のキャンペーンが始まった。この年は「影も形も明るくなりましたね。目」というタイトルで展開された。春のキャンペインはリップスティック、秋はアイメイキャップとほぼ決まっていた。ちょうどこの時点で、営業部に配属されセールスマンとなった。
CF「図書館」杉山登志
セールスマンといっても、あちこち飛び込み営業するわけではなく、販売契約を結んでいるチェーンストアを巡回する、いわゆるルートセールスである。ただし自分は百貨店を担当するデパート課に配属されたので、京都で売り上げトップだったD百貨店の担当になった。チェーン店なら20店ぐらい担当するのだが、大型百貨店なのでたった一店の専属担当みたいになった。
売り場の資生堂コーナーは柱巻き一区画があてがわれ、接客は資生堂が派遣する美容部員でまかなわれる。チームは10名ほどの美容部員で構成され、そのリーダーはベテラン美容部員でチーフと呼んでいた。それを率いるのが担当セールスということになるが、直接化粧品の接客販売にはたずさわれないので、店側との折衝などもっぱら後方支援の裏方仕事となる。
当時の化粧品売り場は、一階の奥まったスペースをしめていて、売り場には男性客は皆無で、店側の売り場主任や各メーカーのセールスマンぐらいなので、慣れるまではいづらかった。若い女子ばかりの華やかな職場と思われるが、実際に働くとなるとかなりシビアな世界だった。美容部員たちが働きやすい環境を作るのがセールスマンの仕事だが、こちらは営業に出たばかりで、さっぱり要領が分からない。
美容部員たちは、担当セールスマンの仕事ぶりはシビアに見つめている。とりわけチーフ美容部員との連携は重要で、彼女との相性が悪いとチームの統率が取れなくなる。セールスに出たところで、店側の担当主任やレジ担当の社員などともコミュニケーションがとれず、起こるトラブルの対処にも慣れていない。それがチーフには耐えがたかったようで、こちらの意向はまったく伝わらない。
担当セールスの方が指揮ラインでは上位のはずだが、こちらが美容部員に代わって接客販売するわけには行かないので、チームの指揮権は事実上はチーフが握っている。そのチーフとのコミュニケーションが取れないので、こちらの仕事がまったくうまく行かなかった。中堅以下の美容部員は、個別には愛想よく対応してくれるのだが、チーフの目が届くところでは、まったくそっぽを向くのだった。
そうしているうち年末にかけて、第一次オイルショックが襲って来た。ティッシュの買いだめ騒動だけではなく、化粧品も品切れを起こし、店頭に並べる化粧品も無くなった。もはや売り上げノルマ達成どころではなくなってしまった。品切れ商品をなんとか調達してくる要領も得ず、新米セールスマンは右往左往するばかりだった。
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